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ロジック・ワールド
作:沙堂 瑠々亞



第二章 7


 先を歩く小森沢の歩調は、どう見ても一緒に話がしたいとは言えなかった。少なくとも、相手を気遣う歩き方じゃない。白衣の裾を(なび)かせ、僕にはついてくるなと言わんばかりの速度で先を歩く。
 誰も居ない廊下を競歩で追いかけていくと、つと、ある地点で小森沢の足が止まった。
 蛍光灯の青白い光が差し込む空間。観葉植物が仕切り代わりに置かれ、ソファが円形状に並べられている。備え付けられたテレビも、稼動している自動販売機も、無機質に見えた。「(いこ)いの場」……安易な名称の看板が掲げていたが、憩いどころか、その場所は気が滅入りさえした。
 こんな人気のない場所まで連れ出して、何を話すって言うんだ。僕は小森沢の様子を後ろから窺う。自動販売機の前に立った小森沢は、チップカードを差し込んでボタンを押した。烏龍茶缶が連続して出てくる。「こんな人気のない、」――思っていたことがそのまま小森沢から聞こえてきたので、ぎょっとした。「…所もたまには役に立つな」
 片方の缶を取り出すと、僕に手渡してくる。
「適当に座ってくれていい。手短に話したいのでね」
 向かい合わせに小森沢と座る気にはなれなかった。プルタブを開けると、きつい茶葉の香りが漂う。僕はやや右にずれてソファに凭れかかり、押し黙った。
 出来ることならこの男の顔は二度と見たくなかった。昨日の今日で平穏に話せるほど、僕はまだ人間出来ちゃいない。何を言われるのかと黙って俯き、時が流れるのを待つのでやっとだったが、それでも奴がこんな事を言うので、顔を上げるしかなかった。
「家族の方々は元気かい」
 元凶のあんたがそれを言うのか。頭が冷めていく気がした。強制的に脳を冷却された、とでも言えるだろう。血が上るのを通り越して、僕は冷えた。黙ってこの場を過ごそうとしていたが、小森沢は僕をそうさせておくつもりはないらしい。逆上させるつもりだろうか。いいよ、乗ってやる。烏龍茶を一口飲むと、僕は平然として答えてやった。
「いつもと変わりないですよ。それがなにか」
「家族の方から耳にするからね。君が物分り良くて、助かっていると」
「生意気だから諦めてるんですよ。それだけです」
「聞けば、君には弟や妹は居ないそうじゃないか」
「よく言われるんですけど、そんなに末っ子には見えませんか」
「――おにいちゃん、とは君が呼ばせたのか」
 眼鏡が光る。唇の端は動いていたが、瞳が笑っているかどうかまでは判別がつかない。言わんとしていることが分かった。奴らしい話の運び方に、いっそ清々しさを感じる。
「聞きたいのは単純なことだよ。樋口 春華――あの患者の病室に、なぜ君が居たのか不思議だったのでね」
「僕のことが気になりますか」
 生意気な口を叩いてみせたが、小森沢は動じるどころか肯定してみせた。 
「ああ、彼女は面会謝絶中だった。部外者が居て発作が起きなかったのが奇跡に近い」
 面会謝絶中? …発作? どういうことだと、僕は頭を巡らせた。そんな立て札は扉に何も書かれていなかったはずだ。小森沢は鎌を掛けているのか。それなら僕が動揺する必要は無い。落ち着けと平静を装いもう一口飲んだ。苦い味のはずが、水を飲んでいるようだった。
「発作といえば、私は昨日の件で君に言っておかなければならない」
 そこで小森沢は一旦春華の話題から離れて、さも心配そうな声を出した。
「お母さんがあれほど君に拒否反応を示すとは…内的要因を把握しきれていなかった面は、否めない。それに話の趣旨が伝えきれていなかった。結果的に君を傷つけてしまったことになったね」
 やっぱりこいつは大した詭弁(きべん)を吐いている。あの時、僕をすぐさま病室に向かわせて、それで把握しきれていないだの、趣旨が伝えきれていなかっただの、言えるはずがない。 僕は昨日の、兄さんが出て来る時に聞こえてきた会話を思い出していた。廊下に蠢く二つの影。あのひととのやり取りを監視していたのは、父さんと、主治医の小森沢。僕ははっきりと聞いたのだ。「まだ早かったみたいですね、筺崎さん」……淡々とした口調の中に、事態を見通していたかのような奴の声を。考えろ、わざわざ僕を連れ出して話そうとしたこいつの真意は何だ? 家族のことを持ち出してきたかと思えば、春華の容態を持ち出して、それからまた僕の母親の話に展開させて……春華のことが聞きたいんじゃなかったのか?
「そう。ますますやり甲斐があると示してくれたよ」
 耳に酷く冷えた声が聞こえ、僕は言葉を失った。
 小森沢が立ち上がる。いつの間にか奴は中身を飲み干して、空の缶を持て余していた。僕に向かって歩き出す。僕は一瞬震えた。今の鋭い物言いは――小森沢が言ったのか。
「私は君のご家族に感謝しているんだ」小森沢は僕の隣を通り過ぎるとき、感慨深く言った。「またと無い良い機会を与えてくれた。患者は珍しくも将来性が見込める症例といっていい上に、家族も医師に肯定的だ。このケースは、成功すれば将来指針のひとつになりえるだろう」
 小森沢が缶を箱に落とし入れる。缶同士のぶつかる音が、耳を掠めた。動悸がする。小森沢を見ることが出来ない。考えろ、将来性の見込める患者と、医師のやり方に肯定的な家族…、行うのはショック療法だ。鍵を握っているのは、患者が拒否する片方の子供……けれどその子供は病院に来ようとしない。療養を行うには騙して来させる必要があったが、昨日の『治験』は、子供が逃げ出したことで中断となった……
「けれど君は…『治験』そのものを拒否しようとしているね。お母さんが治る手助けをしようとは思わないのかな。お母さんを放って…君はどこの病室に通っていたのかな」
 ショック療法、プレイ・セラピー、子供を拒否する患者、治そうと奔走する父親、亀裂している家族。上を狙って論文を書き上げようとしている奴には、もってこいのいいケースじゃないか。奴は春華と僕を追及したかったわけじゃない。保身と昇格の野心しかない小森沢の言わんとしているのは、恐らく――
 やりかけの『治験』を続行させるための、脅迫に近い提案。
「私はこうも言わなくてはならなくなる。面会謝絶中の少女の病室に押し入った少年……目撃者は患者と、君と、医者と看護師だけ。……一般の人は誰を信じるだろう」
 不気味に光る眼鏡を睨みつけ、僕は震えを悟られまいとして毅然と振舞った。
「何が言いたいんですか」
「物分りのいい君なら見当がついているはずだろう? 樋口春華に会うことを許可してもいい、私はそう言っているんだよ」
「……つまり取引き、ってことですか」
「そう捉えても構わないけれどね」 
 僕に拒否権は無かった。
「分かりました」
 満足そうに白衣が翻る。眼鏡を人差し指で上げる仕種を見せつけ、小森沢は立ち去った。味のしない烏龍茶だけが僕の手に握り締められている。遠くなる。小森沢も、天井も、明かりも、意識も、手にした缶さえも――。












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