第二章 6
僕を真っ直ぐに見据えている双眸の輝きが、ふっと消え失せた。目の筋肉が柔らかくほぐれていく。……笑った? 不安に煽られた気持ちが解けたのも束の間だった。
「驚いたな」
その時になって気がついた。彼女の焦点が僕に定まっていたのではないということに。
春華が見ていたのは、僕ではなく、僕を通した後ろ――ドアにいる誰何だったのだ。
聞き覚えのある歯切れが良いその声に、僕は凍りついた。ドアが開いているのに気がつかなかった。銀の縁のある眼鏡――太陽の光で反射して、眼の表情が読み取れない。奴は春華と僕を交互に見ると、さも驚いてもいるかのように繋げた。
「君がこんな所に居るとはね」
ドアから風が吹き抜け、奴の着ている白衣が足元ではためいている。眼鏡を上げる仕種をすると、僕を見下ろした。威圧を感じたのは、奴の身長が高いからだけではない。……小森沢。母親の主治医だ。トラウマになってもいいくらいの昨日の一件。人を勝手に実験台にするような医者だ。父さんを扇動して、僕を連れてきて、挙句の果てに、子供だからまだ分からないんだろうとかなんとか言ってのけた首謀者……
自分が思うよりずっと険しい顔を相手に見せていたに違いない。けれども小森沢は意に介せず、表情の読めないフィルターの眼鏡を掛けて、僕を眺めた。
入ってきた小森沢に続いて、廊下に誰かが立っているのが見える。さっきの新米看護師だった。手にはカルテを持っている。……他の病室に居るんじゃなかったのか? 看護師はずいぶん萎縮した様子だった。小森沢に告げる。
「先生……この方が、樋口さんのお知り合いだと」
「ふうん」
さっきいなくなったのは、僕が居ることを小森沢に言いに行ったからだろうか。でもどうして小森沢が出てくる? 春華と小森沢は知り合いなのか? 考えが交錯しても何も始まらなかった。小森沢は看護師の解説を間延びした一言で聞き流すと、此方へ歩み寄ってくる。よく見ると、小森沢は白衣にボタンを一つも掛けていなかった。どうりで足元で長い白衣が揺れ動いていたわけだ。きょとんとしている春華に近づき、小森沢は訊ねた。
「春華ちゃん。この少年が誰か、知っているのかい」
僕を一寸も見もしない。威圧的でも無関心でもない、どちらかといえば医者らしい穏やかな言い方だったが、僕にはやや揶揄に聞こえた。少なくとも担当している患者の家族で、昨日の『治験』のいざこざを起こした僕の名前くらい分かるはずだ。それを名前ではなく「少年」と二人称で呼びつけたところに、小森沢の意向が伺える。
知らないと彼女が言えば、即つまみ出そうとでも考えていたのだろうか。けれどそこでふと思った。春華は僕の名前を知らない。おにいちゃんと勝手に呼んでいるだけで、僕は自己紹介もしていなかったのだ。小森沢の言い方はまるで、「名前」を春華に聞いているようで、素直な春華が実直に答えるのは訳ないことで…誰々、と呼ぶことが出来なければ、僕は多分小森沢の奴に――
「うんっ。おにいちゃんだよ」
僕の心中も察することなく、春華は自信満々に答えた。
「おにいちゃん…?」
鸚鵡返しのように小森沢が呟く。視線が此方を貫いていったようだった。眼鏡が光り、僕と対峙してくる。応戦する間も無く、小森沢はふと僕から目線を外した。
「そうか。彼が、いつも言っていた『おにいちゃん』か」
低く漏らした声だった。含み笑いをしていたのか。僕を哂っていたのか。
「それはよかったね」
何を考えているのか読み取れない。焦っているのか。不安なのか。優越感に浸っているのか。子供だと舐めて見ているから、僕には世間の大人の動向を分かってきたのに。この男だけは例外だった。……気に喰わない。何より、あのフィルターを掛けた眼で突き刺されるのは、居心地悪い。
「でも今は眠る時間だったろう。薬を飲んだ後は体を休めておかないといけないよね」
「ん……だけどはるか、まだ眠くないよ」
「そう言っていると熱がぶり返してしまうよ。熱が出たら、外にも遊べに行けなくなる」
後ろで、部屋に入れずじまいだった看護師が小森沢に声を掛けた。
「あ、せ、先生」
「報告を有難う。何ら問題は無いよ。砂金医にも報告無しでいい」
小森沢は廊下にいる看護師に向かって、振り返らなかった。言葉を遮り、背中を向いたまま答える。行き場をなくした看護師の手が、宙で泳ぐのを見た。
鋭い凶器が飛んできたのは、その刹那のことだ。
「譲くん」
取ってつけたような曲げた唇を見せて、奴が僕を呼んだのだ。
「私も是非君と話がしたい。一緒に来てくれるかな」
言葉にも威力は感じられなかった。傍からも優しい物言いに聞こえただろう。
小森沢が微動し、奴の眼鏡から光の反射が失せた。相手の目の奥がはっきり見える。
途端、僕は射貫かれてしまった。ナイフの切っ先のような、相手の凶器で。
声や表情からは微塵も感じさせない、ただその一点に感情を凝縮したような奴の目で。
奴は、瞳が少しも笑っていなかった。それが僕への感情の全てだと理解した。
「おにいちゃん。こもりさわせんせい…」
「春華ちゃん、今度おにいちゃんに本を読んであげるといい。その時の本を選んでおこう」
あくまで優しく小森沢は告げた。
「ほんと。ねぇおにいちゃん、また来てくれるの」
声が出ない。どうしてだ。僕の中で何かが蠢いている。振り解け。捩じ伏せろ。けれど足が竦んでしまった僕は、そのまま動けない。ぎらつく刃物の瞳が僕を突き刺す。押しつぶされる。……誰も、何も、僕を見透かすな。
開ききった瞳孔を動かすことが出来なかった。小森沢の瞳も、春華の純真な目さえ見られない。僕は怯えていたのだ。断る理由が君にあるかい。頭の中で置き換えられた小森沢の言葉が、抗えない現況をはっきり示していた。 |