第二章 5
まったく、砂金に見つからないだけましだったけれど、今の看護師との対面には心臓が縮みあがった。
朝の樫野の突撃訪問といい、もう少し心臓に毛を足さないとやっていけないかもしれない。
「『いったいお前は、どこの何者だ?』」
気が緩んだ瞬間、出し抜けで言われた一言に僕は瞬いた。
言ったのは春華だった。ただ言葉と表情が噛み合っていない。にこにこと笑って人差し指を向けてくるのだが、それにしても唐突だ。
僕が何と言えばいいのか繋げられないでいると、春華はベッドの脇の机に置かれた本を指差した。看護師が拾い上げて置いたものだ。看護師いわく、春華のお気に入りの赤い装丁の本。ああやっぱり、と思った。芝居がかった口調は、あの本の台詞から抜き取ったものだ。
「おにいちゃん、読んでくれた?」
目を幼い少女そのままに輝かせる。入院生活はよほどつまらないものなのか、訪問者は誰であろうと歓迎されるらしい。面白かったでしょ、と断定的にその本の評価を僕に求めてきたので、僕は曖昧に返答した。本当は触り程度に知っているだけの物語だ。きちんと読んだこともない、読まなくても分かる子供向けの童話。けれどその答えに満足したのか、春華は内容を話し始めた。
相槌を一つすると、彼女は喜んで十続けて話す。最初はいつ話を切り上げれば帰れるだろうか、看護師は来ないだろうかなどと落ち着かなかった僕も、そのうち淀みなく喋る彼女に引き込まれていた。
「それで海賊もいるし、人魚もいるの。ずっとおとなにならなくていいんだよ。いいでしょ、インディアンと毎日冒険にでかけるの」
話をすることに夢中な彼女は、屈託なく笑う。それを見ていると、こちらまで緊張が解けていった。相手を窺う神経を使わないで喋れた。二つ三つ先の会話を探る必要もこともなく、作り笑いをすることもなかった。
「はるかはいつ、そらが飛べるようになるのかなあ」
そう春華が呟いたのは、妖精の粉がどうの、二つ目の角を右に曲がるとどうのこうの、と説明していた時だった。
何気ないその一言が、単なる空想を馳せたものではないことに、気が付いた。
不安と期待と希望。怪我を治そうとしている誰しもが持つ、感情。彼女は本当に信じていたたのだ。自分の怪我が治りさえすれば外を歩ける、思い切り走り回れるとでも言うように。
「ねぇおにいちゃん」
外の穢れた空気など知らないだろう弾んだ声で、春華は僕を呼んだ。相槌を打たないだけで、二人しか居ない部屋はしんと静まり返る。
まるで妹が兄に雪をねだるような口調で、彼女は言った。
「はるか…連れだしてくれる?」
――どこへ?
何か返そうとして、言葉を飲み込んだ。
つくりものの世界など知らない少女。幻想と現実の区別がつかない幼い子供。
鮮やかに映る。白い部屋、白い壁、無味乾燥の色のない空間で、春華の下ろした黒髪だけが鮮やかに映っている。触れたら自分は、彼女は、どうなってしまうのだろう。上体をかがめると、僕は知らずその髪に触れていた。手櫛で撫でていくと、指に絡みつくことなく解けていく。
微笑を湛えて、桜の下に居た彼女の姿を思い出す。たおやかな仕種で、桜の下から花を見上げていた彼女のことを。舞う桜のせいで、背中に羽根の幻影を見ていた。
胸が唐突に痛んだ。
一日前の出来事だ。彼女の名前を知ったのも、おにいちゃんと呼ばれたのも。
本は返した。居ても何もならない。これで僕は立ち去ればいい。
けれど――何なのだろう、この、胸に引っかかっているものは。
髪を梳く手が震えていた。
彼女は、真綿のようだ。生温かい感情で包まれた、真っ白い色の。
「出来ないに決まってるだろ……」
馬鹿げた話だ。
きみが信じている、天使なんていない。
きみが夢見ている、場所なんて、ない。
僕は、君を連れ出せる人間なんかじゃないんだ。
「――ならどうして、」
そこで僕は手を離した。視線を下に戻す。擦れた声を耳にしたからだ。ふいに茶褐色の瞳と眼が合って、たじろいだ。吸い込まれてしまった。
だったらどうして、あなたのほうが苦しそうなの。
それは、確固たる意志を持った瞳だった。あまりに透き通っていて真剣だった。それならどうしてあなたが苦しそうなの。なぜあなたが苦しそうな目をしているの。物言いたげなそれは、ただ僕の発した言葉を否定しているように思えた。その目は突き刺すほどの力を持っている。直ぐに捉えられ、身動きが出来なくなってしまう。色素の薄い瞳が、僕の姿をぼやかして映している。
「はる…か」
一歩引き下がり、僕は呻きのように呟いた。七歳の少女が、あんな意志のある瞳をするはずがなかった。思慮深く年を重ねなければ、ひたすらに訴えるあの輝きを持てるはずがなかった。
何かを髣髴とさせた。
そうだ。どうして思い出さなかったのだろう、彼女と初めて会ったのは、昨日じゃない。学校の裏庭で――彼女は白い服を着て、上着を羽織って、何故か裸足だった。僕のシュートの手つきが綺麗だと云った。桜が嫌いな僕を諭した。僕の頬についた花びらを咥えて、微笑んでいた。人を引き付けて離さない眼を見せて。――あれは誰だった?
再び出会った少女は、十七歳でありながら、七歳ほどの小さな女の子として生活していた。天真爛漫にはしゃいで、きらきら目を輝かせて。――あれは誰だった?
記憶の中の少女の顔と、目の前の無心に微笑む少女の顔とが重なる。
違和感があった。僕はもう一度誰かに問う。――それなら、あの時出会ったのは誰だった? 春華が幼い少女の状態であるというのなら……あの時、校庭で僕が出会った春華はなんだ?
今そこに居るのは、誰なんだ……? |