ロジック・ワールド(14/30)縦書き表示RDF


ロジック・ワールド
作:沙堂 瑠々亞



第一章 9


 追い出されるようにして廊下を歩き出した僕は、今受けた言葉を反芻する。
 試してごらん?
 ……なにを?
 頭が回った。階段を上がり、廊下の両側にある部屋を通り過ぎる。白い壁に付けられたドアは、どこもかしこも閉じられていて、上部に取り付けられた小さな窓にもカーテンが掛かっている。静かな空間に時々笑い声が聞こえる。それが患者の独り言なのか、看護士との喋り声なのかは判断が付かなかったけれど、時折静まり返るこの空間は、自分の靴音のみ現に聞こえるようだ。
 いったいどうして主治医があんなことを言ったのか……また父さんとどうして同じことを口にしたのか。考える暇も与えられないままに、僕の足は不意に止まった。部屋の前のプレートを確認する。
『7560号室・筺崎 ほずみ様』 
 もうずっと、ここには来ないと決めていたのに。 
 病院に入るよりずっと躊躇った挙げ句、僕は意を決してノックをした。白い戸は鉄よりも木に近い音を出す。小森沢の部屋をノックした時はやや間があったけれど、今度はすぐに返事が返ってきた。
「はい、どなた」
 柔らかい声だった。僕は慌てふためき、どうしていいか混乱する。でも声から察するに、状態はそれほどヒステリックな感じでもない。今なら落ち着いて言えるのだろうか。
「あ、あの……」
 何と話しかけたらいいのだろう。第一声が分からない。しかし今の口ごもった声は、部屋の中には届いていないらしく、先ほどと変わらない口調が返ってくる。
「雨宮さん? それとも小森沢先生かしら? 私、今日はとても気分がいいのよ」
「か……、」
 試してごらん?
 リバースしてくるのは、よりにもよって、耳から離れないあの小森沢の言葉。
 心臓が痛いほど鳴り響いてくる。試す? 何を? 震える拳ではそれ以上ドアを叩けない。母さん、見舞いに来たよ、たったそれだけの言葉が口に出せなかった。母さんが僕を本当はどう思っているか? 本当に悪影響なのかどうか? 考えても次の行動に身体が出せないのだ。あなたはお母さんに何が出来るの。あの看護師の台詞もしきりに僕を発破かけていた、でも、何を言ったらいい? 僕をいつも拒み続ける母さんと、どうやって誤解を解けばいい? 母さんは僕を本当に必要とするのか?
「っかあさ…」
 どうしたら僕は、認めてもらえるんだろう。
 ありったけの声を出そうとしたのに。僕の口からついて出たのは、蚊の鳴くような、ほんの一握りの、絞り出した呼びかけだった。
「かあさ……」力なくうなだれる。ドア一枚の壁がこれほど隔たっているものだとは思わなかった。ドアに額をくっつけ、握った手を添える。 
「……ぃ」
 はっとして、額をドアから離した。ドアの向こうで名を呟いてくれたと思ったから。
 けれど沈黙の後で、ドアの内側からはこんな弾んだ声が返ってきたのだ。
「…… さとい…ねぇ、慧なのっ」
 それは明らかに、僕の『兄』に対する呼びかけだった。
「来てくれたのね、お母さんすごく嬉しいわ…」
 母さん?
「ほんとうに自慢の息子よ、慧は」
 僕も。貴女の子どもは兄さんだけじゃない、
 僕も、いるんだよ?
「早く入ってきて――顔を見せて頂戴、」
 僕はおもむろに扉を開けていた。金属ドアの開閉する高い音。無意識だったと言ったら、誰も僕を責めないだろうか。そのまま無言で立ち去ることもできただろうに、こちらが誰だが分かっていない母さんの声を聞いて、僕は部屋に入ってしまっていた。  
「慧?」
「違うよ…母さん」
 母さんと僕の目が合う。顔から、相手の穏やかな笑顔がふっと消えた。不意打ちの訪問者に驚いたようだ――無理もない。ぱたぱたとそよぐ窓辺のカーテンの音だけが響き、白い病室の世界は瞬く間に他の色を失くしていった。
「あ……」
 何かを言いかけた母さんは、僕を茫然として見上げる。手が宙を彷徨った。これは僕に差し出された手なのだろうか。その手を取ってもいいんだろうか。存外に細く骨筋張った手の甲を見つめ、僕は逡巡した後に、両手を添えようとして、止めた。
「あな…た…っ」宙ぶらりんのその手が、かたかたと震えだしたからだ。落ち着きあった顔は、予期せぬものに出会ったみたいな余裕の無い表情に変わる。
「けいじゅ……」 
 たった一言、でもはっきりと口にしたその言葉が耳に焼きついた。












ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう