第一章 7
あれから、どれくらいの時間が過ぎたんだろうか。春休みが入ってから時計を身につける習慣がなくなった僕は、あの看護師が過ぎ去った後もまた中庭を眺めている有様だった。
それもこれも、あの砂金とかいう看護師のせいだ。ほとんど初対面の相手からあんな事を矢継ぎ早に言われたものだから、僕はたいそう気分が滅入っていた。憎らしいことに、今でもあの看護師に言われたことが余韻で頭に残っている。
「なんなんだよ…あの女っ」
病院に行く時間は十時から十二時までの間ならいつでもいいと言われていたが、とっくに太陽は下り坂になっている。不機嫌になった僕は、空を仰ぐのをやめた。こんな時は代わり映えのしない青空さえ、憎らしく感じた。
「……」
ひらひらと桜の花びらが掠めていく。そこになぜか羽が混じっていると見間違えた僕は、自分が何でまだこんな所にいるのか、疑問に思った。あの看護師に面と向かって言われた以上、それを建前にして帰ることだってできたはずだ。病院関係者のくせに出しゃばったとあれのせいにすれば、もう僕がここに呼ばれることだって無いかもしれない。
それなのに、ここにまだ突っ立っているのはどうしてだろう。
考えるまでもない。おかしなことに、僕はさっき出会った七号棟患者の少女の言葉が、ずっと頭から離れられなかったのである。「さっき言ったこと、わすれちゃダメだからね!」と彼女は念を押した。その奇妙なやりとりが、頭のどこかでリフレインしていたのだ。
無邪気に笑う彼女は、自分のことを天使といって憚らなかった。籠の中の鳥、あるいは翼という自由を奪われた天上の使い。いつでも羽ばたいていけるような何も着飾らない格好で、散りゆく桜をいとおしそうに見上げていた。幻でも羽根が見えてしまった僕に対して、やっと秘密を打ち明けられたと笑ったのだ。
勿論そんな天使とかいう虚構を、僕だって鵜呑みにするわけがない。あのプレートを付けているかぎり、彼女は七号棟の患者だからだ。それなのにどうしてだろう、僕はまだ信じられなかった。今になって冗談でしたと言われてもあっさり享受出来る自分がいる。僕が初めて会ったとき、彼女が年相応以上に落ち着いていたからかもしれない。いや、自分の中での彼女と、さっき会った少女とのギャップが、あまりに激しすぎるからだろうか。
……あれ、でも…?
そこで僕は考えてしまう。そういえばあの少女と初めて会ったのは、学校だったはずだ。
どうして彼女はあんな校庭なんかに居たんだろう? 確かにここの病院からあの学校までは遠くないけれど、近いと言うほどでもない。今日と同じ白いスリップドレス、それに裸足で…七号棟が、そんなに外界と自由に出入りできるとは思えない。
…まさか、『翼』で…?
そこまで考え、僕はばからしいと頭を振った。いくらあのときの彼女が落ち着いていたといっても、翼があるなんてお伽話であることには変わりない。
『ほら、あなたの頬に…花びらが付いてる。』
どくん。
けれど、彼女の言葉を思い出した途端、僕は何かがサイレンを鳴らしているのに気づく。
『……連れ出してくれるひとを、ずっとずうっと探してた』
どくん、どくん、どくん……
…何処、へ……?
先程の少女の姿が思い起こされる。桜の下、花びらを名残惜しそうに見ながら手をさしのべる少女。思い出した今も鳥肌が立っている。まるで淡い幻のようだ。どこか現実味のないものを見た気がした。妖精を見たというべきか。それこそ、天使でも目の当たりにしたような、不可思議な感覚だ。
…なんなんだ…?
少女のあの顔は、いつかどこかで見た絵画と同じ表情だった。貝の中から目を覚まし、御遣いから祝福を受ける女性。白百合の花が咲き乱れるなか、女性はたおやかな肢体をくねらせて翳りのある微笑を浮かべていた。作者も題名も、絵の全貌すらはっきりと思い出せない。いつどこで見たのだろう。なぜ絵画の女性が少女の表情と結びついたのだろう。
曖昧な記憶。逃れられない。忘れようとしているはずなのに。
『すれ…ちゃ……』
それまで自分が、見ようとしていなかったもの。
耳を塞ぎ、目を閉じ、口も開こうとせず。
頑なに進入を拒み、ただ自分を護っている。
『忘れちゃ駄目よ、譲』
なのに、記憶は蘇る。意思とは関係無しに、思い出してしまう。
いつか誰かに言われたことまで、彼女の姿と一緒にリバースされていく。
『あなたは私のものだもの……』
産まれてから、幾度も過ぎった、
この、
………胸くそ悪い……感覚を。
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