第一章 6
「勘で言ってみただけだったけど、当たったみたいね。よく似てるもの、あなた筐崎さんの息子さんでしょう? いまさら、何の用なの」
言われたことを理解するのに数秒かかった。初対面の看護師に、知ったような口を聞かれたのだ。中庭の木々がざわめく音しか聞こえない――僕は自分が思ったよりもかなり動揺していることに気が付いた。
知った患者の姿でも居たのだろう。看護師は僕たちの会話には気付いていない遠くの人影を見送る。姿が見えなくなると、キッと棘を刺す勢いで、僕に視線を戻した。
「――あなたとさっき一緒に居た子はね、まだ七歳なの」
先ほどの少女の笑顔が脳裏に浮かんだ。
「本来の年齢の身体から心が離れてしまったのよ。家族も誰も来ないまま、ひとりでいる」
「あの、僕は、」
「あなたは母親に何が出来るの」
と、その看護師は確かに言い放った。
僕を侮辱した目で。穢らわしい物を見るような目つきで、…あの女と同じ様な目つきで。
「生半可な気持ちでここに来ているのだったら、帰りなさい」
その一言が、決定的だった。
叩きつけられた。
遠くで桜が舞っている。こんなにも陽気な空と、僕の居る場所が噛み合わない。
僕は、必死だった。凍ってしまったこの場所で、必死に逃げようとしていた。
どうしてそんなことを言われなくちゃならない?
お兄さんとはあなたは違う、お母さんに対して何もしていない、そんな当人しか分からない事情を、軽々しく言い放たれたようなものだ。頭の中では、憤怒と、誰も分かってくれないのだという絶望に近い予感が過ぎて、交互に絡み合っていく。まるで自分自身を全て否定したような言い方をされて、打ちのめされた。
無性に腹立たしく、無性に寂しかった。
「な……」
途端に殴りたくなる気持ちを必死に噛み殺し、一言、奥から声を絞り出す。僕にできるのは、看護師と目を合わさぬよう努めるだけだった。
「お、大人気無いんじゃないですか。病院関係者が…子供相手にムキになって」
「大人子供は関係ないわ。何、あなたこういう時だけ子供を盾に使うの。それこそ自分が子供だってことを露呈してない」
「あんた……っ」
鼻先でせせら笑うこの看護師を、どうにかして黙らせたかった。今僕の米噛みには、青い血管の筋道が浮き出ているに違いない。人の一番手を付けられたくない部分に、こうもずけずけと付け込んでくる看護師の気が知れなかった。
「…いい加減にしろよ、オバサン。人が怒るの見て、そんなに楽しいか」
看護師は微動だにしない。却って、僕が挑発に乗ったのをぴしゃりと言い放つ。
「地が出たわね。あなたが言いたいことはそれだけかしら」
不敵な笑みをしたかと思うと、一転して厳しい目つきを向けた。
「今さらのこのこ来て具合が良くなるほど、ここの病棟の患者は軽症じゃないわ」
「黙れよっ」
もう少しで、僕は全部をぶちまけそうになった。
「何も知らないくせに……全部押しつけていいのかよ」
わなわなと震える拳。唇が、怒りで熱くなる。
内側から、何かどす黒い物が溢れ出る。物心ついたとき、僕は母さんと言われる女の人にありったけの罵声を喰らわされた。兄さんだけがわたしの愛する息子だと言って、兄さんだけが分かってくれると言って、僕を穢らわしいと罵った。黒い記憶しかない。どす黒く滲んだものしか浮かばない。
「何が出来るかだって。拒んでる奴に何も出来るわけないだろ、あの女は、僕が来ると嫌がるんだよ」
言うな。駄目だ、これ以上言うな! 自分の感情を抑えようとするのに必死だった。『僕』は母さんなんか要らない。愛情なんか要らないんだ。なのにどうして僕は問いただされるんだろう、批判されなきゃならないんだろう?
そこで看護師がようやく僕から背を向けたのは――凄みを帯びた人間を前に、いよいよ自分が出しゃばっていることに気がついたからだろうか。
「な…によ。そんなに怒ること、ないでしょう」
怒鳴った後にすうっと冷ややかな空気が流れる。
誰も居なかったはずの中庭に、ちらほらと人の影ができるようになっていた。看護師や患者が何事かと覗いては歩いていく。端から見たら、看護師が僕を一方的に虐げているようにでも見えたのだろう。決まりが悪くなって、僕から一時足を引いたわけだ。
こほんと咳払いをすると、看護師は一瞥した。
「とにかく、これ以上あの子に構わないで。 あなたはここに来ないほうがいいの」
それから、と捨て台詞を吐く。
「あなたにオバサンなんて言われる筋合いはないわ。わたしの名前は砂金 縁よ、覚えておきなさい」
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