第一章 5
「春華ちゃん」
にこにこ笑みを湛える彼女を前に、僕はどれくらい呆然としていたのだろう。背後からそんな声が届いて、ようやく現実に帰ることが出来た。
「あっ。ゆかりさんっ」
知り合いの顔を見つけて嬉しかったのか、彼女はぴょんと跳ねて看護師のところへ向かう。
「もう、私のそばを離れちゃダメって言ったでしょう」
「ごめんなさい。桜がすごくきれいだったから、みてみたかったの」
困った子ね、と肩をすくめてみせる看護師に、少女は、でもね、と謝りつつ応戦する。状況が分からない僕は、一体どうすればいいものやら、その場に立ち尽くすばかりだ。声をかけてその場を立ち去ることもできただろうに、少女の態度と端整な顔立ちのギャップが、いまいち把握しきれていなかった。はしゃいでいる年上の少女は、随分と幼稚な喋り方で、明らかに年下の僕を『おにいちゃん』と呼んで……
「でも、はるかねっ。桜じゃなくて、はるかを見てるおにいちゃんに会ったんだよっ」
「ええ?」
嫌な予感がしてきたが、僕が立ち去るより早く、
「ほら、そこのおにいちゃんっ」と声高に彼女は叫んで指を指した。無論、なんの関係もない僕に向かって。
「……おにいちゃんって…」
看護師が僕を見るなり、語尾を途切れさせる。少女の方はというと、ものすごく上機嫌なことこの上ない。まじまじと見てくる視線に耐えきれずに僕が目をそらすと、看護師は少女にゆっくりと話しかけた。
「春華ちゃん。私、とても大事な用を思い出したの。ひとりでお部屋に戻れるかしら」
少女の服の裾がはたはたそよぐ。幾度か瞬きした彼女は、「ゆかりさん」の無理やり微笑んだ顔に気づいたのかいなかったのか、うんと頷き手渡された靴を履いた。くるりと後ろを向いた先には、七号棟の入り口が見える。
「あ」
歩き出して間もなく、少女はきびすを返したように振り返った。長い髪が緩やかな半円を描く。垣間見せた横顔が急にあの時の顔とシンクロしたように見えて、僕はどきりとした。天真爛漫な彼女が眩しく見えたのは、たぶん…一面真っ白な桜とともに視界に入っていたからだ。
「あのね。おにいちゃん、また会える」
初めて自分を解してくれる人に出会えた、とでも言いたかったのだろうか。
……え……?
「さっき言ったこと、忘れちゃダメだからねっ」
呆気にとられて思わず頷いてしまうと、少女は満足したように走って行ってしまった。
後には、僕と、看護師だけが残った。
にぎやかな時間の後は、必ず静寂が訪れるものだ。
「……あなた、どうしてあの子を知ってるの」
最初に切り出したのは、誰であろう、相手からだった。少女に「ゆかりさん」と呼ばれていた人だ。潔癖すぎるくらいの白い白衣を着ている彼女は、腕組みをするなり僕を見て、はあとため息をついた。はっきり言えば侮辱されたようなものだ。僕が眉をひそめると、彼女は敵対心を煽るように話した。
「さっき勝手に話しかけられただけですけど」
僕の発言に嘘偽りはない。強いて言えば、僕から見ればあの少女と出会ったのは、今日が初めてじゃないだけだ。
ふうん、看護師は鼻を鳴らすように答えた。言い分など別に信じていないらしい。
「それがどういう…」
「この病院の特異さは知ってるわよね」
僕の言い分を遮り、看護師は続ける。
「いいえ、七号棟が特異と言ったほうがいいわ。大学病院でもないのに、心療内科・精神科の設備が閉鎖と開放病棟ともに備わっている。独自の体制を作り上げた総合病院の最終病棟。ついたあだ名が――『ホスピス』よ」
ホスピス――緩和医療施設のことだ。死期が迫った患者に延命措置をするのではなく、精神のケアをして全うするのを支援する場所だと聞いたことがある。それが、七号棟に限っての別名? 関係者の間でささやかれている皮肉なのだろうか。
「ここに来ているってことは、あなたも誰かのお見舞いなんでしょう」
看護師は語尾の強さを緩めない。
「お母さんのお見舞いと言えばいいかしら。……筐崎くん」
名前を呼ばれた。予期せぬ人物から自分の名を言い当てられるものほど、体が強張るものはない。僕が行動を静止するのを知っていて、看護師は言ってのけた。
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