15.夢はゆめ、現はうつつ
暗い……というより、もはや視覚がすっぽりと欠落したかのような感覚。
自分がどこにいるのか、立っているのか寝ているのか、暑いのか寒いのか、それすらも分からない。そして嗅覚もまた一切働くことはなく、外界の情報は九割以上が遮断されている。
唯一働く聴覚もどこかぼんやりとしていて、誰かが話しているのは分かってもその人数や内容までは把握することができない。
通常、何の前触れもなくこのような状況下に放り出されれば――『通常』ならまず有り得ない状況ではあるがまあ、そう仮定して――、あまりの訳の分からなさに混乱するものなのであろうが、俺はといえば何故か冷静にこの状況を受け止めていた。
身動きも取れず五感も限りなく制限されているというのに、『これはそういうものなんだろう』と何の疑問も抱かずに甘受していたのである。
――……世界………大…うす………
――だが………、……直………はまだ……
男もいれば女もいる。興奮した若々しい声の持ち主の発言に、落ち着いた渋い声が被さる。何か議論をしているのか。
と、掠れた音声の中に突如はっきりとした声が響いた。
――なんだかんだ言ったところで結局のところ、世界の壁の崩壊はもう止めることはできないと、そういうことでしょう?
驚いた。
その突飛な内容もそうだが、その発言者の声に聞き覚えがあったからだ。
いや、発言者というのもおかしいか。なんせ、その声は――
「おい」
!?
「聞いてんだろ――宮内、雅彦」
*****
「――――――っっ!!」
びく、と身を震わせて目を開いた。視界に飛び込んで来たのは無明の闇ではなく、見慣れた天井とやや黄ばんだカーテン。
心臓は早鐘を打ち、額には汗が粒のように浮かんでいた。掛け布団は大きくずれて今にも床に落ちそうで、羽毛の詰まった枕は頭部の重みでぺったりと固く押し潰されている。
「――ぁ、夢……か?」
呟いてみてから不思議な感覚を覚えた。夢……今のが、そうなのか?
「夢、夢…………夢、ねぇ……」
肺の底に溜まった嫌な空気を吐き出し、額の汗を掌で拭き取る。と、掌も汗でしっとりと濡れていたことに気付いて、改めて枕元のティッシュで拭う。
小学生の頃から使い続けている無骨な時計に目をやれば、普段の起床時間より僅かに早い。とはいえ眠気もばっちり吹き飛んでしまったし二度寝する気分ではない。
某栄養剤のCMのように必死にベッドへしがみつく布団を容赦なく蹴落とし、さらにそれを踏みにじって立ち上がる。
目やにのついた眼を擦りながらクローゼットを開き、黒一色の見栄えしないありきたりな学生服を取り出す。うむ、いつ見てもつまらんものだなこいつは。
「しっかし、まぁ……」
寝間着代わりのジャージを脱ぎ、取り出したアンダーやYシャツに袖を通しながらぼそりと呟く。
「生まれて初めて見た夢の内容が電波ってのはなぁ」
*****
「とまぁ、内容は忘れたが妙ちくりんな夢を見た訳よ」
一時限目の後の休み、那佐と亮二にその話をすると、二人は何か変なものを見るかのような目つきでこちらを眺めた。
「その内容はともかくとして、今まで夢を見たことが無かったというのが信じられないな。ただ覚えてないというだけではないか?」
「いや、マジで見た事ない。小学生の頃、夜にホラー映画を見たときも寝るまではガクブルしてたが気付いたら朝になってたりしたし」
因みに一緒に観ていた里沙はその夜ばっちり怖い夢を見て布団に大きな地図を……いや、何でもない。聞かなかった事にしてくれ。
「でも何でそんな夢見たんよ。フロイト先生に診断してもらったらどうなるんかね?」
「夢診断ねぇ。なんか恐ろしい結果が出そうだから聞きたくねぇな」
五感欠落に異世界だぜ? 『現実に絶望し、全てから逃げ出して殻に篭っていたいと心の奥では思っているのでしょう』とか言われたらショックにも程がある。
「でもまあ、夢なんて大概は出鱈目なもんだろ。女の子にモテモテになったり気を操って空飛んでみたり腕がドリルになったり」
「前二つはともかく、腕をドリルにしてどうすんだよ」
「馬っ鹿お前、ドリルは男の浪漫だろ。墓穴掘っても掘り抜けて、突き抜けたなら俺の勝ち!」
「誰に勝ったんだそれは」
「因みに空を飛ぶ夢は、実は海の中を泳ぐ夢であるという説があるらしい。まあ生物学的に〜だの母胎の中で〜だのという論拠が色々とあるが、真偽の程は定かじゃないな」
「はぁ」
相変わらず淡々と雑学、というかもはやマニアックな話を提供する那佐。一体どこでそういう知識を仕入れてくるのやら。
「夢かー。夢といえば、昔はよくライオンに追い掛けられる夢を見たなー」
「なんだそりゃ」
そして相変わらずしたり顔でアホな話題を提供する亮二。一体どうしてそんな三文の値打ちすらない経験ばかりしているのやら。
「いや、ガキの頃よく親に連れられて動物園に行ったんだけどよ。それで一番気に入ったのがライオンだったんだよ。強いしタテガミがカッコイイと思ってな」
実際のところ、百獣の王ライオンはハイエナから獲物を横取りすることもあるんだぜ、と言ってやろうかとも思ったが、子供の頃の亮二に突っ込みを入れても無駄か。
「そんで、あまりに好きすぎたもんで夢にまで見た訳よ。一緒にサッカーしたりただじゃれあったりだとか」
おお、正に子供の発想。それはほほえましい話じゃないか。
「でもってある日、テレビを見たらアフリカの野性動物のドキュメンタリー番組がやってたんだよ。二番目に好きな動物だったシマウマが群を作って移動している場面だった。まだ生まれたばかりの子供が多くて、大人たちが頑張って外敵から守ろうとしているわけだ。
……そこに、ライオンが現れた。
逃げ惑い散り散りになる群、そして真っ先に狙われる子供のシマウマたち。倒れても必死に抵抗するんだけど、その間に次々と他のライオンが集まって来て……
次のシーンには骨と皮だけになった元シマウマと、『弱肉強食、これもまた自然の摂理です』という無機的なナレーションが流れてな。……その日から、ライオンの出る夢は全て悪夢に変わった」
「…………」
「あの系統の番組はたまにえぐい構成をするからな。運がなかったのだろう」
どこか遠い眼をする亮二に、飽くまであっさりとしたコメントをする那佐。
確かに、主観をシマウマでなくライオンに置いていれば手頃な獲物がいてラッキー、という事になったのだろうが……現実は厳しい。
「印象的な夢といえば、俺もいくつか思い付くのがあるな」
「那佐も夢を見るのか。内容は電気羊か?」
「何意味分かんねぇ事言ってんだマサ。なんだよ電気羊って」
それなりに決まったと思われたボケがアホの亮二によって潰された。お前ちょっとそこの窓からダイブしてこい。
「俺も人間だからな、夢くらい見る。意味の分からないものも結構あったが。
ガンジーとジョン・レノンが戦場で『NO MORE WAR!』と叫びながら竹槍で戦闘機を次々と撃墜してたり、池田屋に踏み込んだ新撰組がしばらくして出て来た時には全員黒人ラッパーになっていたり、ローマ法王が全宇宙の支配者でそれを倒すためにレッサーパンダの風太君が立ち上がったり」
「……本当に、俺にはお前の考えてることが分からんよ」
つか、風太君とかナツいな。今の今まですっかり忘れてたぞ。
呆れた調子で言う俺に、那佐は無機質な声色で語る。
「要するに、夢の内容など一々気にする程価値のあるものではないということだ。変な夢を見たらこうやって話題の一つにでもすればいいだけのことだ。どこぞの宗教でもあるまいし、夢に見たことが真実になるわけでもない」
なんつーか世界中に敵を生み出しそうな発言だが、確かにその通りか。
「ところで亮二。次の数学の問題ちゃんと解いてあるか? 今日当たるぞ、お前」
「うえ、マジ!? そうだったっけ」
「休み時間も残り一分か。ちなみにノートを貸す気はないぞ、ばれるからな」
「くっ……ならば、マサ!」
「お前の後俺じゃん。貸したら俺が困る、自力で乗り越えろ」
うわーやっべー! 等と叫びながら席へ戻る亮二を見送り、時間もあれなので俺も自分の机へと向かった。
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