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   (その六)流されるのも一つの手です
 どれだけ天下が努力に努力を重ねようと、涼は彼の想いには応じられない。天下が問題なのではない。涼が問題なのだ。教師と生徒との恋愛のリスクを思う。それを差し引いても、自分を考える。不釣り合いだ。天下に応じるだけの価値が、自分にあるとは思えなかった。カップラーメンは所詮、カップラーメンなのだ。
 でも――涼は不意に、琴音の声を聞いたような気がした。
 私は好きよ、カップラーメン。
 価値は人それぞれだ。故に芸術が成り立つ。たとえ自分が価値を見い出せなくても、他人が価値あるものと見ているものを否定することはできない。それは、ただの独断だ。
 だから、涼自身が価値を見い出せなくても、天下にとっては違うのかもしれない。
 渋々去ろうとした天下の右腕を涼は掴んだ。怪訝そうな顔をする天下。無視して涼は手を取った。歳下とはいえ男だ。筋張った手は涼のものより大きかった。
「先生?」
 ボランティアだと思え。そう、大した意味はない。意味とか考えるな。事務的に。借りを返すだけだ。
「……どうした」
 天下だって言っていたではないか「大したことじゃない」と。彼がしたことに比べればこれくらいどうというものではない。社交界では挨拶だ。
「俺の手に何かついてんのか?」
 イタリア人よ、プッチーニよ、プラシド=ドミンゴよ、今だけ私に力を。
「おい、せんせ――」
 涼は手の甲に唇を押しつけた。暖房の利いた部屋にいるにもかかわらず、触れた彼の手は冷たかった。つまり、自分はそれなりに熱いということだろう。
 口を離して見上げれば、間の抜けた顔をしている天下と目がかち合う。
「……え…………あ、」
 大きく見開かれた切れ長の眼。掠れた声が薄い唇から出る。
「先生、今――」
 そこまでが限界だった。涼は教卓の上に置いたアライグマ印の消毒液を三回押して、天下の手にすりつけた。
「ちょっ、待て! どういうこったあっ!」
 慌てて引こうとする天下だが、涼は逃さなかった。しっかり掴んで消毒完了。用済みとなった手を解放する。
 消毒液まみれになった自身の右手を穴が開くほど凝視して、天下は悲痛な声を上げた。
「何だ今の……っ!」
「消毒です。雑菌がつくといけませんから」
「どこの世界にキスした直後に丹念に消毒する奴がいんだよっ!」
「二週間前に同じようなことをした馬鹿を私は知っているが?」
 冷静に切り返せば天下は拳を震わせて項垂れた。
「……天国から一気に地獄に突き落とされた気分だ」
 お気に召さなかったようだ。が、残り時間はあと三分。涼は天下の背中を押した。
「さあ満足したろう。帰れ」
「むしろ不満しか残らねえよ」
 未練がましげに天下は右手をじーっと見つめていた。しかし消毒液の匂いしかない。幸いなことに涼は基本的にリップクリームで、口紅をしていなかった。
「全国模試で一位でも、もうやらない。二度とやらない」
 全ての希望を断ち切るように涼は言ってのけた。
「先生」
 それでもまだ諦めがつかないのか、扉をくぐっても天下は振り返った。眉間に皺を寄せ、自身の唇を指差す。
「後生ですから、こっちにしてくださいませんか?」
「帰れ」
 涼は思いっきり扉を閉めた。


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