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   (その四)人の名前はちゃんと覚えましょう
 その後も好奇に満ちた視線を注がれ続けて、長い長一日が終わった。安息の地である音楽科準備室の椅子に腰掛け、背もたれにぐったりとのけぞる。一週間もすれば興味も薄れるだろう。世の中には教師の恋愛事情なんかよりも大切なことはたくさんある。
(……一週間)
 土曜日がいつになく遠く思えた。ともすれば落ちこむ気分をなんとかしようと専用ティーカップに紅茶を注ぐ。この学校に就任時、歓迎の意をこめて音楽科教師達からいただいたカップで、なんでも有名ブランドのウェッジウッドらしい。真偽は定かではない。調べようとも思わなかった。
 アールグレイの香りを堪能している折に、控え目なノック。「どーぞ」と気のない返事をすると、意外な人物が顔を出した。
「失礼します」
 今朝の生徒だ。煙草の匂いはもうしない。
「ファブリーズしたようだね」
 相も変わらずむっつり顔。年頃の男子高校生なんて皆そんなものだ。そう思えば硬く引き結んだ唇にも可愛げがある。彫りが深く、野性的な容貌だが、どことなく少年の名残があった。一度も染めたことがないであろう黒髪が少々日に焼けた顔に映える。顔はよく知っている。忘れるにはもったいないほど整っている。だが、肝心要の名前が思い出せなかった。
「鑑賞室に忘れ物をしたんですが、鍵を貸していただけませんか?」
「煙草?」
「違います」
 ややむきになって否定する男子生徒。
「俺、煙草なんて吸いません」
「制服が燻製になるほど煙草の側にはいたわけだ。ゲーセンか、カラオケか、それともヘビースモーカーのお友達か。可能性はいろいろあるけど、煙草の匂いをさせて学校に来たら教師が下す判断はたった一つ――『未成年らしからぬ行動を取った』」
 涼はカップをソーサーに置いた。
「煙草が大好きで匂いを四六時中纏うことに生きがいを感じているのなら止めはしないが、誤解されるのは覚悟しておくべきだね」
「勝手に解釈する側に問題があるとは思わないんですか」
 彼の眼差しは鋭く、それでいて真摯だった。
「なら、放課後人気のない教室で生徒と教師が二人っきりでいるのを、付き合っていると判断してもなんら不思議じゃない。悪いのは紛らわしいことをしている二人、ということになりますよね」
 動悸が速くなる。たとえを持ち出すのならもう少し別のものにしてほしかった。そんなホットな話題はやめてくれ。風刺が効き過ぎだ。
「そうなり、ますね。たぶん」
 つられて丁寧語で答えてしまう始末。探るようにこちらを見る彼の視線が痛かった。細身だが引き締まった身体が一歩近づくのと、準備室の扉が開くのはほぼ同時だった。
「おや珍しい。久しぶりだね、鬼島君」
 音楽科主任が彼の顔を見るなり言った。彼も彼で、さきほどまでの不穏な気配を消し、わずかに目を見開いた。驚いたのは涼も同じだ。
「お知り合いですか?」
「ええ、選択科目で音楽の授業を。彼が一年の時ですね」
 音楽科主任は抱えていた楽譜の山を専用机の上に置いた。
「今は渡辺先生の受け持ちでは? 二年一組の鬼島天下君ですよ」
 あ、なるほど。二限目にいたような気がする。矢沢遙香に気を取られていてそれどころではなかったが。
「彼がどうかしましたか?」
「いいえ、別に何も」
 涼は鬼島天下に目をやり、硬直した。ただでさえ切れ長の目が、剣呑さと鋭さを増して恐ろしいまでになっている。
「……失礼しました」
 底冷えするような声音で告げると天下は準備室から出て行った。
「普通科でも成績優秀生徒だそうです。いい声してますよね」
 呑気な音楽科主任の言葉に、涼はぎこちなく相槌を打った。たしかに、若々しく張りのある声をしている。あと数年もすれば重みと深みを増して、さらに魅力的な声になるだろう。将来が楽しみな生徒ではある。
 だが、その声が紡ぐのはアリアでもゴスペルでもなく、恐怖と不安を煽る言葉なのだ。
 結局彼は何をしに来たのだろうか。涼は紅茶を一口飲んだ。忘れ物とか言っていたが、もういいのだろうか。
(忘れ物が目的ではなかったとしたら?)
 カップを持った涼の脳裏に最悪な可能性がよぎる。
 涼に会うことが目的だったとすれば、その理由として考えられるのは佐久間との件だ。校長らに怪文を送りつけた犯人は未だ判明していない。そして涼と佐久間の交際が真っ赤な嘘であることを知っているのもまた、犯人だ。



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