(その九)当事者でないとわからないのです
体育準備室を出る頃には涼の気分は最低に落ち込んでいた。さらに深刻なのは特別棟──音楽科の領域に戻った後もその状態が続いたことだった。
三、四限で行われた普通科の音楽の授業ではまあ、何事もないように振る舞えたと思う。伴奏ではややミスタッチが多かったり、諸悪の根源である上原直樹を睨みつけたりしないよう、不自然ではない程度に極力女子側を見て進めたりもしたが問題はない、はずだ。授業後に、おそらく先日の礼を言いたいのであろう、涼に頭を下げた鬼島統に「わかった何も言うな今日はこれ以上厄介事を持ち込むな頼むから」と一息にまくし立てて早々に追い出したりもしたが、たぶん問題はない、と涼は信じたかった。
昼休みは音楽科準備室で弁当をつつきつつ音楽科主任らと校内演奏会の打ち合わせ。最近、聴衆が減っていることに音楽科教師一同が頭を悩ませている間も、涼の中では放課後に控える面談が重くのしかかり、テンションは下がる一方。
「特に問題なのは校外から訪れる方が減っていることですよね」
「魅力的なエキストラでも呼べればいいのですが……」
「この予算で?」
音楽科教師一同のため息が合わさる。意味合いは全く違うが涼も同じく。
「出身音大のツテか何かで探してみますか? ちょっと値が張るかもしれませんけど。ね、渡辺先生?」
「ええ、まあ。当たってはみますが」
「頑張りましょうよ。ドミンゴは無理でも、それなりの人は呼べるかも」
ツテだけで来てくれるような『それなりの音楽家』をダシに人集め。蛯で鯛を釣る方がまだ現実的だ。早々にやる気を失った涼に、百瀬理恵は微笑みかけた。
「そういえば、どうでした? 桜井先生の件は」
大変面倒なことになりました、と答えそうになって涼は首を捻った。
「何故そのことを?」
「歌に詳しい先生はいないかって訊かれたので、つい渡辺先生を」
「百瀬先生ご自身は?」
「私あんまり桜井先生好きじゃないので」
と、悪意の欠片もない笑顔でのたまう理恵は間違いなく大物だった。科は違うけどたしかアンタ桜井先生と同期だったよな。文句を言う気すら起こらない。同期でありながら理恵が声楽専攻で、しかも合唱部の顧問であることすら知らない美幸にも非はある。
「だって部活の話になる度に嫌味言うんですもん」
その気持ちはわからなくもなかった。
交流が無いに等しいので当然だが、音楽科に対して偏見を持つ人は多い。
美幸にしても同じことだった。こともあろうにあの教師は上原直樹との面談会場に個別練習室を指定してきやがったのだ。曰わく「音楽の話をするのだから、それに相応しい場を」なのだが、涼からしてみれば言語道断だった。
個別練習室、別名レッスンルームはピアノが設置された冷暖房完備の個室だ。この学校の特別棟にはそのレッスンルームが計十八ある。そこで、十八の内一つくらい普通科に提供してもいいのではないか。普段は音楽科が独占しているのだから、という主張ができるのは実情を知らない連中だけだ。
三学年合わせて音楽科生徒数は約百二十人。それに対し、ピアノが使用できる個室は十八しかないのだ。専科にせよ副科にせよピアノは必須科目にもかかわらず、だ。笑ってしまうくらいの待遇だ。
故に、一人の生徒が一日にレッスンルームが使用できる時間は二時間と定められている。数少ない練習室の予約を取りたいがために朝六時に登校する生徒も珍しくはない。
争奪戦に敗れた生徒、もっと練習がしたい生徒は音楽室で各自好きな場所を陣取って練習。当然ながら皆、自主練習だ。ヴァイオリン専科が優雅に『愛の挨拶』を弾いている傍らで、ピアノ専科が陰鬱な『葬送行進曲』を奏でていることなんてざらにある風景。帰宅してから練習しようにも近所迷惑を考えたら七時、遅くとも八時にはもう楽器の演奏はできなくなる。音を小さくしにくい金管、木管楽器に至っては自宅では練習できない者もいる。隣がどんなにやかましかろうと不快な和音を奏でていようと音楽室で練習するしかないのだ。
音楽科生徒からの文句は絶えないが音楽室から楽器の音が絶えることもなかった。不平不満を言いつつも彼らは腹を括って練習に励む。
そんな現状で、だ。入学早々に試験を放棄した普通科学生一人のために、朝六時から並んでようやく予約できたレッスンルームを快く提供してくれる聖母のような学生が果たして存在するのか。少なくとも音楽科にはいなかった。
練習環境が恵まれていると思い込むのは勝手だが、それで音楽科を嫉むのはお門違いだ。安請け合いをした自分の軽率さを涼は恨んだ。
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