挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

飛べないカモメ

 水底に眠る都を見ていたら、息苦しくなって気持ち悪くなってきた。自分もその中に沈められたような同調圧力がわたしの肺を侵していく。空気に押しつぶされて窒息しそうだ。いや、すでにしているのかもしれない。金属のみならず、朽ちることのないはずのセラミックスまでが汚れて朽ちているように見えるほどに透明な水は退廃的な都を映すだけでは飽き足らずにこうしてわたしの首を絞めているのだ、極めて婉曲的な方法で。

 どうやってこの崖に来たのか、今となってはもう覚えていない。気が付いたらいたというわけではない、誰かがここにわたしを導いて、そしてその導いた誰かを忘れてしまったのだ。一度忘れてしまったものを思い出すのはかなり難儀で怠惰でそれでいて甘美な雰囲気すらある。
 ともかく、わたしはこの景色を見ていたいと思ってやってきたのだった。そして限りなく透明な海の底にぼんやりと浮かび上がっている古都の廃墟を見つめ続けて幾ばくかの時が経ったのかすら忘れようとしている。

 翼がほしい。

 はじめはこんな小さな願いであった。今すぐに、自由に飛んでいきたかったのだ。世界があまりにも矮小で、その中に属している自分はさらに微小な存在であるということを、この目で見て、この耳で感じて、そして翼で身体の重みを思い知りたかった。けれど私に翼はない。空想の翼は重たくて、ちっとも飛べそうになくて、むしろ私を大地へと縛りつけるものにしかならなかった。
 遠くの空を白い何かが横ぎった。

 ちゃぽん。

 また、誰かが水に飛び込んだ。都に魅せられ、惹きつけられ、そうして旅立ったのだろう。
 いのちが消えるには、あまりに平和な音。
 耳にも残らない。

 この場所に来るには、何かの理由がなくてはならないらしい。
 たとえば、愛する人に裏切られたとか、すべてが立ち行かなくなってしまったとか。
 ここは、そういう場所なのだと。
 けれどわたしには、何もなかった。
 愛すべき人も、いつくしむべき家族も、そして、生きるべき理由さえもなかった。
「それでも、行っていいのですか?」
「行きなよ……お嬢ちゃんみたいな人が、行くところなのさ」
 導いてくれた人は、もうどこかに行ってしまった。
 何もないわたしが、あの水の向こうに行く資格があるのだろうか。
 嵐の中でも狂うことなく静かで透明でいられるあの水に、包まれるように生きてきたわけではないのだ。

 小さいころのことはよく覚えていない。というよりも、だいたいでしか生きてこられなかったから、覚えられるような出来事が何ひとつない、といったほうがいいだろう。なんとなくで小学校を、中学校を、高校を大学を生きて、そこから先はよく覚えていない。家が火事で焼けて、それからどうしたのだろうか、ちっとも思い出せないし、思い出しても生きていくのに必要がなかった記憶なのだろう。
 人が生きるのに必要な資格というものがあって、それが試験で得られるようなものであるのなら、私はとっくに落第して首をつっているのだろうか。

 ちゃぽん。

 さっきより近くで音がした。何かが迫ってくるような感覚が一瞬わたしを襲ったが、それもすぐにひいていって、何とも思わなくなった。白い鳥が、さっきより近くで飛んでいる。
 あれは、カモメだ。自由と生命の象徴。
 こんなところになぜ飛んでいるのだろうか。翼のない人たちを嘲笑いに来たのかもしれない。
 翼さえあれば、こんな何もない空虚な人生から抜け出せたはずだったのに。世界の重さを、自分の至らなさすらも感じないまま、ついに何もないどん詰まりに来てしまった。いや、何もないのだから詰まってはいないのだけれど、しいていうのならきっとどん詰まりだろう。
 そうしてこの場所に来た。
 何の主張もなしに。
 何の理由もなしに。
 何の目的もなしに。
 もはや、わたしの前にあるのはかつて煌びやかだった古都と、それを包み込むように切り立っている断崖絶壁だった。
 建物のある部分は錆び、ある部分は抜け、またある部分には藻が付いている。その姿を覗きこんでいると、吸い込まれそうなほど魅了される。それはそのまま、深淵への憧憬となるのだ。誰も見ていない、けれど飛び込んだ音はこの静かな湾内に響き、そしてたたずむ者の耳に届く。これほどまでに単純で、これほどまでに浮世から離れた世界が、わたしの目の前にある。
 急に立っているのが怖くなって、わたしはその場に座り込んでしまった。

 ちゃぽん。

 気のせいだろうか、だんだんと水の音が近づいてきているような気がする。それに、さっきよりも水音の間隔が短い。
 水面から目を離せば、カモメの群れが無慈悲に低い空を飛んでいる。
 翼がなくても、空を飛ぶことができるのだろうか。
 ふとわたしは思う。
 わたしが翼を欲した理由。
 それは、自らの小ささと、世界の重たさを知るためであった。
 それならば、わたしの身体にはすでに翼があるのではないだろうか。背中に翼がなくとも、あのカモメのように自由に空を泳ぐことはできるのではないだろうか。
 わたしのこころに、急に何か灯りのようなものが点されたような気がした。身体じゅうがあたたかくなって、なぜだか気分も軽い。

 気がつけば、世界は反転し、

 わたしは空を飛んでいた。


 ちゃぽん。
 冷たい世界が、わたしをやさしく見送ってくれた。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ