丸田静江さんの場合
看護師を10年やって結婚した。
彼が研修医の頃、私は7年目だった。仕事が面白くて面白くて、毎日が楽しかった。身体はきつかったけどね。あの頃、私には付き合っていた彼氏がいたけど、私が仕事にのめり込んでいるうちに、いつの間にか新しい彼女を作ってしまった。悲しいと言うより、何だか悔しかった。自棄酒も飲んだ。当分、誰とも付き合う気はなかった。前の彼は医者じゃないよ。地元の中小企業に勤めるサラリーマン。高校の時から付き合ってた。
仕事一筋に生きていこうと思っていたころ、彼は研修で、私がいる血液内科に回ってきた。前の彼とは全然違うタイプ。毎年、研修医を見てるけど、やっぱり頼りないんだよね、最初の頃って。まさか、このヒトと結婚するなんて、思いもしなかった。年下だし。
看護師は嫁にいき遅れるってよく言われる。忙しくてあたふたしているうちに年をとってしまうのと、いろんな男性、特に医者と知り合いになるから、見る眼が肥えてくるんだとか。さあ、本当だかどうだか。
医者と結婚することが目的で看護師になる人も、中にはいる。一緒に仕事をすれば、そういう種類のヒトはすぐにわかる。勿論、みんなが医者と結婚できるわけではなく、大半は、会社員とか、全然違う職業の人と、あっさり結婚して職場を去って行く。一生懸命、新人看護師に仕事の手順を教えて、2〜3年たって、やっと使えるようになってきたかと思うと、さようならだ。
私はむしろ、医者と結婚したいと思ったことはない。合コンに行ったこともないし、「医者との合コン」そのものにものすごく抵抗を感じていた。そういう種類の人間だと思われるのが何より嫌だった。患者さんには優しいつもりだけれど医者に媚を売ったことはない。
ちょうど年末・年始を挟んで、彼は血液内科で研修した。まじめでおまけに要領が悪い。研修医と言えども、医者だから、彼からの指示が出なければ私たち看護師は、仕事が前に進まない。英語の文献なんてどうでもいいから、やることさっさとやってよねって言いたい。
「秋本さんの指示、急いでくださいな。川村先生から検査計画書渡されたでしょ?」
イライラして彼に話しかけた。それが彼との最初の会話。
「あ、はい。いや、あの〜、検査伝票と注射伝票もボクが書くんですか」
おいおい、研修医君、しっかりしてよ。呼吸器内科では何を勉強してきたの?救急だって終わったんでしょ? ここの病院のシステム、そろそろマスターしてもいいんじゃない?
彼に対する私の第一印象はそんなとこだった。
忘年会で、彼は私の隣に座った。かしこまって私の酌を受けたのが可愛かった。色々話を聞くうちに、彼への見方が変わってきた。
お酒が入ると、おかしいくらい、お喋りになった。12歳のときに父親を交通事故で亡くしたと言う。へー、苦労してきたんだ。てっきりお坊ちゃまだって思ってた。医学部ではサークルには入らず、アルバイトばっかりしていたみたい。芸大に通う妹に、仕送りもしていたという。
「月2万だけどね。それが精一杯だったな」
父親の死は、少なからず彼の人生に影響を及ぼしている。死んだら人間終わりだと悟ったようなことを言う。
「誰だっていつ死ぬかわからんでしょ。いつも120%の力を出して生きていくのがボクの理想」
私の口から出たのは、
「若いね」
という言葉だった。
でも、振り返ると、私も看護師になりたての頃は、そうだった。婦長(今は師長だ)や先輩看護師からしょっちゅう叱られて涙を流しながら頑張った。患者さんは私よりもっとつらいんだと言い聞かせながら。
一通り仕事を覚えるまでは看護師も医師も必死だ。でも、身体が持たなくなってくる。看護師は唯でさえきつい仕事なのに、日勤、準夜、深夜、と勤務時間帯がばらばらだから、体調が必ず崩れる。生理中の勤務は最悪。鎮痛剤飲んだって効きやしない。夜勤帯は2人で20人以上の患者を見なくてはならないからパートナーが誰になるかでも随分違う。勤務表を見て、「あちゃー」と思うこともしばしば。あの頃の私は、いかに手際よく仕事を終えて、寝る時間を確保するか、その方が重要だった。 120%も力を出すなんて、研修医だからこそ言える言葉だと思った。
彼は要領はいい方ではなかったが、いつもまっすぐで、患者さんからも信頼されていた。研修が終わって、血液内科を専攻して再び私の所へやってきたとき、彼は、見違えるほどたくましくなっていた。1年半前はこちらが教えることばかりだったのに、教えてもらうことが増えた。検査の意味とか薬について、流石に偉い先生には聞きにくいもんね。
ガリウムシンチの結果をシャーカステンに下げて、ボールペンのうしろで病変を教えてくれたりもした。こういうことは、看護をする上で、とても大事なことだ。これで横山さんが左の肩を痛がる理由がわかった。患者さんが左の肩を痛がる訳がわかれば、ベッドから起こす時に支える位置を工夫することができる。本当言うと、全患者さんについて詳しい検査結果を知りたいところだ。でも、実際はやるべきことをやるだけで精一杯なのが現状だ。雑用だけでも山ほどあるのに最近はやたら会議が増えた。正直うんざりする。
血液内科に戻って間もなく、彼の受け持ち患者さんが亡くなった日、彼は私を食事に誘った。ほとんど喋らずに夕食を一緒に食べただけだった。患者さんの話は一言も出てこなかった。カレーを半分ほど食べたところで、横っちょにある福神漬けを無意味につつきながら、彼は私に聞いた。
「静ちゃん、福神漬け好き?あげようか?」
「静ちゃんて、そんな呼び方いつ私が許可した?」
「いいじゃん。病院の外ぐらい」
「いらないわよ、あなたの福神漬けなんて。何、変なこと言ってるの」
答えながら彼を見ると、うつむいた頭の下からかすかに震えている唇が見えた。スプーンは、ほどけた福神漬けの中を行ったり来たりしている。必死で涙を堪えている彼の前で、私もその患者さんについて、何も話すことができなかった。22歳大学生。スキューバダイビングをこよなく愛する好青年で、NPO法人「海を守る会」を立ち上げた熱血漢でもあった。病名は、急性骨髄性白血病。3度目の再発だった。骨髄バンクに登録していたが、結局、適合者が現れなかった。
彼は、血液内科医として三年間働いた後、研究をするため大学に戻った。彼と結婚したのは、彼が大学に戻る直前だった。
120%頑張る……彼は、結婚してからもよくそう言った。医者はみんな110%の力を振り絞って頑張っている。先輩達は皆そうだ。110%で並の医者ってわけだ。もうあと10%の力を出さなくては名医になれない。普通の医者で終わりたくない。最後の10%を出せるかどうかが、勝負なんだと、そう口癖のように言っていた。
結婚してすぐに子供ができた。女の子だった。桜が満開でこの子の誕生を世界中が祝福してくれているようだった。サクラと名づけた。
サクラがある程度大きくなったら私は看護師としてパートでもいいから仕事に復帰したいと思っていた。でも、家事の分担を主人に要求するのは、どう考えても無理。一時期は、できる日には7時ごろ一旦帰宅して夕食の後、サクラをお風呂に入れてくれたりしていたけれど、週に一回は大学病院の当直が回ってくる。そして、バイト先の当直があと一回。月に一度は、土日の連続勤務をこなす。主人のできる手伝いといえば、週に3回、子供をお風呂に入れること、それが精一杯だった。それに学会前はお風呂どころではなかった。
家にいれば、やることだらけだった。サクラはよく熱を出すし、サクラのこと以外でも、銀行に行ったり、宅配便の受け取り、主人が病院用PHSを忘れたときは、職場まで届けることも度々。結局、ハローワークに行く暇さえ見つけることができずに、毎日が過ぎた。お姑さんは軽いリウマチがあって、孫の顔を見せには行くが、子守を頼むのは無理だ。私の実家は遠く、父が一度軽い脳梗塞を起こしてから母は父から離れることが難しくなった。父が元気なら、時々飛行機で来てよって頼みたいところなんだけど。
そうこうするうちに、主人の米国留学が決まった。大学で2年過ごした後だった。
フィラデルフィアに主人が留学中、私達はとても幸福だった。私は英語がほとんど喋れないので、最初の2,3ヶ月は大変だったけれど、もともと、「どうにかなる」という性格だからだろうか、案外早く向こうの生活に慣れた。
日曜日には、親子三人で美しい公園へ出かけることができた。
パーティーも苦にならなかった。むしろ、主人と一緒に楽しめるのが嬉しかった。
大切な友達もできた。同じ研究室仲間の奥さんたち、スーザンやスザンナ(私は主人に、スースー仲間と呼んでいた)は、本当に親切だった。スーザンは少しだけ太っている。彼女の豪快な笑い方は、それだけで、みんなを幸せにした。スザンナは知的美人。ブロンドの髪、モデルさんみたいだけど、彼女の話はいっつもおかしかった。
我が家で「すしパーティ」を開いたこともあった。手巻き寿司を勝手に作って食べる、ただそれだけ。中の具は、みんな色んな物を持ってきていて、大笑いした。アボカドは合格品。オイルサーディンは微妙。一番変だったのは、マシュマロ!
私のヘンテコな英語も、どういうわけか、「アナタの英語は最高のコミュニケーションツール」と褒められた。主人に言わせると、そこから、つまり、私の変な英語から、話題が広がるからだそうだ。今、思い返すと、まるで映画のワンシーンのようだ。
あの頃は主人も生き生きしていた。
「何だかんだ言って、やっぱりアメリカってすごい国だな。研究するにも、僕は本当に研究だけすればいいんだ。準備や後片付けは助手が全部やってくれる。日本ではさ、むしろそっちの方が大変なんだよ。とにかく恵まれているよ。ボスだって、5時に帰っちゃうんだ。日本では考えられないよ。でも、その分、結果を出さなくちゃな」
米国での生活は夢のように過ぎていった。主人の研究は、2年で3つのそこそこのジャーナルにアクセプトされ、主人も「まあ、合格点だな」と満足げだった。そして私は二人目の子を妊娠していた。日本に帰るときは、母国に帰れるとほっとする反面、とても寂しい気がした。スースー仲間の存在を初め、私にとって居心地のいい場所が、そこにはできていた。それに、帰国してから地獄が待っていようとは、その頃は思いもしなかった。
大学へ戻ると、当たり前のように臨床と研究が待っていた。
アメリカでの生活は楽しかったが、今度はその恩返しの番だから、少々大変でも文句が言えない。勿論、主人は文句を言う人じゃなく、私がちょっと不服だっただけ。二人目の子供は男の子で駿と名づけた。サクラは、まだまだ私に甘えたい年齢、二人の子育ては正直、大変だった。できれば主人にはもう少し家庭も大切にしてほしいと思った。
大学に戻って1年半後、教授から松熊総合病院への赴任を依頼された。500床の大病院で、本来3人体制の血液内科なのだが二人いっぺんに辞めるらしい。一人は開業、一人は親の病気だとのこと。そして、補充は当面主人一人。つまり、二人の医師でやらなければならない。残りの一人は研修医を終えてまだ半年というから、主人の責任は重い。
私たちの生活は変わった。というより主人が変わっていった。
2ヶ月で5キロ痩せた。病院で過ごす時間が長くなり、数日帰ってこないことも珍しくなかった。はじめの頃は、
「大変なところに赴任しちゃったよ」
と笑いながら話していたが、だんだん気持ちの余裕が無くなっていくのがわかった。
「何とかしないと、このままだといつかミスを起こすよ」
深いため息をついたこともあった。
「目の前に患者がいれば治療をしないわけにはいかないだろ。一刻の猶予も許されない患者ばかりだしな。俺さ、120%頑張れば、名医になれると思っていた。でも、現実は違う。2人であれだけの血液疾患患者を見ていくには150%頑張ったって足りないんだ。病院の方針でさらに入院日数を減らすことを要求された。上の人間は現場のことをわかろうとしない」
医師は、現場で臨床医として働くことの他に、今の医学、医療を一歩でも前進させるように努力することが求められている。学会、研究会参加さえままならない現状にも主人は不満だったようだ。補充の医師もいつまで経っても来る気配がない。
私とサクラ、二人目の子、駿はほとんど母子家庭状態になっていた。盆は三人で過ごした。正月は子供たちを連れて、実家に帰った。私も経済的なことを除いては主人を当てにせずに生きていけるようになっていた。そして、同時に私の仕事復帰はほとんど不可能だということを悟るしかなかった。
いつまで、こんな状態が続くのだろうか。
でも、まあ2,3年も我慢すれば、また、転勤になるだろう。そうすれば現状も少しはましになるかもしれない。そんな風に考えるようにした。
けれど、事態は深刻だった。ある日、主人は久しぶりに夜早い時間に帰ってきた。有り合わせの夕飯のテーブルで、主人はトロンとした眼をしていた。
「どうしたの?大丈夫?」
「あ、ああ」
「職場が変わってからあなた残業ばっかり。院長にも、もう少し強く言ってもいいんじゃない? 教授に事情を説明して、もう限界ですって言ったら? 医者だって人間なんだから。今の働き方だと労働基準法を完全に超えてるでしょ」
「医者に労働基準法を守らせる病院なんて、日本中探したってないさ。僕らの仕事は、目の前の患者を救うことだから、そんな甘えたことを言っていたら病院は機能しなくなってしまう」
「でも、今の働き方って尋常じゃないでしょ。あなたが倒れたら、病院は代理の医師を探せばいいだけのこと。でも、私達はどうなるの? 私と子供たちは一体どうなるの?代理の父親なんていないのよ」
「代理の医師か。僕が赴任してからもう一年近くになる。本来3人体制のところを二人で回してるんだ。欠員の補充ができない状態が続いているのに、僕の替りがすぐに見つかるとは思えないね」
「どうしてそこまであなたが責任を負わなくちゃならないの?辞めたっていいと思うわ。死ぬよりましでしょ」
「僕が辞めれば、血液内科は事実上廃業だ。僕がやっているのはチーム医療なんだよ。化学療法で助かる人が大勢紹介されてくる。うちが引き受けなければこの地域ではそういう人たちは、たぶん死んでしまうだろうね」
「おかしいわ、そんなの。だって、それはあなたの所為じゃないでしょ?」
「僕の所為じゃないかもしれないけど、実際に患者が目の前にいるんだよ。どうすることもできないだろ。死んでくださいって言えるか?」
ふーっとため息をついて、主人は静かにつぶやいた。
「アメリカの連中はいいよなあ。留学する前はさ、訴訟大国アメリカ、大変だなって思ってたけど、労働環境は日本の方がよっぽど劣悪だよな。医療者としてのシビアさは一緒だけど、あっちはきちんと休めるもんな。まあ、あれはあれで、患者の立場に立つと、アメリカがいいとはお世辞にも言えんけどな。見ただろ、金がなくて切り捨てられる患者たち。アンディは、保険が効かなくて手術を諦めた。日本でだったら、死なずに済んだケースだと思うよ。僕たちや僕らの先輩たちが頑張ってきたから今の日本の医療があるんだよ。やっぱり、いいもんは守っていかなくちゃ」
フィラデルフィアでの楽しかった日々が蘇ってきた。楽しい思い出がたくさん。でも、今まで知らなかったアメリカの暗い部分も私達は見てきた。
折角アメリカに来たのだから、私も、米国の医療を見ておきたいと思った。主人の口利きで、一週間かけて大学の提携病院を見学させてもらった。最初の一日は、主人も一緒だった。彼も医師の目から、米国の医療を見ておきたいと思っていた。私はその後、週に2日、3時間ずつ、その病院で雑用係としてボランティアをさせてもらった。
初日、主人と一緒に見たのが、アンディだった。子宮ガンがわかったのに「手術を受けない」選択をした30代の患者さんだ。
彼女を診察する際、主治医のデボラ医師は、私達をアンディに紹介してくれた。
「アンディ。こちらは、日本からきた、ドクターマルタと、奥さんで看護師のミセスマルタ。米国の医療を勉強したいと言っている。あなたが構わなければ、彼らに診察の同席をしてもらってもいい?」
アンディは、にっこり笑って答えた。
「ええ、構いません。よろしく、ドクターマルタ、ミズマルタ」
目が大きくて、かわいらしい女性だった。
数日後、デボラ医師に声をかけられて、私は再びアンディの診察に同席した。その時には、まさか、「子宮体部ガン」の診断が下されるとは思ってもいなかった。彼女が手術を断ったのは彼女の入っていた保険がそこまでカバーできないからだった。
アンディは言った。
「残念だけど、手術は受けない。私の選択肢に入ってないの。抗がん剤で、あとどれだけ生きられる?」
私は打ちのめされた。私の話を聞いて、主人もとても驚いていた。日本に入ってくる米国の情報は、光の部分だけ。アメリカンドリームの華々しいストーリーのすぐそばに、残酷なまでにシビアな世界が横たわっていた。私が最も残酷だと思ったのは、アンディが、手術を受けられない現実を、「当然のこととして受け止めている事実」だった。
ボランティアをはじめて、時々、外来でアンディを見かけた。私を見つけたアンディが声をかけてくれることもあった。そして、一年近く経ったある日、たまたま救急外来に物品を運んでいくと、そこに、何と言うタイミングだろう、担架に乗せられたアンディが運びこまれるところを見てしまったのだ。遠めに見ても下顎呼吸が始まっていて、死期が近いことが見て取れた。私はショックだった。どこで倒れたのだろう。自宅だろうか、別の場所だろうか。詳細はわからなかった。
米国には私達の知らない暗い部分がたくさんあった。日本にいただけじゃ絶対に理解できない米国の絶望的な暗闇。医療もその一つだった。
でも、今は、米国ではない、日本にいる私達夫婦の深刻な問題が目の前にあった。
責任感が強いところも私が彼に惚れた理由の一つだけど、今回はそんなことを言っていられない。本当にこのままだと大変なことになる。過労死を起こさなくても、こんなぎりぎりの状況で医療に携わっていれば、いつか本当にミスを起こす。
看護師をしていた頃、何度も怖い場面に遭遇した。それは決して医療従事者の「疲労」や「多忙」と無関係ではなかった。時間があれば確認できることを、「たまたま」別の患者さんが急変したり大変な事態が発生した時に、確認できなかったことが原因だったりする。でも、それは通用しない。ミスを起こされた当事者からすれば関係ないことだからだ。「たまたま」が発生しないことを祈りながら毎日仕事に従事していた。でも、病院は「たまたま」が発生するところなのだ。本当なら「たまたま」が起こることを予想して人員配置をすべきだが、病院だって運営していかなくてはならない。余計な人員は少しでも削りたいのだろう。私はぎりぎりの状態で働いていたが、主人の置かれている今の現状は、明らかにそれ以上だ。看護師は交代性だから、時間がずれ込むことはあっても、長時間の連続勤務はない。勤務表によっては、次の勤務まで数時間しか時間がないこともあって、ほとんど寝ずに次の勤務につくこともあるが、私は短時間でも寝るようにしていた。
医者は違う。当直の時は、30時間とか40時間とか寝ずに働く。夜間、無事に過ぎて仮眠が取れるときはいいけれど、患者さんの容態によって、あるいは救急車が数台来れば、そのまま次の日の勤務に突入だ。当直でなくても、主人は夜中にしょっちゅう起こされて、病院まで出かけていた。1時間程度で帰ってくることもあったし、朝食の時間まで帰ってこないこともあった。
あれから、私達は、今後のことで何度となく話し合いをした。でも、いつも堂々巡りで、二人の意見は平行線だった。
一つ気になるのは、主人は、どうも冷静な判断ができなくなっているような気がするのだ。責任感の問題だけではない。自分の置かれた状況を変えようと思えば変えることは可能なのに、思考回路が麻痺していて、一歩を踏み出すことができなくなっている。視野狭窄と言ってもいい。確かに勇気がいるかもしれない。でも、今は、この勤務環境を変える必要がある。それも、緊急に。主人に何かあったら、助けられる患者さんも結局助けることができないではないか。
最近主人が頭痛薬を常用しているらしいのも気になっていた。不整脈も出現している。「ただのVPC(心室性期外収縮)さ。」なんて、本人は言っていたけれど。
私は、繰り返し、仕事を辞めることを提案した。
「医局から離れたっていいじゃない。医師免許証さえあれば、どうとでも生きていけるはずよ」
主人が赴任して一年半が経過した。主人も、追い詰められるところまで追い詰められて、病院を辞めることを模索し始めていた。
「今度、教授に相談してみるよ。何だか僕も疲れてきた。頑張れって言われても、とてもこれ以上は頑張れそうにもないし」
そんな矢先のことだった。
前の週から急に風が涼しくなって、秋の気配を感じていた。
主人は、昨日の内科当直を終えて、今日の夜には帰ってきてくれるはずだった。サクラを寝かしつけて、翌日、幼稚園で工作に使う予定の空き箱を準備していると、病院から電話があった。それは主人からではなかった。
「もしもし、丸田さんのお宅ですか?」
「はい、そうです」
「松熊病院の高木ですが」
「ああ、院長先生。いつも主人がお世話になっております」
私が挨拶を終えないうちに高木院長は喋り始めた。少し声が上ずっている。
「奥さん、あの、今から病院へ来ていただけますか」
「え? どうしたんでしょうか」
院長からの突然の電話。どういうことだか判断できずにいた。何か忘れ物でも? いえ、こんな夜遅くに、そんなはずはないわね。主人が病院を辞めるって院長に伝えたのかしら?短い時間の間に色々なことを考えた。
「あの、驚かないで下さい。大丈夫なんですが、ご主人が交通事故を起こされて、今うちのICUに入っています。警察の方もこちらへおられます」
「え?」
何が何だかわからなかった。大丈夫って、何が大丈夫なの?
院長は、私を安心させるために咄嗟に「大丈夫」という言葉を使ったのだろうが、そのときの私には院長のそういう意図まで考える余裕はなかった。「ICU」という言葉と「大丈夫」という言葉、この矛盾する二つの言葉が折り合うことなく頭の中をぐるぐる回った。
それから、私は自分がどういう行動を取ったのか、よく覚えていない。気づいたら、サクラと駿を連れて、病院に来ていた。
松熊病院のICUに来たのはこれが始めてだったけれど、懐かしい匂いがした。おかしな話、看護師をしていた頃の記憶が蘇ってきて、患者家族として自分がここにいることに、不思議な感覚を覚えた。人工呼吸器の音、輸液ポンプの音、モニターの音、どれも聞きなれた音だった。新人看護師として最初に配属されたのが、ICUだった。
白衣姿の高木院長が、沈痛な面持ちで、私に会釈をしながら近づいてこられた。書類を手にした警察官も一緒だ。私の心臓は大きく高鳴り、医療機器の音と重なっていった。
「大変なことになりました。こちらは警察官の柳さんです。同僚の伊藤君の話だと、7時半過ぎにご自宅へ向かわれたとのことでした。警察からは、大通りを少し入ったところで歩道に乗り上げ電柱にぶつかったようだと伺っています。歩行者が一人軽い怪我をされていますが、幸い、大したことはなさそうです。ご主人のご容態は、ご覧の通りで、今後の見通しは現時点では何とも申しようがありません」
ICUのベッドに横たわる主人は、まるで別人のようだった。顔全体が腫れていて、目を閉じたまま動かない。悲しいという感情はまだ湧いてこなかった。モニターの画面にはグリーンの綺麗な心電図波形が流れていく。時折VPCが出現、大抵2,3個連続する。やっぱり、VPCだったのね。あなたの言う通りだった。血圧は上が102、下が64。少し低いね。もしかして昇圧剤が使われてる? 何か言って。お願い。「この点滴、外してくれよ。邪魔だな」って言って。
翌朝、2度目のCT撮影があった。高木院長からCTの説明があったのは10時半ごろだった。外来を途中で抜けて院長はICUに上がってこられた。姑と主人の妹の真美さん、三人で話を聞いた。
高木院長がシャーカステンにCTをはめ込んだ。後ろ向きの院長の頭の右側に今日のCTが見えたとき、私は血の気が引くのを感じた。
嘘でしょ。昨日、MRI画像から見通しが厳しいという説明はあった。でも、少なくともCTは綺麗だった。私は楽観視していた。神様が助けてくださるはずと。今日は、脳の凡そ半分、色が変わっている。つまり脳が死んでいっているってこと……
高木院長の説明は私の耳にはほとんど聞こえていなかった。目の前のCT画像が段々歪んできて、とうとう私の頬を伝わり始めた。姑は、説明の途中で泣き崩れた。真美さんが姑を支えた。
人工呼吸器をつけるかどうかの質問に、二人は即答でつけてくれるように院長にお願いしていた。私には、どうすればいいのかわからなかった。これだけの脳のダメージがあるから、元に戻る可能性はゼロに近く、延々と呼吸だけが続く可能性があった。治る見込みのない患者が呼吸器に繋がれたまま家族が疲弊していく姿を沢山見てきたから、私には、本当にどうしたらいいのか、わからなかった。生前の主人の希望とも反することだった。彼は、「いざというときには、DNR(蘇生処置なし)で頼むよ」と言っていたから。でも、人工呼吸器をつければ、別れの瞬間を先延ばしすることができる。
結局、姑の希望を優先するしかなく、また結論を急ぐ必要があったことから、主人には人工呼吸器が取り付けられた。私は機械に繋がれた主人をまともに見ることができなかった。慣れ親しんだ人工呼吸器だったが、今は、全く別物として、私の目の前にあった。
手術不可能な状態だった。四日目に心臓が停止した。姑は主人の身体を揺さぶって号泣した。私はただ呆然としていた。姑に対して、私は申し訳なくて仕方がなかった。私は結局、主人を助けてやることができなかった。
真美さんが、嗚咽しながら主人の腕を両手で握り締めた。
「どうして?どうしてなの?お父さんも交通事故で死んだ。どうしてお兄ちゃんまで……帰ってきて、お願いだから帰ってきて」
真美さんの姿が、これからのサクラに見えた。サクラはまだ暖かい主人の手をさすって私の顔を覗き込んだ。何も理解できないでいる無邪気な顔がそこにあった。
主人は、居眠り運転で事故を起こした。そして、本人は死に、軽いとはいえ加害者にもなった。でも、これって、過労死ではなかろうか。夫婦で病院を辞める話し合いまでしていて、防ぐことができなかった。もう少し強く主人に話をしていればよかった。それは「間に合わなかった」という気持ちだった。
高木院長は、弔意を示しながらも、怪我をした相手が軽くてよかったことを繰り返し言った。「病院としても、職員が居眠り運転で人を傷つけるのは……」と、まるで、主人の過失で迷惑を蒙っているかのような口調だった。そのとき私は院長に対して激しい怒りを覚えた。主人は、こんな院長の下で1年8ヶ月働いてきたんだ。こいつに殺されたんだ。心のどこかで思うまいと必死にこらえていたその考えに一旦心が奪われると、もう打ち消すことはできなかった。
主人が亡くなって、松熊病院の血液内科は実質なくなった。主人が生前言っていたように、主人の代理はおらず、主人と一緒に頑張ってきた伊藤先生は大学に戻っていった。彼も、主人が亡くなる3ヶ月前に、密かに病院を辞めたいということを大学側に伝えていたことを後で知った。若い伊藤先生にとっても、つらい年月だったのだ。
120%頑張る……主人は全力で走って、40歳手前で死んだ。私は今の病院のあり方に疑問を持っている。個人的に院長に恨みを抱くのは筋違いかも知れないが、身の置き所のない悲しみをぶつける相手もなく、「過労死」の線で、病院に過失を問うことができないか、弁護士に相談しているところだ。主人が聞いたら、「そんなこと、やめてくれ」と云うだろう。でも、私にはどうしても納得がいかない。院長から謝罪の言葉はなかった。それは「過労死」の可能性を意識したからだろうと思う。下手に謝ったりすれば、管理責任を問われかねないと計算し、自分の身を守ることを優先させたとしか思えない。逆に、職員が事故を起こしたことで、病院側が被害者であるかのような発言をして、私の怒りが病院側に向くのをけん制したようにも感じられる。
居眠り運転は自己責任?でも、連続で35時間一睡もせずに働いている状況そのものがおかしくないだろうか。主人の時間外労働時間をまともに計算すれば月130時間になる。医師の過労死は実際にはたくさん起きているはずだ。ただ、過労死として認定されることが少ないだけで。小児科、産婦人科、外科、どれも深刻な状況だと聞いている。主人や私と似たような状況で苦しんでいる医師、医師家族はたくさんいるのではなかろうか。
医師の仕事って何だろう?自分の命と引き換えに患者を救うこと?じゃあ、医師や医師家族は、一体誰が守ってくれるの?
何かがおかしい。この国の医療制度は、どこか間違っている。私の本当の敵は、一体、どこにいるのだろう。
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