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神封巫女伝 作者:栗田隆喬
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第二章(9)

 傾いた魂が己を支配すれば、もう、正気に戻れる自信はなかった。イアの娘を殺そうとするぐらいでは済まないだろう。だが、今のヤツヒは怒りが生み出す破壊に強く惹かれていた。
 あらゆるものを破壊し尽くす衝動。
 壊し、屠り、無に帰す快感。
 大切で、心寄せ、愛しいものが砕け散る瞬間。
 魂と命が損なわれ、引き裂かれる悲み。
 その頭上から背を突き抜ける衝撃が、ヤツヒにとって痛みよりも甘美な快楽となっていた。貪るように求め、鷲の血走った瞳の奥に広がる無限の闇に引き寄せられていく。
 ふと気配を感じると、目の前に少女が映った。触れそうなぐらい近くに樫の木の精霊の哀しそうな瞳がある。暗い水底に、瞳に宿る光が揺れる。
 考えに深く沈んでいたヤツヒは、突然のことに驚いた。もやに包まれた世界も暗黒の鷲も消える。代わりに冷たい流れへ沈みかけた自分と、かたわらに泳ぐリリルルの姿があった。
 精霊リリルルは何も身につけていない。長い髪が川の流れに衣のように広がり、しなやかな身体をわずかに隠しているだけだった。
 目が合うとリリルルは白い歯を見せて、ニヤリと笑った。笑みを浮かべた口からは、小さな泡が糸を引くように連なって流されて行く。
 途端に息をすることを忘れていた苦しさに気づいて、ヤツヒは慌て、胸に残った息を吐き出してしまった。水を飲み、むせて溺れそうになりながら、川底の石を蹴って上へ泳ぐ。
 水面から夜の冷えた夜闇へ顔を出し、一気に胸へと息を吸うと、ヤツヒはむせてふらふらになりながら河原に上がり、倒れた。
 背後には水から上がってきた足音が聞こえた。
『みっともないのぉ、エナイの戦士が溺れるなぞ』
「……ほっといてくれ」
『イヒヒヒ。恥ずかしがるでない、わしの麗しい姿に動転したんじゃろ。それなら納得じゃ。精霊の美しき裸体など、まず拝めんからのぉ』
 リリルルは声も高らかに笑っている。
いにしえには、たまたま水浴みをしとった精霊を見て、呪いを受けた哀れな連中もおるくらいじゃ。世の男が望んで止まぬわしの美しさを堪能した上、お咎めもなし。おぬしはほんに運がいいの』
 なにも纏わぬ身のまま歩み寄るので、ヤツヒはあわてて顔を背けた。
「おまえと関わり合った時で、運なんてとっくに消えて無くなってる」
『それで皮肉のつもりか、ヤツヒ。まともな皮肉の一つすら言えんとは、おぬしはまこと……』
 リリルルは大きく目を見開いて息を詰める。ため息をつくと、首を振りながら笑みを浮かべた。
『まことプノンよのぉ、ヤツヒ』
「うるさい。ほっといてくれ」
 河原に伏せたまま背を向けるヤツヒの傍らに、リリルルは並んで横になった。
『……のぉ、ヤツヒ』
「なんだよ」
『もしも、じゃ。仮に、の話じゃ。……この世に人としての生を捨て、代わりに精霊として生きる術があれば、おぬしは……。ヤツヒは、精霊になってもいいと思うか。精霊としての生を、おぬしは望むか』
 川沿いに吹き抜ける夜風に葦のこすれるかすかな音が重なりながら近づいてくる。
 ヤツヒはしばらく黙ったままだった。
『いや、何でもない。忘れ……』
「……それも、悪くないな」
『なんとっ』
 リリルルは跳び起きた。
『ヤツヒ、まことかっ。今のは真の言葉かっ』
「……ああ」
『そうか、そうであったかっ。まさか、そのように思っているとはさすがのリリルルも気づかなかったぞ。やれ、祝えや歌え、祝えや歌えっ』
 リリルルは満面の笑みを浮かべ、恥じらいもなく裸のまま喜びの踊りを舞う。クルクルと回るごとに髪がふわりと風にのり、肢体の一挙一動に、金粉のような精気があたりにこぼれた。
『よきかな、よきかなっ』
「リリルル。……俺、もう疲れたよ。穢れにまみれ、声なき声も届かず、己に巣くう悪しき鷲に飲み込まれかけるなんて……。最低だっ。……俺はエナイの末としても、森の守護者を名乗るものとしても、駄目なんだ。いっそ精霊にでもなって、自由気ままに暮らせたら……」
 そう呟いた途端、勢いに乗った強烈な一撃がヤツヒに繰り出された。
『このぉ、プノンめがぁっ』
 衝撃に視界が紫に染まる。
「リリルル、やめろ」
『プノン、プノン。ヤツヒのプノンっ』
 次々と繰り出される強烈な蹴りと拳に、ヤツヒは両手で頭を覆い、脚を縮めて腹を守るしかなかった。
「やめろよ、リリルル。やめてくれっ」
 ふっと衝撃がこなくなる。ヤツヒは恐る恐る顔を上げた。目を真っ赤にしたリリルルが立ち尽くしている。その顔は涙に濡れていた。
『いちばんのプノンは、わしじゃ……』
「どうしたんだ、リリルル」
『もうヤツヒなんて……、ヤツヒなんて大っ嫌いじゃ』
 リリルルはヤツヒを睨みつけた。
『二度と顔も見たくない。近寄るな、けがらわしいっ』
 少女の姿はまるで糸がほどけるように銀の霧となって消えてしまった。
「おい、どうしたんだ。リリルル。リリルルっ」
 いくら問いかけても答えはない。
 暗い川のほとりに、ヤツヒは一人残された。
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