第一章(7)
***
暗い川が、とうとうと流れている。
アミネは腕を覆っていた布をとった。月明かりに真新しい傷口を見れば、だいぶ塞がっている。禊を終えたら、もう布は巻かないことにした。
川べりに立つ。身を覆うものは、ない。青白い光りに照らされ、アミネの細く、しなやかな裸体が川面に映った。ただ、首には老人がくれた緑の宝珠をかけたままにしていた。なぜか、外してはならない気がしたからだった。
アミネはすこしずつ、水へと入った。切り裂くような冷たい流れに、足の指先がしびれてくる。長い栗色の髪は流れに広がり、漂っていた。
一度、身体を流れに沈めてから、アミネは手にした一枚の布をあらためて流れに浸した。
それはシルメトの巫女衣だった。戦いや旅程で生じた生地の傷みはつくろい、布地に織り込まれていた鉄もほどいてまとめてある。
これまで神々や精霊との戦いから身を守ってくれた巫女衣。それも今は完全にほどかれて、一枚の布地に戻ってしまっている。その加護はもう二度と受けられない。
冷たい流れに清めながら、感謝と守りの祝詞を捧げた。
――もう、これを着ることはないんだ。
そう思うと、ムラを去ること以上に心細くなってきた。間もなく辺境のクタガに向けて、森の中に伸びる道を延々と歩き続けることになる。ハイワエの巫女になったアミネは、シルメトの巫女衣を着れるはずもなかったし、もちろん護衛の兵もつかない。クタガへの道は精霊や神々はみな退けられた、シルメトの巫女の言う『安全な道』だった。だが、旅の安全をおびやかすのは、深き森の神々や精霊だけではない。粗野なエナイシケたちが潜んでいるかもしれない。イアの民でも盗賊や追いはぎになって道行く人々を襲う連中がいる。彼らに襲われない保証もない。
普通の民なら、イアの光を導く巫女に、手出しをするなど、考えもしないだろう。だが、イアの威光を蔑ろにする彼らは、目に見えるものしか興味を示さない。現実世界への影響力のない巫女など、彼らにとっては単なる小娘にしか見えないだろう。あるいは、使い道をもう少し考えれば、歩く身代金か。だが、大王と関わることを避けたいと思えば、単なる厄介者にしかならないだろう。
凍るように冷たい巫女衣の生地に触れていると、無防備な自分がありありと感じられて、どんどん、悪いことばかりを考えてしまう。
それでも禊の流れの冷たさは、浮かんできた悪い考えをいずこかへ流し、消し去っていった。
代わりにふと、突拍子のない考えが浮かんできた。
――もしかすると、神々や精霊より、人間の方が恐ろしい存在なのかもしれない。人間は、森の神々や精霊を、封じてしまうのだから……。
急に、水の冷たさが感じられなくなった。身体の芯が、首から下げた宝珠と響き合いながら温まり、水に対して反応している。倉番の老人が言っていたように、巫女衣の代わりに首から下げた緑の石が、水の寒さから守ってくれているのかもしれない。でも、そんなことがあるだろうか。
――危険だ。
そう思った瞬間、切り裂くような水の冷たさが戻ってきた。
やはり、一時的に感覚を失っていたに違いない。
アミネはあわてて、水からあがる準備を始めた。その所作をするうちにも、怒りの対象であるはずの森の神々や精霊が、川の流れを通して、身近な存在にさえ感じられてきた。あまりに冷え過ぎて、気までおかしくなってきたのかもしれない。その証拠に、次から次へと、イアの巫女にはふさわしくない考えが浮かんでくる。
――もしかすると、鉄さえ身につけなければ、森の神々や精霊は我々イアの民も迎え入れてくれるのではないか。イアの民が森に歓迎されなのは、我々が身にまとう鉄が、すべての元凶ではないだろうか。鉄は森を、斧となり切り開き、鋤となって田畑に変えて行く。原始の森は死に、姿を消す。だから、森の精霊と神々は、鉄を嫌うだけではないのだろうか……。
アミネは頭を振った。唇を震わせながら深いため息をつき、イアの威光をないがしろにする危険な考えを振り払う。
そんなの、どうかしている。鉄を身につけないなど、できるはずがない。エナイシケのような野蛮な連中と同列まで、高きイアの民は、落ちるわけにいかないのだから。それに彼らは、うち滅ぼす相手、憎い敵なのだから……。
――本当ニ、本当ニソウナノ。
心の奥に聞こえた、かすかな声。
アミネは気づかなかったかのように、その声に蓋をした。
そう。彼らは憎い敵。地上から消し去らないと。イアの威光を、広めるためにも。
だって私は、巫女なのだから……。
身体は芯まで冷え切っている。震えながら巫女衣の布をまとめると、アミネは水を滴らせながら禊の川を上がった。

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