橙の章 20
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獣のような咆哮を上げ、勝利を詠う魔人の唄の終わりは、彼のいる地点から丁度正反対の場所で、聖なる光が上がった時に訪れた。
長年の望みを果たし、満身創痍の体を引きずり、痛々しいほどの傷跡が刻まれた戦場から立ち去る為に、天野カガチの死体を背にして歩き出す。
――静かに、しかし絶対の確かさをもって、ずるり、という衣擦れの音が後ろから聞こえた。
その音に、引き寄せられるようにヴィンセントが振り返る。
「ばか……な」
力なく呟くヴィンセントの瞳孔が広がった。
その瞳は驚愕と戸惑い、そして畏怖が混じった色をしている。
そんな色をさせたのは、たった今死んだはずの女だった。
白い装束を赤く染め上げた、天野カガチがたおやかな微笑みをして、立ち上がっていた。
片や歴史の僕。
片や騎士の主。
天然と鍛錬。
天才と研鑽。
両極端の存在。
力量だけみれば、征服主は怪物の地点まで上り詰めた。
技量だけみれば、騎士王は暴君の地点を追い越した。
しかし、その決定的な差が生じる時が来た。
それは、歴史に愛された者と愛されなかった者の、絶対的な立ち位置の違いだった。
「何故生きている、なんて台詞は言わないように。私を殺した相手をそんな低俗な位置に置きたくないので。せっかく殺されてあげた意味の純度が落ちます」
天野カガチが、自分の眉間を指し示しながら優雅に言った。
3発の銃弾が空けた空洞、女の白い肌は何事もなかったように綺麗にふさがっていた。
しかし、女の纏う白い外套は、しっかりと血の赤色で濡れている。
「でも、何も教えてあげないというのも不親切ですから、教えてあげましょう。まだ時間も余っていますし。さしずめファイナルラウンドですかね」
ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、と乾いた音が弾けた。
カガチの言葉を無視するように、ヴィンセントがその手に持ったハンドガンを発砲したのだ。
4発撃った弾丸は、女の腕を、腹を、胸を、脚を貫く。
全ての弾が命中し、カガチの体から鮮血が噴出す。
だが、それだけだった。
「褒めてあげましょう。まだ戦う気迫が残っていることを。確かにあの頃よりは成長しているようですね。ですが、それ故にあなたにはわかってしまったはずです。あなたでは決して私には勝てないことを」
穴の開いた体で優雅に笑うカガチ。
その穴が、ビデオを逆再生するように、みるみる塞がっていく。
「私が怪物と呼ばれる所以は、圧倒的な怪力などではありません。あの程度の身体能力者なら、『天岩戸』には幾人かいました。なら何故私が怪物と呼ばれたのか、それはどんな化け物も辿り着けない異能。死ぬことのないこの体こそ、私が怪物たる所以」
そんな馬鹿な、ヴィンセントはそう思う反面、正しく理解してしまった。
理解出来てしまった。
今、目の前で傷一つなくなった女がいるのだから。
そして、もう一つ理解する。
自分では、この女にはどうやっても勝てないのだと、理解してしまう。
「知っている者は、『天岩戸』でも極僅かでしたから、あなたが知らなかったのも無理はないでしょうね。でもヒントはあったはずですよ? 気付きませんでしたが? あなたの斬り付けた左肩の傷がなくなっていたことに」カガチはそう言って、左肩を示す。
ヴィンセントが一太刀入れたはずの肩口からの出血は、確かに止まっていた。
しかし、ヒントというのならもっと大きなヒントが提示されていた。
最初から。
「カガチ――この国では蛇の異名であったか。なればこそ、貴様はその名を冠していたのだな」ヴィンセントは今のままで気付かなかった、自分に向けるように憎憎しげに言った。
多くの信仰において、蛇は死と再生を司る。
終わりの無い生と死。
天野カガチという女の異能は、その名前の具現ともいえよう。
死なない怪物。
そんなものに、ただの人間が勝てるわけがない。
殺しきれるはずがない。
だが――頭で理解出来たところで、ヴィンセントの心は理解しない。
いや、理解できたからこそ彼は退くことは出来ない。
ぼろぼろの体に活を入れ、ヴィンセントは再び天野カガチという怪物と対峙する。
それは過去の復讐心などではなく、騎士として、騎士の王としての決断だった。
ヴィンセントは低く、誇り高く口上を述べる。
「秩序を守ることが出来るなら、命など必要なものではない。忘れるな、我らがこの世の秩序の護り手であることを。何度生き返ろうと、我は貴様を打ち滅ぼす。この身が果てるまでっ!」
しかし、征服主の体が僅かに前進したのを、カガチは静止する。
「やめておきなさい。あなたの命ごときを賭けたところで、この身には届きません」
それは諭すような口調だった。
「やってみなければわからん」強がりではなく、心の底から出る言葉。
だがカガチはかぶりを振る。
「いいえ、あなたは魔人と呼ばれるまでに成長した。だからこそ不可能です」
「――どういう、意味だ?」
「忘れてはいけません。私は人の領域を超えた怪物です。怪物を倒すのは、神でも魔でもなく、ただの人から生まれ出る英雄、と相場は決まっているでしょう。故に、この身を滅ぼせるのは、魔境に足を踏み入れたあなたではありません」隻眼の女は強く断言する。
隻眼?
「その眼はどうした」
女の美顔に20年前は、あったはずの片目がない。
そんな事に、漸くヴィンセントは気付く。
それだけ、今までの彼が平静を失ってたのだとわかる。
いや、騎士王、魔人の彼であるなら、いくら平静を失おうと、その程度の事に気付かないはずがない。
彼は今の今まで見えていても、認識できていなかったのだ。
カガチの左目に刻まれた、綺麗な一筋の刀傷が。
まるで、何かに操られるように、導かれるように。
「やっと気付きましたか。気付かなかったら、どうしようかと思いました」カガチは浅く安堵のしたように溜息をつく。
「私がいくら死を再生できるといっても、その異能ごと殺されれば、再生することは出来ません。この左目は、『神殺し』に奪われました」
だから、再生しない、と元『天照』に座していた女は言った。
「……アマクラにやられたか」
「ええ、私の持たない蛇の眼を持つ、あの子にばっさりと。まあそれでも私を殺す役回りに選ばれていないあの子では、それが限界でしたが」右目しかない、カガチが楽しそうに言った。
「さて、それではそろそろ時間ですが、まだやりますか? 決して勝つことが出来ない、無意味な勝負を」
カガチの問いかけにヴィンセントは質問で返した。
それは、既にヴィンセントに戦意が残っていない事を意味する。
彼は諦めたのだ。
自分で終わりにすることを。
だが、全てを終わりにするつもりは毛頭なかった。
だからこそ、カガチに問う。
「……全ては筋書きか」
「そうです。あなたは選ばれなかった」
「選ばれなかった……か。ならば選ばれた者もいるわけだな? 貴様を打ち滅ぼす為に選ばれた者が」
ヴィンセントの問いかけにカガチは頷いた。
「それは誰だ?」
「それは私の口からは言えません。その質問の答えは、最後の調整者が教えてくれるでしょう。文字通り、私を倒す欠片を持って」
「最後の調整者?」
「……答えの出ている質問をしないように。それでは、私はこれで。さようなら征服主」
カガチが嗜めるように言って、一礼すると、王の城の夜空に現れた銀月の灯火が、女を濡らす赤い血を淡く輝かせた。
スポットライトを受けた女が軽やかなステップで、騎士王の前から飛び退く。
ヴィンセントは、その踊るように去っていく女を追うことはせず、傷ついた体でそれを見届ける。
結局、勝利は得られなかったが、膝を付くことはない。
まだ、戦いは終わっていないのだと、その重厚な瞳がいっていた。
闇を舞う女は、一人呟く。
「最後に――本当に、よくそこまで強くなりました」
その声は誰にも届く事無く、夜の静寂に溶ける。
二つ目の戦いの終わりの音は、
ただの人であった青年のこれまでの煉獄を讃える、
天野輝血の慈悲に満ちた声であった。
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