橙の章 02
1
「あい、もしもし?」
「あ、もしもし。竹さあ、今日って暇?」
「何で?」
「いや、暇だったら今から竹ん家行こうかなと思って」
「あー、悪い。暇じゃないわ」
「マジで?」
「まぢで。今出掛けなんだわ」
「マジかー。じゃあまた今度電話するわ」
「あいよ。そうしてくれ。んじゃまたね」
「うーい、またねー」
立秋を過ぎ、暦の上では既に秋となっているものの、暑さは未だに長々と夏を引きずっている。
この分だと9月も暑くなると昨日のニュースでタレント兼、気象予報士の特徴的な顔をした男が言っていた。
現に外では出てくるタイミングを間違えた蝉たちが、秋の虫たちに引き継ぎをせずに、日中延々と鳴き喚いている。
とはいえカレンダーの日付は、例年よりも暑かった激動の夏に一応の終わりを告げようとしている8月31日。
友人とのなあなあな通話を終えて、パタリと携帯電話を閉じた天倉竹は、人類の暑さへの切り札とも言うべき、冷房の効いた喫茶店の一席に肘をついて座っていた。
その表情は傍から見ても、疲れきった顔をしている。
「今の電話は本多か?」
腕を組んで、竹の対面に座る白いブラウスに細めのデニム姿の黒澤怜が、支配者階級丸出しの冷ややかな視線と声を、竹に浴びせた。
「……そうですよ」
竹はその質問に、疲れているのをアピールする為に、ため息をつきながら返した。
「やはりそうか。お前が本多と電話すると、いつもあんな感じだからな。それでわかった。他にもあと5〜6人はわかるぞ」そう言って、怜はニヤリと口元を上げた。
何か企んでいそうな笑顔だったが、怜が何か企んでいる場合、表情には一切出さないので、ただ単純に笑ったのだろう。
聞いてもいないのに、竹の通話相手が誰か当てた理由を言う辺り、機嫌も良さそうだった。
しかし竹としては、笑うのならもっとストレートに笑って欲しい。
それと残りの5〜6人が誰なのか気になるところでもあった。
まあ怜が素直に微笑んだ事なんて、未だかつていない事だったし、残りの5〜6人の中に爆弾が混じっている可能性もあったので、どちらも進言するのは止めておいた。
下手に聞いて機嫌を損ねるのも馬鹿らしいし、何よりそんな事を聞く事すらダルイほどに疲れていた。
竹はそんな一切合財をまとめて、溜息をもう一度つく。
「何だ? 溜息をついたりして。疲れているのか?」
「そりゃ疲れもしますよ。こんだけ荷物持たされているんですから」
竹の左右には、買い物袋が両手の指を合わせた数ほどあった。
その荷物の多さから、2人は使用人数の3倍は座れる席に案内されている。
「文句を言うな。というかお前がこれくらいで疲れるわけがないだろう」
怜は突き放すような言い方だったものの、声色はやはり機嫌の良さが隠せていなかった。
怜にしては珍しいことである。
竹は怜がなぜこんなにも機嫌が良さそうなのか、不思議に思ったが特に思い当たる事もなかったので、内心で首を捻るだけに留めておいた。
「そりゃあ、今日の買い物だけだったら疲れませんけど。今のオレには蓄積された疲労があるんですよ……」竹は無表情でつっけんどんに言う。
怜とは対照的にあまり機嫌が良いとは言えない、状態だった。
その原因は20日ほど前まで遡る。
8月の2週に秋野の館から帰ってきてから竹は、毎日のように連れまわされていた。
主に大神深翠と山吹蒼香に。
帰ってきた直後に、私服が洋服になっていた深翠の提案で本多雄貴、大木直也も呼んで行った花火大会では、初めて見る蒼香の和装の新鮮さにテンションが上がったのも束の間、人混みに流され全員が迷子になって、
その最中に出くわした同じく迷子のクラスメイトと、なぜか一緒に花火を見る事になり、それを2人に言ったら剣呑な状況に陥った。
その後、罪滅ぼしという名目で強制的に連れて行かれた、買い物、プール、海。
この3つは殆どセットだった。
水着の購入の為に、死ぬほどの数の水着を試着した、美少女2人の姿を見せ付けられ、死にそうになり、プールでどちらの方が水着が似合っているのか、聞かれて殺されそうになって、
松田と佐藤もくっついてきた海では、一緒にナンパに参加したら蒼いのと翠のに殺されかけて、ついでにその光景を見た3人は冗談半分で止めを刺しにきた――訂正、あれは冗談3割、本気7割だった。
つい1週間ほど前は、慰安目的で十三夜のメンバーだけで、一泊二日の温泉旅行に行ったのだが、それは慰安とは程遠いハチャメチャな旅になった。
要約すると酔っ払った竹が開催した、『賞金首捕獲レース』にノリノリで参加した酔っ払いどもが、なぜか都合よく多くの賞金首たちが集まっていたのを捕まえる為に、温泉を2つ枯渇させ、山を1ヘクタールほど伐採し、滝がただの川になり、温泉街を歩行が困難な程度に破壊し、小旅館1棟を半壊させ、とあるホテルの5、6階部分を消失させた。
他にも多々このレースにおける凄惨な傷跡は、たった一夜の間に彼の温泉地へと刻み込まれた。
奇跡的に一般人の負傷者が出ていないのが、唯一の救いだった。
勿論その後すぐに、色々な伝手を頼り、ある程度は彼の温泉地を元通りに修復した。
しかし、それに伴う悲惨な請求額と、彼の温泉地への出入り禁止の御触れは、十三夜のメンバーに刻み込まれたままである。
まあ完全に自業自得ではあるが。
他にも竹には夏休みなのに休養する暇もなく、連れまわされ続けた。誘いを断ると、美少女2人は仲良く竹の自宅に押しかけてきた。男だったら「帰れ」とい言える竹だったが、美が付く女性に言えるほどに豪胆ではなかった。
遊び通したのだから、別に良いだろうと思うかもしれないが、体力なしの竹にとっての休みとは基本的に一人で一日中何もせず、ゴロゴロとしている事だったので、肉体的にも精神的にも疲労し続けた日々だった。
そして今日は漸く、誰からの誘いもなくなった、というか本気で皆、特に深翠と蒼香に懇願して出来た念願の休養日だったわけだが、昼前に自宅に訪問してきた怜に人攫いの如く連れ出されて、今に至るわけである。
やはり美が付く女性に押しかけられて、「帰れ」とは言えない竹であった。
そしてそれが怜であるなら尚更だったし、秋野の館から帰ってきて丁度良く自宅の修復作業も終了していたので、怜の自宅に泊まる事もなく、更に目の回るほどに遊び通しだったので、怜と会うのがあの時以来だった、というのもある。
とはいえ、精神的にも肉体的にも疲労している事には変わらないので、あまり機嫌が良いとは言えず、口調も表情も買い物の最中ずっと憮然としたものだった。
「そうだったか、そういえば言われてみれば、なんだか冴えない顔をしているな」怜は今気付いたという顔をする。
察しの良い怜にしては遅すぎるのだが、もしかしたら機嫌の良さと反比例しているのかもしれなかった。
「全く、だったら私が行った時に、そう言えば良かったじゃないか。下手に遠慮していると余計なものを招くぞ」
そう言った怜がバッグからタバコとライターを取り出し、火を点けようとしたところで、注文していたアイスコーヒーとアイスティーが、ウェイトレスの営業スマイルと共に2人の前に届けられた。
怜は咥えたタバコと、目の前に届けられたアイスコーヒーを器用に見比べて、結局咥えたタバコに火を点けるのをやめて、未使用の灰皿の窪みに立てかける。
そしてアイスコーヒーにガムシロップだけ入れて、ストローに口をつけた。竹は自分のアイスティーには手をつけずに、何かを期待するようにそれをじぃっと見つめていた。
「……っ?! まずっ! 何よこれっ!?」けほけほ、と可愛らしく咳き込む怜。
竹は期待通り、いや期待以上の結果に、憮然とした表情を崩し、思わずニヤついてしまった。
ここは竹の住む街から、小豆色の電車30分程度のところにある百貨店近くの、コーヒーのまずさが一部で知れ渡った喫茶店。
少し休憩しようと相成った時に、怜がコーヒー党と知っていて、竹がわざわざ入った店だった。
軽い悪戯のつもりだったが、怜の女性らしい口調を久々に聞けたのは僥倖だった。
しかし、それが表情に出してしまったのが運の尽きだった。
「……竹。お前知っていたな?」
怜はにこやかな笑顔で言ったが、その低い声はどう聞いても、その表情とは正反対のものだった。先ほどの機嫌の良さは完全に影を潜めている。
どうやら怜は、今のを軽い悪戯で済ますつもりはないようだった。
わかりやすすぎる、ピンチだった。
引いたはずの汗がどっと吹き出て、背中とTシャツの密着度を上げる。
「知っていてやった、ということは、これは私に対する宣戦布告と取って良いんだな? わかった、お前がそういうつもりなら、私にも考えがある」
――やっちまった!
どーすんだよこれ?!
エマージェンシーですよ完全に!!
竹はこのピンチを招いた情報元である、蒼香に呪詛の言葉を胸の内で吐く。
ただの逆恨みのようだったが、実は蒼香はこういう風になるであろうと予測して、竹にこの情報を教えていたので、完全には逆恨みとはいえなかった。
まあ精神的に疲れていたとはいえ、考えなしに実行した竹にもやはり問題はあったわけだが。
蒼香の仇敵である黒澤怜に対する、遠まわしな攻撃が実った瞬間だった。
更に蒼香の読みでは、この後竹が今の悪戯を蒼香の考えであると告げる事で、怜の怒りの矛先が自分に向く事になり、それを切欠に正当防衛として怜を始末する予定だった。
勿論この考えには深翠も快く賛同している。
蒼香も深翠も冗談抜きで、共通の敵である怜を始末したがっていた。
このままいけば、確かにそうなっただろう。
しかし話は、ある人物の混入により、蒼香の読みの斜め上を軽々と飛び越える方向へと進んでいった。
精神的に追い詰められた竹が、自分の身の潔白を証明する為、ぶっちゃけて言えば単なる言い訳、しかも自分の身可愛さに女性を差し出すという、かなり格好悪い行為をしようと、口を開こうとした時に、その人物は登場した。
それは肉体、精神の疲労が回復した竹が後に、今しようとしていた行いに後悔しなくて済んだ、救いの天使であった。
「っ天倉君っ!! こんにちはっ!」
精一杯の勇気を振り絞ったような、震えた声が喫茶店内に響き渡る。
言われた本人である竹や、近くにいた怜は勿論の事、店内中の殆どの人間がその声の主に注目した。
それに気付いて、「あっ……ひゃうぅ」と顔を真っ赤に染めて縮こまる、この店のウェイトレス姿の少女。
竹は色々と戸惑いながら、自分以上に戸惑っているその人に声をかけた。
「……荒川さん?」
「はぃ……」
コクリ、と小さく頷いたウェイトレスは、竹の高校のクラスメイトにしてクラスのアイドル荒川宿禰だった。
|