第二章 4月25日 くさい仲
「はー……くんくん……」
智代はしきりに自分の手に息を吐きかけては、その臭いを嗅いで確かめていた。
餃子を食ったからだ。
「……なあ、本当に臭くないか?」
「大丈夫だっての……食ったの一個だけなんだし。コーヒーも飲んだし、歯だってみがいただろ?」
もう何度訊かれたわからない質問に、前とほぼ同じ文面を答える。
あの後は本当に大変だった。
智代は無意識に餃子を食った事に気付いて絶叫するわ。
それを聞いてお袋はやってくるわ。
そのお袋に、“あ~ん”をやってた事をばらすわ……。
最悪だ……!!
「大体、一個で臭ったら、四つ食った俺はどうなるんだよ?」
「お前は男だからいいじゃないか。でも、女の子にとってにおいは、とても気を使う物なんだ……どうしよう?今日から選挙戦だと言うのに……活動は来週からに延期すべきだろうか?」
「おいおいおい……」
「大勢の生徒の前に立つ必要があるのに、にんにく臭いと思われたら嫌だろ?決して良い印象を持たれる事は無い筈だ」
「だ・か・ら……俺、臭いか?」
「ん?」
呆れながらそう言うと、不意に智代は胸元に顔を寄せてきてにおいを嗅いできた。
ふわりと香るいつもの甘いにおいが、心の琴線を掻き鳴らす。
まったく……何が臭いんだ。
「うん。いつものお前のにおいだな」
「それは、いつも俺は臭いって事か?」
にこにこしながらそう言われ、照れ隠しについ自虐的な事を言ってしまった。
だが、
「そうは言って無いだろ?香水とかのにおいでは無いが、男の人のにおいだな。うまく言えないが……嗅いでいてどこか安心する、頼もしいにおいだ」
完全に墓穴った!!
言葉通りの信頼しきった笑みでダメ押しされ、走って逃げ出したい衝動に目をつぶって耐える。
「お、お前もいつもと変わらないから、安心しろ」
「そうか……でも、自分のにおいには慣れてしまうと言うしな。もし、私もお前もにんにく臭かったら、私達ではわからないかもしれない」
「だから、気にすんなって……」
結局、こんなやりとりをエンドレスで繰り返している内に、校門に着いてしまった。
渚さんとは会えなかったな……。
「古河さんと、会えなかったな……」
校門をくぐると、智代が独り言の様に呟く。
丁度同じ事を考えていたらしい。
もっとも、俺の方はむしろ会ってどうするんだ?って思いの方が強いが……。
だって、どうするよ?
渚さんに彼氏出来ましたか?とか訊くのか?
岡崎さんとつき合ってますか?なんて、訊ける訳無いだろ。
一緒に登校してくれてたりすれば、わかり易いけど……。
「そう言えば、前にこの辺りで古河さんと会ったんだが、あの時は岡崎と一緒だったな。なあ、二人は付き合っているのか?」
「えっ……?」
って、目撃者が直ぐ隣にいた!
「さあ……でも、古河先輩が家に岡崎先輩を連れて来たって話は親父さんから聞いた」
「やはりそういう仲だと言う事か……どうりで仲が良さそうだった訳だ」
お前だって俺ん家来てんじゃん!
なんてつっこみそうになったが、きっと薮蛇なので慌てて言葉を飲み込む。
「……だから私が古河さんを励ましに行く事を止めたのか?古河さんには、岡崎が居るから……」
少し考えてから、不自然な程切なげに智代が訊いた。
「ああ……いや、岡崎さんだけじゃないけどな。他にも演劇部仲間は居るみたいだし」
「そう言う事なら、初めからそう言ってくれればいいじゃないか。それなら、お前と言い争いになる事も無かったのに」
「不確かな事言えないだろ……本当に付き合ってるのかどうかまでは、わからないんだし」
「それはそうだが……多分、そういう仲だと思って間違い無いと思うぞ。“女の勘”だ」
どうだ!と女である事を誇示するかの様に智代は胸を張る。
何だ?触って欲しいのか?
とか言ってやろうかとも思ったが、ここは校内なのでアホな事は止めておく。
「そういう事なら、古河さんの事はそれ程心配しなくても良さそうか。あれで岡崎は、結構頼りになる奴だからな。噂程悪い奴じゃない」
「知ってる……」
つまらなそうに言いながら、昇降口を通って下駄箱で一時別れる。
真正面の掲示板には、かなりの人だかりが出来ていた。
選挙のポスターでも貼ってあるんだろう。
「校内選挙が始まりま~す!報道部のアンケートに御協力くださ~い!」
靴を履き替えていると、何やら間延びしたアニメ声が聞こえてきた。
見ると、掲示板の隣に設置された長机に見知った顔が立っている。
また門倉が何かやってんだろう。
「凄い人だな……実里が何かやってるようだが、何をやってるんだ?」
廊下で人だかりを眺めていると、同じように靴を履き替えた智代が寄って来る。
「アンケートつってたな……よくTVとかでやってる、事前調査じゃないか?」
「この学校はそんな事もやっているのか?」
「いや……去年はやってなかった……と思う」
単に興味が無くて気がつかなかっただけかもだが……。
「「智代先輩、応援してます!頑張ってください!!」」
二人して人だかりに目を奪われていると、いきなり背後から興奮気味な声がハモる。
向き合うように振り返ると、そこには一年生らしき二人の女子が、握り拳で立っていた。
知り合い……じゃ、ないよな?
例のファンてやつか?
「ああ。ありがとう」
「「きゃー!」」
智代が男前にそれに応えると、一年達は黄色い悲鳴を上げながら逃げていった。
そういえば……こいつ結構人気あるんだよな。
他校の奴等とやりあった時も、きゃーきゃー言われてたし。
「実里に挨拶してくる。ここで待っていてくれ。それとも、お前も一緒に来るか?」
「いや……」
「そうか。じゃあ、ちょっと行ってくる」
そう言って智代は、小走りで報道部の方の人だかりへと突入して行った。
取り残された俺は、選挙のポスターに目を向ける。
皆すまし顔で写っているが、その中でも一際目を引くのは、やはりあいつのポスターだった。
何と言うか……こうして改めて見ると、そこらのグラビアアイドルなんかよりずっと可愛い。
まあ、あいつからすれば、そんな事で人気を取りたくはないだろうが……。
でも、実際何の実績も無い智代の支持層は、圧倒的にそのミーハーな連中になるだろう。
そういう人間は、流行に飛びつくのは早いが、その分冷めるのも早い。
そして……冷めた時の奴等は、恐ろしく残酷だ。
「わかってんのか……お前」
前々から予想していた苦戦を予感し、少女のポスターにつぶやいた。