第二章 4月25日 騎士の本懐
とんとんとんと小気味良い軽快なステップが聞こえて来る。
家族の誰の物でも無い、階段を上ってくる音。
やはり来たか。
その襲撃を読んでいた俺は、今日は狸寝入りで待ち構える事にした。
「おはよう、オーキ。今日も迎えに来てやったぞ」
やはりノックも無くドアを開け放たれる。
しかし、ここはグッと怒りを堪えて寝た振りを続ける。
「何だ?寝てるのか?珍しいじゃないか。いつもは直ぐに起きるのに……」
俺が寝ているのを見て、嬉しそうな気配が近付いて来る。
テーブルを組み立てて朝食の盆を置き、布団の傍らに座った。
「ひょっとして、今日も寝不足なのか?」
まったく無反応な俺の様子に不安を覚えたのか、声のトーンから軽やかさが消えた。
心配させているのは分かったが、それでも目は開けない。
「ゆっくり寝かせておいてやりたい所だが、それでは学校に遅刻してしまうな……ほら、オーキ、もう朝だぞ。起きるんだ」
「ん~……ん……」
体を優しく揺さぶられる。
一応それらしく反応はしておくが起きない。
「起きないな……よし、少し可哀相だが仕方が無い。起きろー!遅刻してしまうぞ!」
布団の裾を持って立ち上がると同時に引っぺがされる。
今起きればローアングルからの絶景が見られるかもとも思ったが、その誘惑にも負けず目は開けない。
「まだ起きないのか……そういえば、前もずっと寝ぼけていた時があったな……寝起きはいいが、その分眠りが深いという事だろうか?それとも……まさか、具合が悪いのか?」
今度は枕元に腰を下ろした気配が、更に近付いてくる。
両手をついて見下ろされ、長い髪がふわりと顔に落ち、鼻孔をくすぐる。
それが取り払われると、彼女の体温が感じられる程の距離に迫り、そしてついに触れた。
重ねられた額と額。
伝わる体温。
脈動の早さでばれやしないかと焦りながらも、じっと羞恥に耐える。
「……やはり、少し熱っぽい気がするな。体温計でちゃんと計った方がいいかもしれない。この部屋には……有るはずがないか。お母さんに事情を説明して、置き場を聞いてこよう」
「ん、ん~ん……」
それは勘弁!
NGワードが出たので、立ち上がった智代を止めるべく、のっそりと起き上がる。
お袋に出てこられると、話がややこしくなるからな。
「ああ、起きたか。おはよう、オーキ」
「……ん~……おふぁよう……」
それに気付いて振り返った彼女と、わざとらしく伸びをしながら欠伸混じりの挨拶を交わした。
すると智代は戻ってきて俺の傍らに立膝になると、もう一度確かめる様に右手を俺の額に、左手を自分の額にあてる。
「珍しく今日はお寝坊さんだったな。体調でも悪いのか?」
「いや……寝足りないだけだ」
「そうか。それならいいんだ。なら、朝食は食べられるだろ?冷めない内に食べた方がいい」
「ああ」
「よし、じゃあ私が食べさせてやる」
そう言って俺の返事もまたずに跳ねる様に立ち上がった智代は、朝食の乗ったテーブルごと布団の脇に置きなおすと、再び俺の隣に腰を下ろした。
「あ~ん」
そして嬉々としながら箸をとっておかずをつまみ、左手を添えながら問答無用で向けてくる。
それを俺は……
「ん」
素直に口を開けて受け入れた。
「どうだ?」
「普通」
「またそれか……まったく、お前はいつも『普通』だな。仕方のない奴だ。あ~ん」
「ん」
次のご飯も、その次の味噌汁も差し出されるがままに口に入れると、味噌汁の椀を置いた智代は手を止め、いきなり顔を寄せてきて俺の顔まじまじと診はじめた。
「な、何だよ?」
「どうしたんだ?今日はいやに素直じゃないか。私が部屋に入って来ても怒らなかったし……やっぱり、どこか具合が悪いんじゃないのか?」
「違うって……どうせもう暫くは来なくなるだろ?だから、今日くらいお前の好きにさせてやろうって思ってな」
「何を言ってるんだ?そんな言い方されたら、明日から来辛くなるじゃないか」
「…………」
彼女の戯言に、俺は沈黙と憮然とした表情で答える。
普段から空気の読めない奴だが、流石にそれでしゅんとなって箸を置いた。
「……判ってる。今日の放課後からちゃんと選挙活動をするつもりだ……でも、お前は選挙を手伝ってはくれないんだろ?」
「俺には俺の仕事があるからな」
言い訳じみた反論を一蹴しながら、どさくさ紛れに箸を奪取し、自分で飯を食い始める。
すると智代はムッとしながら俺の手を両手で掴み、箸を取り返そうとしてきた。
交差し絡み合う腕と指。
「今日は私の好きにさせてくれるって言ったじゃないか!」
ムキになった智代が身を乗り出した拍子にムニュッと柔らかい物が密着し、俺が硬直した隙にまんまと奪い返される。
クソッ……わざと押し付けてきてないか?
「ほら、あ~ん」
「ん……言っとくが、今日つっても、この部屋を出るまでだからな」
勘違いされては困るので、咀嚼しながらも得意気な所に釘をさす。
「今日一日私の好きにさせてくれるんじゃないのか?」
「んな訳ねえだろ?言葉のあやだ。それより次」
「ん?ああ、あ~ん……じゃあ、一緒に登校もしないのか?」
「それはいいけど、必要以上にくっついたりは無し」
「どうして!?」
「それについては、もう何度も説明してる」
「……」
俺の身も蓋も無い言葉に、智代はむうっと黙ったまま手だけを動かしていた。
無言で飯を差し出し、無言でそれを食うという異常な光景。
「そういえば、あれから古河さんとは会ったのか?」
その空気に耐えられなくなったのか、智代は一瞬俯いた後、思い出した様に言った。
昨日は、一緒に古河パンに行きたがったのを『病院に行くから』と適当に誤魔化したからな。
まあ、こいつに隠す様な物は何も無いけど。
「今朝パンを買いに行ったが、親父さんにしか会えてない」
「そうか……あ~ん」
復活した『あ~ん』で差し出された餃子を口にくわえる。
「先輩の様子を訊いてみたけど、何かぼ~っとしてたそうだ」
「ぼ~っとしてた……?そうか……やはり相当落ち込んでるみたいだな……」
「かもな……」
秋生さんは『恋する乙女の目だった』とか言ってたが、ぼ~っとしていたのは単に目標を失った虚脱感による物かもしれない。
いや、岡崎さんと本格的に付き合いだしたって線はもちろん濃厚だし、正直、俺は前々から二人はそういう仲だと思ってたから、今更だったが。
ただ、確証も無いのに誰かと誰かが付き合いだしたとか、そういう話はしたくない。
部活の代わりに彼氏ゲットとか。
人が落ち込んでる所につけこんでとか。
そういう見方も出来なくも無いしな。
まあ、確証があっても人の色恋沙汰なんてわざわざする物でも無いが。
「オーキ、古河さんのクラスは知っているか?」
「先輩の?さあ……?」
「お前は、実の姉の様に慕っている人のクラスも知らないのか?」
智代はジト目を向けてくるが、自慢じゃないが実の弟のクラスや何部活やってるのかも俺は知らん。
「実里に訊けば知ってるだろうか……?」
「やめとけ」
嫌な予感がしたので、とりあえず否定しておく。
「どうして?古河さんが落ち込んでいるなら、知り合いとして励ましてあげるべきだろう?」
やっぱりか。
事情を知らないとは言え、相変わらずお節介な奴だ。
「それでクラスにまで押しかける気か?迷惑だからやめとけ」
「でも、登校する時に古河さんに会えるかわからないじゃないか。昼休みや放課後は選挙の会議や活動が有るし、確実に彼女に会いに行けそうなのは休み時間くらいなんだ」
「だからいいって……そっとしとけ」
「どうして?そんなの古河さんが可哀相じゃないか」
「同情するなら、お前はお前のやるべき事をやれよ!!」
“可哀相”にカチンと来て、思わず声を荒げる。
それにビクッとなった智代だったが、すぐに不貞腐れた要に口を尖らせ反論してくる。
「だから、選挙活動はするって言ってるじゃないか!」
「励ますって、何て言う気だよ?自分が生徒会長になって部活出来る様にしてやるとでも言う気か?それでお前が落選したらどうすんだよ?二度先輩を落胆させる事になるだろうが」
「だからって、お前は落ち込んでいる古河さんを放っておけと言うのか?」
「別に後輩のお前がする必要は無いつってんだ」
「人を励ますのに先輩後輩は関係無いだろ?お前はそういう事を気にし過ぎだ」
口論をしながらも智代は手を止めず、俺に飯を食わせている異常な光景。
まったく、俺達は何をやってるんだろう?
辟易しながら溜息をついて脱力する。
仕方無い。
あまり話したくはないが、こいつになら渚さんの身体の事を伝えておいてもいいだろう。
「お前にはまだ言ってなかったかもしれんが……先輩は病気で去年ダブったんだ……」
「身体が弱いって、そんなになのか!?」
「だから……部活がダメになって、正直、ほっとしてる部分もある」
俺の告げた事実がショックだったらしく、智代の持つ箸が餃子をつまんだまま止まっていた。
それが落ちないかと内心冷や冷やしていると、何故かひょいと餃子を口に入れてから、フッと呆れたように微苦笑する。
俺の餃子……!?
「……お前達は、本当によく似ているな」
「えっ?な、何が?」
餃子を食われた事でややパニクった所に、更に脈絡の無さそうな事を言われ、処理速度が追いつかない。
そんな俺を他所に、智代は諭す様にしみじみと続ける。
餃子を食べた口で……。
「お前と古河さんがだ。それと、鷹文とも似ているな」
「いや、だから何が?」
「自分よりも他人の事を優先してしまう、優しい所がだ。でもな。だから私はお前の事が心配だ。いつか……いつか鷹文の様に自分を犠牲にしてしまうんじゃないかって、不安なんだ……」
バラバラになりかけた家族を守る為に、車道に出した智代の弟の鷹文。
その光景を目の当たりにしたこいつの心には、きっと深い傷が残っているんだろう。
こいつの予感はある意味正しい。
でもな……。
「俺と鷹文とは別物だよ。俺のは優しさとかじゃない……」
こいつの前では、そんな言い訳しか出来なかった。