第二章 4月24日 穢された聖女
杉坂め……やってくれる……!
事の一部始終を盗み聞きした俺は、ひとまず教室に戻る事にした。
ズキズキと痛む、まだ完治していない無い右手を、強く握り締めながら。
まさか開き直って情に訴えかけてくるとは……。
だが、優しい渚さんに対しては、脅迫なんかよりもずっと効果的な策だ。
クソッ……!!
やり場の無い怒りに、廊下の壁に八つ当たりしたくなる。
仁科の過去の話は、やはりそうかと納得のいく物だった。
一年の頃の儚気な彼女を知っていれば、何か事情が有る事くらい容易に想像出来た。
片手が悪い事にも気付いていた。
でも……俺が知る限り、仁科がそれを何かの言い訳にした事は無かった。
どんなに物を運んだりする時に不便していようとも、授業を休みがちな事で陰口を叩かれようとも、例えそれで孤立しがちになろうともだ。
それを……。
あいつは、仁科を可哀相な子にしたんだ。
無断で勝手に、他人に触れられたくない過去の傷を晒したんだ。
例えそれが仁科の為であろうと、それを交渉のカードにしていいハズが無い。
春原さんが怒るのも当然だ。
もし、渚さんが同情しなかったら、どうするつもりだったんだ?
クソッ……!!
俺の所為だ。
俺が渚さんは優しいとか言ったから、こんな手を……。
自分の愚かさに反吐が出る。
慢心だ。
最近、それなりに事が運べていたから、今回も説得すれば解決出来ると思っていた。
杉坂もそんなに悪い奴じゃないからわかってくれると、どこか楽観的に考えていた。
あいつの仁科への、合唱部設立に賭ける想いの強さを、見誤っていた。
その結果がこの様だ。
俺に任せてくれとか言っておきながら、最悪じゃねえか。
先輩達に合わせる顔が無い。
靴を上履きに履き替え、下駄箱を抜ける。
そこでは選挙の準備なのだろう、掲示板の前で何人かが作業をしていた。
智代……。
あいつの顔が思い浮かぶ。
情けない。
散々偉そうな事を言っているくせに、結局あいつを当てにしている自分が笑えてくる。
俺には、このまま何も出来ないのか……?
いや……何かあるはずだ。
俺にしか出来ない事がきっと……。
珍しく自分の教室で飯を食い、そのまま昼休みの終りを告げるチャイムを聞く。
暫くして、先程の事などまるで嘘だったかのように杉坂は仁科と共に戻ってきた。
「じゃあ、りえちゃん、また後でね」
「あ、うん……」
と言うか、“ルンルン”なんて擬音が似合いそうな程浮かれていた。
気後れした仁科が戸惑っているのもお構いなしに、軽やかに自分の席に戻っていく。
もはや眼中に無いのか、俺には一瞥もくれずに。
あんな事をしておいて……どうして喜べるのか気が知れない。
「ふうっ……」
「川上君、どうかしたの?」
やれやれと溜息をつくと、気付いた仁科が訊いてくる。
しかしその瞳は、俺を心配していると言うより、溜息の意味を直感的に察したのか、豹変した杉坂について何か知っていたら教えてほしいと言っていた。
「杉坂から、何か聞いてるか?」
「う、うん……演劇部の先輩達が、身を引いてくれるって……」
「ああ……そういう方向に傾いてる。先に幸村先生に頼んだのはお前等だしな」
「杉坂さんからもそう聞いたけど……本当にそれでいいのかな……?」
事が自分達に優位に動き、目の上のたんこぶが無くなったというのに、仁科の表情は浮かない。
ほらみろ……こいつはそんな他人の不幸を喜べる人間じゃないんだ。
渚さんが仁科に同情した様に、彼女もまた同じ様な立場の先輩達に、同類相憐れむ的な物を感じているのだろう。
ああっ、まったく二人とも損な性格だよな……。
杉坂が形振り構わず仁科を守ろうとする気持ちもわかる。
でもな……それには、仁科だけを見ていたんじゃダメなんだ。
そんなやり方じゃ、彼女を本当の笑顔には出来ないんだよ……。
「やっぱり……スッキリしないよな?」
「うん……もう一度、古河さんとよく話し合った方がいいと思うんだけど……」
「そうだな……先輩達に会ったら、伝えとくよ」
「うん。ありがとう」
ようやく仁科は少しほっとしたように微笑む。
彼女の為にも、やはりこのまま渚さんに諦めてもらう訳にはいかないと、改めてそう確信した。
帰りのHRが終り、担任が教室を出て行く。
行くか……。
事は急を要している。合わせる顔が無いとか言ってられんだろう。
正式に演劇部の廃部が決まってからでは遅いんだ。
「オーキ、一緒に帰ろう」
「……」
そう決意しながら早足で教室から出たのだが、いきなり無邪気な笑顔に出鼻を挫かれる。
またかよ……!
「……選挙は?」
「活動は明日からなんだ。だから今日もお前と一緒に帰れる」
やはりそうきたか……。
だが、こっちはそれどころじゃないんだ。
「これから行く所が有る」
「ん?どこだ?」
「演劇部の部室だ」
「演劇部?ああ、古河さんの所か。うん、いいぞ。私は別に構わない。一緒に行こう」
「いや、だから、大事な話だし、長くなるから」
「気を使ってくれなくていい。終わるまでちゃんと待っていてやる。演劇部の部室と言うのも、なかなか興味深いしな」
気を使って欲しいのはこっちなんだが……。
相変わらずまったく空気を読んでくれない智代に、俺は頭を抱え嘆息するしかない。
まあ……こいつともまったく関係の無い話でも無いか……。
「……行くぞ」
「うん」
このままここで話していても注目を集めるだけだろう。
俺が促すと、智代は嬉しそうに頷いて隣に並んだ。
「そうか……そんな事になっていたのか……」
俺は道すがら、渚さんが合唱部に遠慮して演劇部を諦めようとしていると智代に教えた。
もちろん杉坂や仁科の過去には触れずに。
「でも、どうして急にそんな事になってしまったんだ?つい先日までは、古河さん、頑張ろうとしていたじゃないか」
「それは……もう三年だから大して部活する時間も無いとか、幸村先生に顧問を頼んだのは合唱部が先だったとか色々理由はあるが、結局は合唱部に同情したんだろ」
「同情?」
「合唱部の部長の方も、ここまで漕ぎ付けるのに色々苦労があったんだよ。古河先輩はそれを知っちまって、自分達が身を引けばそれで合唱部は何の問題も無く活動出来るからって思ったんだろ」
「それじゃあ、古河さんが可哀相じゃないか」
「ああ、だから……考え直してもらわないとな」
「うん。私も古河さんとは『一緒に頑張ろう』と約束したんだ。それなのに、こんな事で諦めて欲しくは無い。二人説得しよう」
こうして、意気込んで旧校舎の演劇部室に向かった俺達だったのだが、しかし拍子抜けにも、部室のドアをノックしても返事は無く、ドアの小窓から覗いた中はもぬけの殻だった。
「誰も居ないみたいだな。どうする?少し待つか?」
「そうだな……」
背後の壁に寄りかかって頷きながらも、先輩達は今日はもう来ないような気がしていた。
どうする?渚さんの家を直接訪ねてみるか?
まあ、それには一度家に帰って、こいつと別れないとな……秋生さん達にはこんな姿とても見せられん……。
同じように壁に寄りかかりながら身を寄せてくる智代を肩に感じながら、つくづくそう思った。