第二章 4月21日 熱し難く冷め難い
4月21日(月)
「あれ?ねぇちゃんもう行くの?」
玄関で靴を履いていると、後ろから声をかけられた。
弟の鷹文だ。
今起きてきた所なのだろう。パジャマ姿のままで、頭には寝癖がついている。
いまだに松葉杖をついている姿が少し痛々しくて、チクリと胸が痛んだ。
「ああ、おはよう鷹文。すまない。少し寄る所が有るから、今日も朝食は先に済ませてしまった」
「別にいいけど……寄る所ってにぃちゃんとこ?」
「どうして私があいつの家に寄らないといけないんだ?」
私がそう答えると、鷹文は少し驚いている様だった。
無理も無い。
私達が袂を分かった事を、こいつにはまだ話してはいないのだから。
「違うの?じゃあ、どこ?」
「うん。実は知り合いに遅刻の常習犯が居てな。これからそいつを起こしに行ってやろうと思っているんだ」
「えっ……?それって男?」
「ああ。知ってしまった以上、知り合いとしては見過す訳にはいかないからな」
「へ~……」
鷹文は目を丸くして感心している様だった。
まあ、昔の私からは想像も出来ない事だろうからな。
「それじゃあ行ってくる。お前も早く学校に行く用意をしないと遅刻してしまうぞ」
「ああ、うん。行ってらっしゃい」
最後に姉らしい事を言って家を出た私は、名簿で調べた岡崎の家へと向かった。
昇降口についた頃には遅刻ギリギリの時間だった。
まったく、春原なんて起こしに行ったからだ。
友達思いなのは分かるが、あんな奴放っておいてもいいじゃないか。
靴を上履きに履き替えていると、何やら人だかり出来ている事に気付く。
恐らく掲示板に貼られた報道部の校内新聞だろう。
先週これを見た時は、あいつと一緒だったな……。
それはとても楽しくて、新たな発見の連続で、それでいて何か大きな物に包まれている様な……温かくて穏やかな日々だった。
生まれて初めて知った感覚。
でも今となっては、知らなければ良かったとさえ思う。
「同じ日、同じ時に死ぬんじゃなかったのか……?」
ただ寂しいと言うだけでなく、自分の身体の一部を失ったかの様な喪失感。
心にぽっかり穴が空くとは、こういう事なのかもしれないな……。
首を振って感傷を払う。
記事の見出しには『生徒会選挙、迫る』の文字が躍っていた。
もうすぐ選挙期間が始まる。
早く気持ちを切り替え、選挙に集中しないといけないな。
いつまでも落ち込んではいられない。
私は、その為にこの学校に来たのだから。
「智代ちゃ~ん、ちょといいかなぁ?」
三限目が終わると、教師と入れ替わる様に教室に入ってきた実理に、人気の無い特別教室棟の方に連れ出された。
一体どうしたのだろう?
校内新聞なら一限目の後にもらったばかりだし、急な用件でもあるのだろうか?
「どうしたんだ実理?」
「うん~。今日オーキ君お休みしてるんだけどぉ、智代ちゃん何か知らない?」
「あいつが……学校を休んでいる?……そうなのか?」
実理の問いに、逆に驚かされる。
正直、今はあまり出されたくない話題だった。
何故か少し後ろめたい気がして、彼女の顔を真っ直ぐに見られない。
「智代ちゃんも知らないかぁ……オーキ君のクラスの子にも訊いたけどぉ、土曜日もお休みしたみたいなの」
「そうか……いや、私も金曜に少し顔を合わせたきりだ」
「そっかぁ……」
落胆した様に溜息をつくと、何故か実理は私の顔をじっと見つめてくる。
「な、何だ?まだ何かあるのか?」
「智代ちゃんさぁ……オーキ君と喧嘩でもした?」
「!」
ギクリとして言葉に詰る。
「金曜日の体育の時も急にあんな事があったし……あの時は何でもないって言ってたけどぉ、やっぱりオーキ君と何かあった?」
「だから何でも……いや……概ねそんな所だ」
始めは誤魔化そうとしたが、直ぐに思い直して観念する事にした。
こんなにも私を心配してくれている彼女を、これ以上誤魔化すのも悪い気がしたんだ。
「やっぱりそうなんだぁ……」
「……訊かないのか?」
折角観念したのに次が来ず、思わず自分から催促してしまう。
「ん?何を?」
「だから、何で喧嘩になったのか?とか」
「あ~あ。どうしてぇ?」
「それがわからないんだ……火曜日の放課後、いきなり『お前とはもう一緒にやっていけない』って言われたんだ」
「火曜日だったらぁ、やっぱり智代ちゃんが不良を撃退した事じゃないかなぁ?」
「私もそう思って、金曜に謝ったんだ……危ない事をして悪かったって……でも、『お前は何もわかってない』って言って、許してはくれなかった……」
「う~ん……そっかぁ……」
二人して黙り込む。
お前は何もわかっていない。
そんな事を言われても、どうしろと言うんだ?
何が悪かったのか、はっきり言ってくれれば治し様もあるのに。
「……正直、私のイメージだとぉ、オーキ君て滅多に怒らない人って言うかぁ、怒った所を見た事無いんだよね……大抵の事は謝れば許してくれるんだけどなぁ……」
「……もう、いいんだ。きっとあいつは、私に厭きてしまっただけなんだ」
実理の言葉を聞いて、はっきりとそれを確信した。
誰に対しても怒らない人間が怒ったという事は、もう私の事が嫌いになったんだ。
嫌いになったから、許す気なんてもう無いんだ。
「それは無いとおもうよぉ」
どんどんネガティブになっていく私の思考を、実理はあっけらかんとした笑顔で一蹴する。
「むしろ逆じゃぁないかなぁ?智代ちゃんの事を本気で思っているから、怒ったんだと思うよぉ」
「そんな事は無い!嫌いじゃないなら、謝ったら許してくれるはずじゃないか!!」
思わず声を荒げてしまった。
しかし実理は一瞬驚きながらも、いつもの柔和な笑顔を向けてくる。
「厳しい態度をとったのも、きっと智代ちゃんにそれだけ期待しているからだと思うよぉ」
「期待しているのなら、さよならなんて言うはずは無い」
「う~ん……それは……」
私の反論に、彼女も少し困った顔をする。
私だってあいつを信じたい。
でも、あいつは……。
「やっぱり、あいつはもう私に厭きたんだ……元々厭きっぽい性格だと言うしな」
「オーキ君が厭きっぽい?それは無いよぉ」
結論になると思って言った言葉だったが、またも一笑に付されてしまう。
「オーキ君てぇ、確かに何にでも一生懸命になれるタイプじゃないけど、その分一度“やる”と決めた事には人一倍情熱を燃やせる人だと思うよ。本人も自分の性格を一言で言い表すなら、『熱し難く冷め難い』て言ってるし」
「熱し……難く?『熱し易く冷め易い』じゃないのか?」
「うん。日本人は熱し易く冷め易い人が多いけど、自分はその逆のなんだって。流行や周囲に流されず、自分自身で考え感じた様に生きられる人間で在りたいんだって」
「自分で考え感じた様に……確かにあいつもそんな様な事を言っていた。でも、じゃあ、どうして厭きっぽくて無責任なんて言われてるんだ?」
「ん~、それは自分の気の進まない事は、始めからやる気が無いからじゃないかなぁ?」
「そうじゃない。同じクラスの女子から聞いたんだ。あいつは一年の球技大会で決勝までいきながら、『厭きた』と言って帰ってしまい、その所為でチームは大敗してしまったって」
「あ~あ、うん、クラスが違ったから詳しい事はわからないけど、それは私も知ってるよぉ」
「相手チームはとても強くて予選で一度負けていたから、勝ち目が無いと思って逃げたんじゃないかとも言っていた……これでは厭きっぽくて無責任だと言われても、仕方が無いじゃないか?」
「ん~ん……」
そうだ。
あいつは大事な決勝戦でもすっぽかす様な奴なんだ。
でも、顎に指をついた可愛い仕草で暫く考えていた実理はにっこりと笑うと、こんな提案をしてきた。
「じゃあ、他の人からも話を聞いたらどうかな?」
「他の奴からも?」
「うん。だって智代ちゃんがその話を聞いたのは、そんなに沢山の人からじゃないでしょぉ?」
「あっ、ああ。名取からだけだ」
「じゃあそれは、あくまで名取さんの主観であって、事実じゃないかもしれないし」
「名取が嘘を言っていると言うのか?」
「そうじゃないよぉ。名取さんは嘘をつく様な人じゃないと思う。でも、報道に関わってるから解るけどぉ、当事者って意外と客観的に事態を把握出来てる人って少ないし、まして自分に都合の悪い事を話したがる人ってほとんどいないから……」
「……名取が話してない事実があると言いたいのか?」
「もしくはぁ、もう忘れちゃってるとかぁ。だから、もっと色んな人から話を訊いてみたらどうかなぁ?智代ちゃん、お昼時間有る?」
「ああ。今日は特に予定は無い」
「じゃあ、お昼に有紀寧ちゃんの所に行ってみようよ。有紀寧ちゃんも一年生の時オーキ君と同じクラスだったし」
「宮沢の所か……」
正直、あの場所に行くのはあまり気が進まないが、仕方が無い。
昼休みに実理と会う約束をして、私達は自分達の教室に戻った。