第二章 4月19日明けない夜
午後から降り出した雨は、午前0時を回っても尚やむ気配をみせず、散弾の様に雨戸を打つ音が、暗い部屋に鳴り響いていた。
そろそろ行くか。
布団から起き上がり、明かりをつける。
いつもより二時間も早いが、この暴風雨だ。バイト先に行くだけでも時間がかかるだろう。
それに……仮眠を取ろうにも、結局眠れなかったしな……。
やはり、バイトが終わったら見に行ってみよう。
合羽を着込みながらそう決めて、俺は嵐の中へと飛び込んだ。
新聞配達は気楽な仕事だが、こう言う日は本当に地獄だ。
風雨で視界はほとんど利かず、突風に煽られ何度も原付を倒されそうになった。
それを堪えるたびに、傷めた右手に痛みが走る。
だが、倒れればそれこそ大惨事だ。
長靴は入ってきた水で既に用を為さず、合羽から染みてくる雨と自分の汗で全身グチャグチャ。
それでも峠を過ぎたのか、後半は雨脚が弱まった為大分楽にはなった。
ようやく激闘を終え戻った頃には、いつもの仕事終りと大差が無い時間になっていた。
振舞われた缶コーヒーの礼もそこそこに、昨日行った工事現場に向かう。
逢おうとは思わない。別れは済ませたんだ。
ただ、遠目からでも何も起きていない事が判れば、それでいい。
杞憂で終わればそれが一番善いんだ。
夜が明けたのか、世界は漆黒から薄暗い灰色へと変わっていた。
風は大分収まり、シトシトと降り続く雨も次期上がるだろう。
明けない夜は無く、やまない雨は無い。
そんな在り来たりな言葉に、今はすがりたかった。
だが、明けない夜が無い様に、やまない雨が無い様に、変わらぬ物などこの世に無い。
あまりにも様変わりしていた。
そこには何も無かった。
昨日そこに建っていたはずのプレハブが、彼女が住んでいると言っていた小屋が、周囲の地面ごと抉られた様に無くなっていた。
愕然として、次に本当にここだったかと周囲を何度も確かめ、来た道を戻る。
いや、落ち着け。
逃げてどうなる?
それよりやるべき事があるだろう?
現実から逃避しようとする精神を、冷静な脳がたしなめた。
そうだ……まだ希望は在る。
上の人間なり、現場の責任者なりが賢明なら、こんな事態を予測し、非難させたのではないか?
俺は携帯を取ろうといつものズボンのポケットに手を伸ばした。
しかしそこには、携帯どころかポケットすらない。
って、合羽着てた。
バタバタと合羽の上から携帯を探し、そういえばとジャンパーの内ポケットからそれを発見する。
濡れない様にここに入れていたんだった。
かけるのは当然警察だ。
「バイパスの工事現場で地滑りが起きてます。知り合いが巻き込まれたかもしれないので、確認してもらえませんか?」
つとめて冷静に、知っている事と、そこから見える範囲の情報、最後に自分の名前と携帯番号を伝えて電話を切った。
「危険だから絶対に近付かないように」
そう言われたが、指をくわえてぼうっと連絡待ちをしていても意味は無い。
今まで事故の通報が無かったとしたら、事の大きさに俺への連絡どころじゃなくなるだろう。
最悪、この町始まって以来の大惨事だ。
人を探して、もっと奥に行ってみるか?
それとも……?
地肌が剥き出しになって滑り易くなっている足元を確認しつつ、縁から下を見下ろす。
緑の雑木林の中に出来た茶色い急斜面の一本道。
それ程高くは無い……薄暗い中でも何とか下が見える。
が、降り続く雨と、薙ぎ倒された木々が邪魔で細部までは判らない。
プレハブは原型を留めておらず、土砂の中に大きな残骸が散らばってるだけだった。
あの中に人が居たとしたら……?
絶望的だろう。
いや……家具の隙間にうまく入り込み、助かるって事もよくある話じゃないか。
他に非難していて元気で居てくれたなら、それでいい。
徒労に終わってくれるなら、それがいい。
俺は周囲を見渡し、降りられる場所を探した。
ぬかるみに足を取られ、何度も途中の樹に身体を打ち付けながらも、何とか下まで来れた。
着膨れしていたおかげで大した怪我は無いが……この合羽はもう着られそうもないな。
まあ、今はそんな事はどうでもいい。
茶色い山肌を目印に、鬱蒼とした森の中を進んでいく。
そして目的の場所に辿りついた時、ずっと危惧してきた悪夢がそこに在った。
土の中から覗く、羽根の様な白いリボン。
激情が一気に込み上げ、全身の血を沸騰させる。
「あやちゃん!!」
駆け寄って呼びかけたが、反応は無い。
彼女の身体は辛うじて頭は出ていたが、肩から下が土砂で埋り、見えている頭部と肩口は赤く染まっていた。
「あやちゃん!!」
もう一度呼びかけ、手袋を脱いで彼女の首筋に指を当てる。
俺の手も相当冷えていたハズだが、それでも尚ゾッとする程の冷たさだった。
だが、弱いが脈はまだ有る。
まだ、かすかに息は有る。
わずかに肩が動いている。
「もしもし!地滑りにプレハブ小屋が巻き込まれて、中の人が生き埋めになってる!救急車!いや、レスキュー隊を呼んでくれ!早く!!……はっ!?バイパス工事の所ですよ!!細かい住所なんて知りませんよ!!関係者じゃないんだから!!とにかく、来れば判るから!!レスキュー隊でも自衛隊でも何でもいいから早く来てくれ!!」
一方的にまくし立てて電話を切った。
こんな森の中に救急車なんて来れる訳もなく、この小さな町にレスキュー隊やら何やらが常駐しているとは思えない。
そしてこの悪天候と森と山に囲まれたこの場所で、はたして迅速な救助が出来るのか?
降り続く雨と空を睨む。
天よ、これがあんたの意思か!?
この子はもう、十分辛い目に遭ってきたじゃないか!
砲撃や銃弾に怯えながら、生きてきたじゃないか!
目の前で人が血を流し、息絶える陰惨な光景を散々見せられてきたんじゃないか!
それなのに……この仕打ちはなんだ!?
瞳を閉じ、拳をグッと握り締める。
まだだ!!
まだ終わらせてたまるか!!
「あやちゃん……待ってろ。今出してあげるから……」
合羽の上着を雨よけとして彼女の上に被せ、俺は土を掘り起こし始めた。
氷の様に冷たくなった彼女の身体をジャンパーで包み、抱き抱えながら俺は森の中を急いだ。
怪我人をむやみに動かしてはいけない。
それくらいの事は知っている。
だとしても、いつ来るか判らぬ助けを待っている暇は無いと判断した。
出血が酷い。掘り出した彼女の衣服は血でべとべとだった。
事故からどれだけ経ったのかも判らない。
道具も無く、素人には布で縛る以上の止血も出来ない。
そういえば、このプレハブは医療施設だったな。
それを思い出し、ざっと散乱している物の中から使えそうな物を探したが、壊れていたり、雨で濡れていたりで役に立ちそうな物は無かった。
なら、上に助けを求めるか?
試しに呼びかけたり、音をたてたりしてみたが、反応は無かった。
上に誰か来ていたのなら、俺達の存在に気付くはずだ。
まだ警察すら来ていないのか?
その事に怒りすら覚えたが、この急斜面を彼女を抱えて上に登るのは、それこそ危険だろう。
結局、俺にはこうするより他に無かった。
上から見下ろした時に、割と近くに車道が見えたのを覚えている。
そこまで出て、通りすがりの車に病院まで乗せてもらえれば……。
そんな何の確証も無い望みを信じ、木々を避け、枝をかわし、彼女を気遣いながらも出来る限りの速度で走った。
中学の頃にやっていた、木を敵に見立てた森での特訓がこんな所で役立つとは……。
「お兄……ちゃん……?」
全神経を走る事に費やしていた中、かすかに聞こえたその声に足を止める。
わずかに開かれた彼女の片目が、俺を見つめていた。
「あやちゃん!」
「どう……して……?」
「喋らないで。大丈夫。今病院に運んであげるから」
「……」
それで俺の言わんとしている事が伝わったのだろう。彼女が眠るように瞳を閉じる。
意識が戻ったんだ。大丈夫。助かる。
そう確信し、俺は再び希望に向かって走り出した。
森を抜け、車道を歩き始めてから、どれだけ経っただろう?
そもそも、彼女を発見してから、どれだけ経った?
あの場で助けを待った方が良かったんじゃないのか?
体力はとうに底を尽き、その焦りが疑惑を生み、疑惑が気力を蝕む。
車道に出ても、車はなかなか捕まらなかった。
そもそも通る数自体が少なく、普通は手を挙げたくらいじゃ止まってはくれない。
てか、彼女を両手で抱えて、どう手を挙げるんだって事に今更気付いた訳で……。
それに救急車を呼ぼうにも、ここが具体的にどこなのかが判らない。
迂闊だった……。
だが、今更後戻りも出来ない。
隣町の病院まで、何としても彼女を届けるんだ。
この辺りは山間の森林地帯で人気がほとんど無いが、人通りの多い所に出ればきっと……。
その時ふと、目の前に伸びる道の向こうから対向車が来るのが見えた。
今までは道が曲がりくねっていたから見通しが悪かったが、この距離なら……!
俺は意を決し、あやちゃんを背で庇いながら対向車の前に進み出た。
けたたましいクラクションと、甲高い急ブレーキの音。間近に迫る車の気配。
「馬鹿野郎!!死にたいのか!?」
次いでドアが開くと同時に若い男の怒声。
振り返ると、車は手を伸ばせば届く程の距離で止まっていた。
成功だ。
「お願いします!!この子を隣町の病院まで連れて行って下さい!!」
「何?……乗れ!!」
男は俺の懇願を聞いて、胸に抱いているあやちゃんを一目見て察してくれた様で、直ぐ様降りてワゴン車の後部ドアを自ら開けてくれた。
「ありがとうございます!!」
「何があった!?」
俺が乗り込むと、男は後部ドアを締めて運転席に乗り込み、発進させると同時に訊いてくる。
「地滑りです。この子は家ごと巻き込まれて生き埋めに」
「何だって!?どこでだ!?」
「この近くのバイパス工事の現場近くです」
「バイパス工事だと!?近い事は近いが、結構距離が有るぞ?そんな所からその子を抱えてここまで来たのか?」
「はい。この子の父親が医者で、住み込みで働いてたんです。それでこの子も一緒に……」
「そうか……とばすぞ!その子を落とすなよ!」
「はい!」
それは言葉少なく短いやりとりだったが、不思議とこの人ならと信頼出来た。
もっとも、今の俺には誰であろうとすがるしか無かったのだが……。
男は軽快に車をとばし、日曜で道が空いていた事もあって、順調に病院に近付いていた。
もう直ぐだ……これで助かる!
そう半ば安堵して、あやちゃんを抱きしめたその時だった。
「お兄……ちゃん……ありが……とう……」
彼女が薄っすらと目を開けながら、そう言って笑ってくれた。
「ああ……病院までもう直ぐだ……」
「うん……でも……もう……十分だよ……」
「十分?何言ってるんだ?」
その言葉に俺は何か不吉な予感を覚え、苦笑しながら訊き返す。
何か彼女の様子がおかしい。
「あたし……あのまま……一人……ぼっちで……死んじゃうと……思ってた……でも……お兄ちゃん……来てくれた……冷たい……土の中じゃなくて……こんなに……暖かい……」
「ああ。わかった。わかったから、喋っちゃダメだ」
「嬉しかった……あたし……幸せだよ……お兄ちゃん……みたいな……優しい人に……出会えたから……」
「あやちゃん?」
「でも……ごめんね……もう十分……だか……ら……ありが……と…………」
「あやちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
目を閉じた彼女の鼓動が止まった……。