第二章 4月18日男達の挽歌
荒い息を整えながら目元の血を拭い、倒れた巨体を見下ろす。
額の傷に再度膝を入れたんだ。
さすがに立ち上がってはこれまい。
「次!」
「待てや……コラッ……!」
土手に向かって呼びかける。
しかし俺の声にいち早く反応したのは背後の溝口だった。
息も絶え絶えでふらつきながらも、漢はゆっくりと立ち上がってくる。
「ワシは……負ける訳にはいかんのじゃ……!」
だが、まだ眼が塞がったままなのだろう。
溝口がおぼつかない足取りで向かったのは、俺の居る方向ではなく川だった。
一見不可解なその行動。
だが俺は、その意味を瞬時に悟った。
なるほどな……。
足が水に浸かると、溝口はバシャンと川に倒れこむ。
そしてバシャバシャと暫くもがいた後、力を取り戻したかのように勢い良く立ち上がった。
川の水で眼を洗い、混濁していた意識をはっきりさせたのだろう。
「第三ラウンドじゃい!」
水から上がってきた溝口と対峙し、睨み合う。
奴の額の鉢巻は血でにじみ、左脚を引きずっている。
俺の方も額の傷は未だに血が止まらず、今まで盾にしてきた内出血で赤黒く変色している。蓄積されたダメージはこちらの方が上かもしれない。
互いに満身創痍。
我慢比べで負ける気は無いが、奴もまた呆れる程タフな漢だ。
いや……それだけでは無いのだろう。
「……あんたにどんな想いがあるのかは知らねえ……だがな……負けられねえのはこっちも同じなんだよ!!」
「オラァァァァァァァァァァッ!!」
俺達は同時に地を蹴った。
勝負は一合。
最早駆け引きも何も無い。
ただ己の持てる力を、想いを、全てを拳に込めて放つのみ。
バキィッ!!
時が止まった。
腕を交差させ互いの頬を捉えたまま動かない両者。
その結末が訪れるまでの数秒が、土手の男達には酷く長く感じられた事だろう。
しかしその時は遂に訪れる。
「このワシが……こないなトコで……!」
まず脚から崩れたそれは、スローモーションの様にゆっくりと倒れ伏した。
最後の一撃を放つ際のほんの一瞬、溝口は顔をしかめていた。
俺のローキックで奴の左脚は既にガタが来ていたのだ。
踏み込んだ軸足に痛みが走り、その為体重を拳に乗せ切れなかったのだろう。
それが無ければ、結果は違う物になっていたかもしれない。
「次!」
平然と土手に向かってそう言いながらも、右手を身体の影に隠しグーパーを繰り返して拳の状況を確認する。
初めて人間を全力で殴った。
正直、滅茶苦茶痛え……。
樹を叩いたりして、それなりに鍛えているつもりだったが……やはり人間は堅い。
溝口は特別堅そうだし。
手首は平気だが、指にヒビくらいは入っているかもしれない。
「どうした?もう終いか?」
再び土手に向かって呼びかけるも、直ぐには次の相手は出て来なかった。
トップクラスの実力者を倒したんだ。怖気づくのも当然か。
「あの溝口さんがやられちまうなんて……!」
「つええ……!」
「チッ、何だよ?テメエらが行かねえなら、俺が行ってやるぜ!!」
「待て、蛭子……!俺が行く!」
出て来ようとした一人の男の肩を他の男が掴んで止め、その男が土手を降りてくる。
代わりに俺の前に進み出て来たのは……あの田嶋だった。
智代と決別したその日の遅く、俺は宮沢の友人達がたまり場にしている店を訪れた。
「ゲッ、川上!?」
最初に俺に気付いた男が驚きの声をあげた事で、途端にざわめく店内。
こいつらにとって俺がどういう存在なのかはイマイチ量りかねているが、やはり少なくとも好意を持たれてはいない様だ。
「何しに来やがった?」
「宮沢は?」
「あん!?ゆきねぇに一体何の用だよ!?」
視線だけで店内を見回す。
『家の人に心配かけないよう門限は守れ』
宮沢とはそう約束してあるから、居ないのはわかっていた。
確かめたのはあくまで念の為である。
「いや、宮沢に用は無い。居ないと思ってこの時間に来た」
「じゃあ何だよ?」
「あんたらに頼みがあって来た」
「頼みだぁ!?何で俺等がてめぇの頼みを聞かなきゃなんねえんだよ!?」
いきり立った何人かが進み出てきて俺を囲み、威圧する様にガンをたれてくる。
やれやれ、嫌われた物だ。
初っ端からこれでは先が思いやられる。
そう思っていると、
「待ちな!聞くだけ聞こうじゃないか」
その落ち着き払った声音に、男達の視線が一斉に集まる。
その視線の先に居たのは……長い黒髪をポニーテールに束ねた、大人びた雰囲気からは貫禄すら感じさせる美女だった。
初めて見る顔だが、恐らくグループの女衆を束ねているのは彼女だろう。
「で、でもよぉゴットゥザの姐御……」
「あん!?あたしは『後藤田』だつってんだろ!」
「す、すんません姐御!!」
「そいつには有紀寧ちゃんだけでなく、あんた達も少なからず世話になってんだ。話くらい聞いてやろうじゃないか」
くい下がろうとする男達を一喝して黙らせると、言い聞かせる様にそう言ってくれる。
話のわかる人が居てくれた事に、俺は内心胸を撫で下ろした。
「……ウチの学校に坂上智代が居る事はもう知ってるな?」
「だ、だから何だよ!?」
「まさか坂上と組んで、俺等をゆきねぇの部屋から締め出そうってんじゃねえだろうな!?」
いや、あの教室は別に宮沢個人の部屋じゃないんだが……。
「逆だ……坂上には今後一切手を出さないで欲しい」
「何だそりゃ?」
「あいつはもう不良狩りをしていた頃の坂上じゃない。だからあいつを刺激する様な事はしないでくれと言ってるんだ」
「手を出すも何も、今更坂上と事を構える気はねえが……」
「いや、でもよぉ……」
俺の言葉に、男達は顔を見合わせざわざわと相談を始める。
各々がうだうだと勝手な事を言い合い、直ぐにはまとまりがつきそうもない。
しかしそんな空気を、先程の声が意外な言葉でぴしゃりと鎮めた。
「気に入らないねえ……」
そう言ったかと思うと、先程の美女、後藤田が厳しい目付きで俺を見据えながら、男達を割ってこちらに向かってくる。
「どうして坂上にそんなに肩入れするのさ?」
「一応、頭張ってる身としては、ウチで面倒事を起こされたくないんですよ」
俺より少しだけ背の高いお姉さんの詰問に、思わず語尾が敬語になってしまった。
しかし俺の答えがお気に召さなかったのか、後藤田は眉をひそめて更に距離を詰めてくると、その綺麗な顔を間近に近付け更に尋問してくる。
「あたしが訊きたいのは、そんな建前じゃねえんだよ!あんた、坂上に惚れんてんのかい?」
「それは……!」
「どうなんだい!?」
「……ああ」
そのしかめっ面でなおドキドキしてしまう美人の圧力に耐え切れず、ついに視線を反らしながら素直に認めてしまった。
だがしかしその瞬間、場の空気がガラリと変わるのがはっきりと見て取れた。
「マ、マジかよ!?」
「じゃ、じゃあ、ゆきねぇの事は何とも思ってねえんだな!?」
「あいつはダチだよ」
「オッシャ~~~!!」
「ひょっとして、お前等もうデキてんのか!?」
「……俺達はそういう関係じゃない」
「何だよ、さっさとデキちまえよ!この前見た限りじゃ、坂上も脈有りそうだったぞ!」
男達は興奮して沸き立ち、ピューピューと指笛を鳴らして囃し立てる者まで現れる始末。
やはりと言うか何と言うか、宮沢の近くに居る俺を恋敵とみなしての敵意だったらしい。
「ふぅっ……そうかい。あんたの言い分はよく解ったよ……」
俺の答えにか、それとも仲間の浮かれぶりにか、何故か溜息をついて後藤田は下がっていった。
周囲の空気は先程の一触即発な物とは打って変わり、むしろフレンドリーですらある。
どうやら上手くまとまりそうだ。
そう思い、一気に盟約締結に持っていこうとしたその時だった。
「待てよ……そいつが坂上に惚れてるから何だってんだよ?」
それまで事の成り行きをうかがっていた田嶋がついに動き、浮かれムードに水を注さす。
「勘違いすんなよ?元々坂上と揉めたのは一部の奴等だけで、はなからあんな女眼中にねえし、今更どうこうするつもりもねえ……だがよ、それをてめえに指図される覚えもねえんだよ!」
「た、田嶋?」
田嶋の反応が予想外だったのか、近くに居た丸刈りの須藤達も面食らっているようだった。
俺ももう少し話のわかる奴だと思っていたが……何かプライドに障ったか?
「大体よぉ、てめぇ本当に坂上より強いのか?」
その言葉で、こちらに傾きかけていた流れは再び変り、俺もその反応の意味を知った。
「番長だかなんだか知らねえけどよぉ、あんなガリ勉校の頭なんざ、誰だってなれんだよ!」
「実際にてめえが誰かとやり合ったって話は、聞いた事ねえぞ!」
「坂上に勝ったてのも、うまい事言って丸め込んだだけじゃねえのか!?」
それまではしゃいでいた者達は俺に疑惑の目を向け、何人かは思い出した様に態度をガラリと変え因縁をつけてくる。
なるほど……そういう事か……。
確かに俺はたかだかおぼっちゃん校の番格で、一度も喧嘩なんてした事なくて、智代にも実力で勝てた訳じゃない。
あまりに的確なつっこみ過ぎて笑えてくる。
さすがは音に聴こえた宮沢グループだ。
舌三寸のハッタリが効かないと言うのであれば仕方が無い……その身をもって思い知らせてやるまでだ。
「フッ……いいだろう。やってやんよ。元よりそのつもりで宮沢が居ない時間を選んだんだからな……日時と場所はお前等の都合の良い時間に決めてくれ」
目の前の男を改めてみる。
俺より頭一つ以上デカイ背丈に、溝口程ではないがガッシリとした巨躯。
その精悍な面構えと眼光には、叩き上げの軍人の如く鋭さと覚悟が宿っている。
好ましい人間だ。
俺は然程田嶋と言う人間を知らない。
それでも、この男なら信頼出来ると一目見れば判った。
間違いなく強いと直感した。
「思っていたより、お早い登場だな?」
「……てめえの力は見させて貰った……だが、こっちも舐められたままじゃ終われねえんでな……これで最後だ。付き合って貰うぜ」
そんな男と戦う事になるとはな……。
可笑しさがこみ上げ、血が沸き立ってくる。
オラ、わくわくしてきたぞってやつか。
左目の血を拭い、まだ痛みの残る右手を握り締める。
まだ血は止まっていないし、右手も動かなくは無いがあまり使わない方が良さそうだ。
ますますの劣勢。
視界は依然半分のままで、利き手が使えず、体力も既に限界が近い。
それでも何故だろう?
こんなにも血が滾るのは。
こんなにも楽しいのは。
こんなにも“生”を実感出来るのは。
「いくぜ!」
「ッ!?」
ここに来て、初めて俺は相手より先に仕掛けた。
そう初めてだ。
今までずっと守備一辺倒だった奴が、いきなりの特攻。
「チィ!」
完全に虚をつかれた田嶋は、ガードするだけで手が出せない。
そのガードの上から、構わず右のミドルキックをぶち込む。
「クッ!オラァッ!」
パンッと乾いた炸裂音と確かな手応え。
しかし、すぐさま反撃の右拳が飛んでくる。
だが、それも予想の内だ。
蹴った右足でそのまま踏み込み、体勢を低くして拳をかい潜りながら体当たりをぶちかます。
「ぐぅっ!!」
巨体が踏鞴を踏み、俺達はもつれる様に倒れこんだ。
しかしそれは、俺ではなく田嶋の狙いだった。
「だっらぁ!!」
田嶋は俺の服を掴んで道連れにすると、強引に体勢を入れ替え、逆に俺に覆い被さってくる。
マズイ!
マウントに来られると思った俺は、押さえ付けに来た左手に右手を絡め、両手で肘の関節を極めにいく。
「チィッ!!」
それを嫌がり田嶋が外そうとした隙をつき、身体を回転させてそこから抜け出す事に成功する。
やはり一筋縄ではいかないか。
互いに距離をとって息を整える。
「うおぉぉぉっ!!」
今度は、体力に余裕のあった田嶋が先に動く。
そして体格で優る奴が選択したのは……ただ猛烈な勢いで猪の様に頭から突進してくる事だった。
「なっ!?」
対処が遅れ、そのまま押し倒される。
てか、タックルを切る練習なんて、流石に俺もやってない。
身体ごと突っ込んでくる相手にカウンターを打とうとしても、下手な攻撃は潰されるだけだ。
さすがに巧い……などと感心している場合じゃない。
上体を起こそうとした所を咄嗟に髪の毛んで頭を押さえると、自由になっていた足で腿や脇腹に膝を入れまくる。
「くっ!!うがぁ!!」
「うっ!!っ!!」
田嶋の方も、両腕で俺の脇腹を叩いて何とか頭のロックを外そうともがく。
大技を出し合う派手な溝口戦とは違い、地味で泥臭い戦いがそこにはあった。
最早単なる我慢比べ。
恐らく土手に居る奴等には、何をやっているのかよく判らないだろう。
「くあっ!!」
手打ちとは言え、何度も同じ所を叩かれれば効いてくる。
たまらず俺は田嶋の頭を放してしまった。
「もらった!!」
ついに上体を起こした田嶋が拳を振り上げる。
パンッ!!
だがしかし、それが下ろされるより早く俺の左拳が田嶋の頬を捉えていた。
当然、初めから狙っていたからこそ放したのだ。
「くっ!」
だが所詮、不意打ちとは言え手打ち。ひるませる事は出来ても倒せる訳では無い。
でも今はそれで十分だ。
膝蹴をしていた脚を振って反動をつけ、その勢いで田嶋の下から這出て逃げる様に距離を取る。
今回も何とか脱出出来たが……さすがに上がった息が戻らなくなってきた。
叩かれ続けた脇腹から肋骨にかけての鈍痛が、息をする度に更に体力を削っていく。
「チッ……」
血の混じった唾を吐きながら、田嶋が身構える。
体格的にもダメージ的にも圧倒的に彼が有利。
にも関わらず、その姿には微塵の驕りも無く、不退転の気迫さえみてとれる。
人に認められると言う事は嬉しい物だな……。
例えそれが敵であったとしても……だ。
「いっくぞぉ!!」
「うおらぁっ!!」
俺達はほぼ同時に走り出し、ショルダーチャージとタックルでぶつかり合う。
ドォォォン!!
まるで乗用車にでも正面衝突された様な衝撃に、肩が軋み全身が悲鳴を上げる。
それでも腰を落とし何とか踏ん張り切った。
だが、それでは終わらない。
田嶋は間髪入れず、至近距離から豪腕を振るってくる。
バキッ!!
強烈な一撃を頬に受け、俺の身体は派手に吹っ飛ばされて砂利の上を転がった。
しかし、殴ったハズの田嶋もまた苦痛に顔を歪め、その場から動く事が出来ないでいる。
俺もまた、相打ち覚悟でローキックを入れたからだ。
「ようやく……有効打ってトコか……!」
「てめえ……!」
回転を利用してすぐさま起き上がり、口の中に感じた鉄臭さを、唾に溜めて吐き棄てる。
ついに口の中も切れたか……。
全身が重い。
蓄積されたダメージと疲労は、とうの昔に限界に達してずっとピークのままだ。
上がった呼吸も、ちっとも回復しなくなっている。
だがな……まだ半分だ。
経験上、人間の本当の限界は、限界を感じた所から倍は持つ。
なあ、そうだろ……?俺の身体よ!
「チッ……しつけえ野郎だ……坂上の事もこうやって倒したのか?」
「まあ……そんな所だ」
「なるほどな……だがよぉ、ウチに上等切った以上、負けてやるつもりはねえんだよ!」
台詞と共に田嶋が走り出す。
「ああ……とことんやろうじゃねえか!」
そして俺もまた、すぐさま地を蹴った。
最早色々やれる程身体は動かない。
ただ渾身の一撃を……叩き込むのみだ。
「ウオォォォォォォ!!」
「ハァァァァァァ!!」
「そこまでだ!!」
両者の間合いに入り攻撃が放たれようとしたまさにその時、勝負を制止する女の声が川原に響いた。
男達の視線が一斉に声の方向を向く。
俺達もまた拳を寸での所で止め、土手の上に現れた影に目を向けた。
それは……単車に跨った特攻服姿の女、後藤田だった。
「あんた達まだやってたのかい!?サツがこちらに向かってる!とっとと逃げるんだよ!」