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4月8日:約束された未来
 5限目の途中から雨が降りはじめた。
 そういえば朝に、「午後くらいから降りだしそうだ」と読んでいたんだった。
 にもかかわらず俺が傘を持ってきていないのは、二度寝して失念したからである。
 まあ今の俺には、あまり昼間の天気は関係ないしな。
 下校時間までにやむかは微妙だが、そんなに雨足も強くは無いし、濡れるのは嫌いじゃないから問題はない。
 むしろ今は、濡れたい気分でもあるし……。
 「……ふむ、次、川上」
 窓についた水滴を見ながら感傷にひったっていると、それを見透かした様に先生が俺を指名した。
 「はい」
 やや緊張しながら立ち上がり背筋を伸ばす。
 教壇に立っておられるのは、古文の『幸村先生』だ。
 すでに髪も髭も白く、顔には深いしわが刻まれた定年間近の老教師で、生徒からも穏やかで人のいい好々爺として親しまれている。
 だが、教師を含めこの人の“凄さ”に気付いている人間は数える程もいないだろう。
特に“何が”ということではない。その泰然とした佇まいや、含蓄のある言葉、存在その物にただ齢を重ねてきただけでは出せない深みがあるのだ。
 「今日は居眠りや読書はしておらんようじゃの」
 「午前中に寝ておきましたから……」
 とぼけた俺の答えにクスクスと笑いが起こる。
 しかし先生は眉一つ動かさず、「ふむ」とその白い口髭を数回しごくと
 「退屈だからと言って、あまり教師を無視する様な真似をしてはいかんぞ。教師も傷つくからのう」
 と、諭す様に仰られた。
 なるほど一理ある。さすが幸村先生だ。そこいらの教師とは言う事が違う。
 「はい」
 素直にそれを心に留め、続いて来るであろう本題の質問に備えていたのだが、
 「ふむ……では、次、杉坂」
 スルーされた!
 「えっ!?あっ、はい」
 「次のページの訳を読んでくれるかの」
 虚をつかれた杉坂が慌てて立ち上がり、他の生徒が吹き出しそうになるのを必死に堪えている中、肩透かしを食らった俺は一人力なく席についた。
 やられた!さすが幸村先生、一本取られたぜ!
 「やっぱりもうボケちゃってるんじゃないの?」などと陰口を叩いている輩がチラホラいるが、所詮奴らにはわかるまい。これはあくまで計算された自虐的ジョークである事を。
 ……多分……。

 
 やはり放課後になっても雨は降り続いていた。
 仕方なく、普段はあまり着ることのないブレザーを雨避けに羽織って帰ることにする。
 ウチの学校の制服はブレザーだが、基本的に俺はYシャツで過ごしている。
 無論、ネクタイが嫌いだからだ。
 「いや、それでいい訳ないだろう?」などという在りきたりなツッコミは却下だ。
 夏服の時はしなくても許されているんだし、何の問題があろう?

 校門を抜けると、壮観な桜のアーチが広がってる。 
 長い長い坂道の下まで。
 ウチの学校の名物であり、おそらく“光坂”の名前の由来であろう桜並木の坂道である。
 思えば……俺はガキの頃からこの景色をみてきた。
 毎年、家の窓から見えるここの桜が咲いた事で、春の訪れを実感してきた。
 思い出もたくさんある。
 仲間内で花見をしたり、一人で夜桜を堪能したり。
 そして去年、改めて正式な光坂の生徒として、花々に祝福されながらこの坂道を登った時には、やはり感慨深い物があった。
 まあ、ここに入るのには、かなり苦労したからな。

 中学の頃から「学校の勉強なんて意味がない」と公言して教師を敵に回していた俺の内申は当然ボロボロで、部活漬けではあったがろくな成績を残せなかったのでスポーツ推薦の話も無かった。
 にもかかわらず、俺が志望したのは「近いから」と最難関の光坂。
 無謀と言うより絶望的。
 親は「何を馬鹿な事を」と怒り、担任は呆れ果て、周りからはヒーロー扱いされたね。
 そして僅か半年、いや、正しくは三ヶ月足らずでそれを挽回し、見事合格してみせた時、俺は奇跡のヒーロ−として伝説となった。

 もっとも俺からすれば、この程度の奇跡なら何度も起こしてきたし、それが本当に奇跡だと思った事は一度もない。全ては必然だ。
 てか、所詮義務教育レベルなのだから、高校の入試問題くらい完璧に出来て当たり前じゃね?……それまで俺も出来てなかったけど。
 奇跡をやってのけたのは、むしろこんな俺の面倒を土壇場で引き受けてくれて、やる気にさせてくれた塾の先生であり、あの人に俺を頼んだお袋だと思っている。
 そう認識してはいたが、やはりどこか浮かれていたのだろう。
 桜並木を歩きながら、きっと三年後には、再びこの花々に祝福されながらこの坂を降り、新たな道へと進んでいくのだろうな……なんてガラにもなく甘い未来を想像していた。


 まったく……我ながら、滑稽過ぎて笑えてくる。


 入学して桜も散りかけた頃、たまたま近くに居た上級生が口にした会話で、目が覚めた。
 
 「この桜も、来年で見納めかぁ……」
 「私達はギリギリセーフだけど、下級生やこれから入ってくる子達は可哀想だね」
 
 『町を縦断していた桜並木を伐採し、再開発する計画』
 その計画が公表されたのは、俺がまだ小学生の頃だった。
 住民達は反対し、一時期デモや署名活動が盛んに行われていた。
 俺も子供ながらに嫌だったから、親と一緒に署名をした。
 しかし、いつの間にかその声は絶ち消え、俺もすっかり忘れてしまっていた。
 その間にも計画は着々と進行し、ここ光坂の前を残すのみとなっていたのだ。
 そしてここも、来年の春を待たずして無くなってしまう事が決まっている。
 
 まったく、毎度の事ながら馬鹿げた話だ。
 環境破壊が叫ばれ、エコや緑地化が持てはやされている今の時代に、
 日本人の心の象徴たる桜を、
 住民達にとって憩いの場所であり、思い入れのある物を、
 この町のウリにだってなりうる物を、
 どーーーーーーしたら伐ろうなんて発想が生まれるのか、俺には理解できない。
 他にいくらだって金をかけるべき所、改善すべきところは有るだろうに。
 起伏が激しく坂の多いこの地は、大雨が降ると地滑りや川の氾濫が起きやすい。
 森や並木には、それを防ぐ役目もある事を解っているのだろうか?
 そしてそれを伐るという事が、どんな弊害を生むか解っているのだろうか?
 『一利を興すは、一害を除くに如かず』という言葉を知らないのだろうか?
 実際、地滑りや大きな水たまりで道が塞がれ、どれ程の被害が出ているのか知っているのだろうか?
 知っているなら、どうして放っておけるのだろうか?
 こんな無知で無学で見識の低い連中に、政治を任せていていいのだろうか?
都合のいい絵に画いた餅に血税を使い、大した効果も得られず害ばかりが残る。
 そんな馬鹿げた事を、一体どれだけ繰り返せば気付くのだろうか?
 どうして世の中こうも馬鹿ばっかなのだろうか?
 まあ、この計画を立案した人間は、きっと桜を見た事がないのだろうけど。

 虚しさを覚え、樹の幹に寄ってそれに触れる。
 この程度の雨で散る事はないだろうが、ピークはすでに過ぎつつある。
 あと十日といったところか。
 淡く、儚く、美しい桜は、“無常感”を好む日本人の心の琴線に触れる花だ。
 “諸行無常 盛者必衰”
 町も、人も、世界も、変わっていく。
 それは得てして無情で、そして大局的には無上な事なのだろう。
 が……だからこそ同時に人は、永遠や再生にも強い憧れを抱く。
 桜は今年も咲き誇り、もうじき儚く舞散るだろう。
 でも……
 でも……
 「お前は……こんなにも綺麗に咲けるのにな……」
 
 

 今年の桜は、今まで見てきた中でも格別だ。
 せめて、この至上の美しさを忘れまいと、濡れた桜を深く目蓋に焼き付けた。