4月12日:行こう!あの高みへ
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食器を片付け速攻で歯を磨き智代の待つ玄関に向かうと、余計な物まで来ていた。
「朝早くに突然押しかけたうえ、騒がしくしたりして済みませんでした」
「いいのよ。こんな汚い家でよかったら、また何時でもいらしてね」
「はい!是非また来ます!」
ああっ、そんな事言ったら本当にまた来ちゃうぞ……てか絶対来る気だ!
……明日は日曜だし部屋を掃除しておこう……。
などと思いつつ、無言でお袋の横をすり抜け靴を履き始める。
すると普段と違う俺の姿を見て、お袋は軽く驚きの声をあげた。
「あら、ちゃんとブレザー着てるなんて珍しいわね」
「別に……」
「私がネクタイを締めてあげたんです!」
すかさずいらん事をアピールするな!
「まあ、そうなの!?この子ったら誰に似たのかホント不器っちょでねえ……ネクタイ上手く締めれない物だから『嫌だ』とか言っていつもして行かないのよ」
「はい。さっきもそのままYシャツで行こうとしていたから、なら私がって」
「あら、そうなの……!普段は私が締めてあげようか?って言ってもやらせてくれないのに、坂上さんなら良いのねえ」
ニヤニヤしながら、いらん事をばらすな!!
「そうなのか?」
「……さっさと行くぞ。遅れちまう」
更にいらん事を確認してくる無邪気な智代についに居た堪れなくなった俺は、急かす様に言って二人と顔を合わす事無く足早にドアから出て行く。
「あっ、こら!それじゃあ、お母さん行って来ます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「はい!」
俺の代わりにお袋と元気に挨拶を交わし、慌てて智代も家か出て来た。
しかし既に門扉の外に居た俺は、彼女を一瞥するだけでそれを待つこと無く、むしろ逃げる様にやや小走りで歩き出す。
だが、
「こら!待て!」
「!」
逃げる物を追い駆ける習性を持つ天性の捕食者である彼女は、瞬く間に追いついてくると逞しい前脚で獲物を捕獲するかの様に俺の左腕に抱きついて来る。
「少しくらい待ってくれても良いじゃないか!女の子を置いて勝手に行く奴があるか!それに、お母さんへの『行ってきます』はどうしたんだ!?」
「時間が無いんだって!時計見ろ!」
耳元での噛み付かんばかりの抗議すら悩ましく、押し当てられる堪らなく柔らかな物に精神までも捕獲されそうになるが、羞恥に後押しされた理性と、切迫した状況がそれを許さない。
「ああっ、そうだった……!これは少し走った方がいいか?」
「そういう事だ」
そう言いながら自分の左腕の時計を見て“しまった”という顔をした智代だったが、しかし一向に俺の腕を放す気配が無い。
「……だから走るんだ」
「うん。走ろう!」
「……いや、だから、この体勢じゃ走れないだろ?」
「大丈夫だ。お前が走り出したら私も同じ速さで走れば問題無い」
自信満々で言い切った!
腕組みながら走る気かコイツは!?
「いや、走り辛いし、何より恥ずかしいから止めてくれ」
「いいじゃないか。二人三脚みたいな物だと思えばいい」
「いやいや、普通に二人三脚が恥ずかしいから」
「どうして?体育祭とかではよくやってるじゃないか……一度ちゃんとした形でやってみたかったんだ」
「いやだから、それは体育祭とかでやれよ!てか、やった事無いのか?」
「だから“ちゃんとした形で”だ。小学生の時一度有るには有るが、その時は相手の子と走る速度が合わなくて、練習で転んでしまった相手を引きずってそのままゴールしたんだ。そうしたら、何故か二人三脚の選手から外されてしまった……練習とは言え、一着だったのにだ……そしてそれ以来、二人三脚の選手に選ばれる事は二度と無かった……」
まったく自覚の無い智代は寂しそうに遠くを見つめていた。
小学生の時から、そんなだったのか……。
不憫な物である。
コイツも周りも不憫だ。
多少の規格外れくらい、誰か一人でも笑って受け入れて入れてやれば、また違ったんだろうに……。
「……走るぞ!」
「へっ?あっ!!」
告げると同時に俺は掴まれていた腕を引っこ抜き、またも智代を置いて走り出した。
こんな事をしている間に、時間ばかりが過ぎて本当にヤバクなりそうだ。
「これじゃあ、普通に走っているだけじゃないか」
「いや、それの何が悪いんだ……?」
やはり智代はすぐさま不満顔で追いついてくる。
俺も格別速いって訳じゃないが……つくづく出鱈目な速さだ。
しかし俺はここで、あえて無謀とも言える賭けを提案する。
「わかった。じゃあ、こうしよう。このまま校門まで競争して、お前が勝ったら今度二人三脚でも何でもしてやる」
「本当か?面白い、受けて立とう!約束だからな!」
もう勝った気でいる智代は、いつもの自信に満ちた笑顔と風になびく長い髪を残し、スピードを上げ俺を引き離して行く。
だが俺は、その背に向かってこう叫ぶ。
「その代わり……俺が勝ったら、わかってるんだろうな?」
「……何をする気だ?どうせHな事だろ?」
「さてな……負けてからのお楽しみだ」
やはり気になったらしく、振り向きながら走る智代に、邪悪な笑みで言ってやる。
「別に楽しみな物か!まあ、いい。負けなければいいだけの事だからな!」
向き直った智代は更にトバしていき、ますます距離は離されていった。
だがこれでいい。
狙い通りだ。
智代は確かに瞬発力は凄まじいが、持久力的に然程では無い事は前の戦いで確認済みである。
俺の家から学校までは、近いとは言え中距離走くらいの距離はあろう。
何より学校前に在るのは、この辺りのアスリートの間では“心臓破り”と名高い200メートルの上り坂だ。
智代がいくら速くとも、そんな坂道を走り慣れてはいまい。
そして俺にとっては、ガキの頃から本当に嫌になる程走り続けた道でもある。
「勝負は……あの桜並木だ……!」
俺は自分のペースを守りつつ、虎視眈々と勝負の時を待った。
勝負所である桜並木が見えてきた。
だが、想定外の問題が二つ。
一つは……すでに俺自身の体力の限界にきてる事だ!
自分のペースは守ってきたつもりだが、やはり部活を辞めてからのブランクはデカイなあと改めて思い知った。
そしてもう一つは……、
「遅いじゃないか!勝負の事を忘れて歩いてるのかと思ったぞ!」
智代が坂の入り口で立っていた!
俺を待ってるフリして休んでやがったのだ!
そのまま無言で走り抜ける俺を待って、並んで一緒に走り始める。
ふわりと風が運んでくる彼女のにおいと、聞こえてくる息遣い。
不覚にもそれでかなり……あ、いや、少し、ほんの少しだけ元気がでた。
「……どうした?ダッシュで走っていかないのか?」
「うん。待ってる間に気付いたんだが、最終的にお前にさえ勝てればいいんだ。なら、別に初めから差をつけなくても、一緒に走ってゴールする時に先に行けばいいだけの事だろ?」
いや、それくらい走る前に気付こうよ!
相変わらず得意気で、自分の勝利を微塵も疑わない笑顔だった。
もっとも、既に体力の限界を感じている俺と、多少なりとも休んでいた彼女では、勝敗は火を見るより明らかか……。
「……てか、もう時間的に歩いても余裕じゃねえ?」
「ん?そうだな。余裕と言う程じゃないが、もう歩いても間に合いそうではあるな」
走りながら当てずっぽうで言ってみると、智代も時計を見て少し安心した様だった。
とりあえず、普通に歩いていけば遅刻する心配は無いのだ。
「じゃ、歩くか?」
「そうだな。でも、校門が見えたら私も走るつもりだからな」
「ちっ……」
「お前の魂胆なんてお見通しだ。もっとも、お前が勝負を降りると言うなら、それでも構わないぞ。ああ、もちろん、バツゲームはやってもらうからな」
俺の策を看破し、得意満面で降伏勧告までしてくる始末。
まったく……もう走る必要が無いってのに……。
ならば仕方有るまい。
「じゃあ、いいんだな?お前が負ける事になっても」
「うん。あっ、いや、Hな事をされてもいいと言う訳では無いぞ。負けるつもりが無いだけだ」
「……どうだか……!」
俺は走りながら右手に意識を集中させ瞳を閉じる。
黙想…………。
俺の体力は既に限界、対して智代は一度休んでおり、勝利を確信している事もあってか気力が充実している。
つまり……この勝負俺の勝ちだ。
休んでいたという事は、智代もまた一度限界迎えたと思っていい。
その証拠に、俺に悟られまいと自然を装ってはいたが、額の汗はひいてはおらず、息も整ってはいなかった。
そして、意外と大きなポイントはその休み方だ。
彼女は立って待っていた。
『つっ立って休むな!』
運動系の部活をやっていた人間なら、誰しも言われた事があるだろう。
激しく辛い運動から解放された時、“もう動きたくない”と思う気持ちは解るが、それでも急にその場に立ち止まったり、寝転んだりする事はあまり身体に良くない。
人間の身体は、急な変化についていく際“負荷”が加わる。
それは始める時だけでなく、やめる時も同じ事だ。
いや、そのままもう運動しないのなら、それ程リスクは無いのかもしれない。
だが、彼女は再び走らないといけないのだ。
一度“休憩モード”に入った身体で。
完全に体力が回復しないまま。
この長い坂道を……だ。
ここまで軽いランニング程度の速さで一緒に走って来たのは、むしろ彼女の身体を思っての温情であり、やめようと言ったのも俺なりの思いやりである。
それなのに……!
コイツときたら自分が負けるなんて夢にも思っていない。
あくまで強気で自信満々なのだ。
そんな風でいられたら……もう勝つしか、勝って滅茶苦茶にしたくて堪らなくなるじゃないか!
湧き上がる欲望が、体力の枯れ果てた身体に再び力を与える。
熱く滾る胸の想いが、身体の隅々に行き渡り、眠っていた力を呼び覚ます。
人間が感じる体力の限界なんて、実は本当の限界の半分にも満たない。
リミッターを解き放て!
ここからが、この川上央己の真骨頂だ!!
「!!」
開眼と同時に、俺は走る速度を一気に上げ智代を三度置き去りにする。
残りはまだ半分以上あるが、俺はここからスパートをかけたのだ。
「オーキ!?」
それに驚き暫し呆けた智代だったが、彼女もまた再び闘争心に火がついたのか、獲物を見つけた狩人の如き挑戦的な笑みを浮べ、疾風の如き速さで追跡してくる。
「こんな所からスパートをかけて平気なのか?」
徐々に追いつき並んだ彼女の、余裕とも強がりとも苦情ともとれる台詞。
珠の汗にまみれながらも、どこまでも不敵で挑戦的な笑み。
彼女自身が大気を切り裂き生じる風によって長い尾の様になびく髪。
その長さを生かした広いストライドで、跳ねる様に地を蹴る白く美しい脚。
そして……その度にハラハラさせてくれる短いスカートと、それに合わせて確かに揺れる豊かな胸。
まったく……気を抜くと思わず見とれてしまいそうになる。
今の俺には彼女意外の全ては色の無い風景に過ぎない。
登校中の他の生徒達も、美しく咲き誇る桜さえも。
ああっ……やっぱり躍動する智代は堪らなく綺麗だ。
「辛かったら歩け」
「それはこっちの台詞だ!私は負ける訳にはいかないからな」
一進一退の攻防。
やはり体力的にキツイのだろう。さすがに智代のスピードは落ちている。
だが、それでも差はつかず、その表情はあくまで楽しそうだった。
まったく化け物め……!
そう思いながら俺もニヤリとしてしまう。
ずっとこうして……。
コイツとずっとこうして、どこまでも並んで走って行きたい。
遥かなる高みの、その先まで……。
ついにゴールである校門が見えてきた。
「「!」」
まったく同時に互いに向き合いアイコンタクトを交わすと、残る力を振り絞りラストスパートに入る。
「なっ!?」
ここにきて驚かされたのは、俺の方だった。
智代がぐんと身体一つ分前に出たのだ。
やはりトップスピードの違いか、それとも余力差か。
温情なぞ不要。むしろ裏目ったか?
だが……これで終わる俺じゃねええええええええええええ!!
「……ほら、全力で走った後急に止まったら身体に悪いぞ……掴まっていいから、このまま昇降口まで歩け」
二人でほぼ同時に校門を通過するなり、その場で前かがみになって膝に手を付き立ち尽くしてしまった智代の傍まで寄って手を差し伸べる。
「ハアハア……うん……すまない……」
肩で息をしていた智代は、それに掴まると言うより、俺の腕にしなだれかかって身体を預けてきた。
「ちょっ、お前な……周り人居るだろ?あんまくっ付くな。みんなが見てる」
「いいじゃないか……私が勝ったから、どうせ二人三脚するんだしな」
「それとこれとは別だろ。てか、今のは同着か最後俺がまくっただろ?」
「いいや、胸の差で私の勝ちだった」
「……胸の差か?」
「胸の差だ」
それが触れている部分に意識を集中させる。
……確かこれにはどう足掻いても俺に勝ち目が無いな……!!
「……H!」
「何も言ってないだろ?」
「今絶対Hな事を考えていただろう?顔に書いてあったぞ」
そう言いながら俺の頬に手を伸ばしてきたかと思うと、智代はそこに“H”の文字を指で書いた。
しまいには本当に揉むぞテメエ!!
「……とにかく、一先ず歩け!折角走ったのに遅れちまうぞ」
「フフッ、そうだったな」
クスクスとおかしそうに笑いながら、ようやく智代は俺の腕に掴まりながら歩きだす。
まったく、始業時間間際の駆け込み組の連中で結構人通りは多いってのに……!
「てか、あちいな!こんな日に限ってブレザーだし……」
気を紛らわせるべく、思い出し様に言ってネクタイに手をかけ弛めようとしたが、ふと手が止まる。
智代が折角締めてくれた事を思うと、やはり忍びない気がしたからだ。
しかし、俺のそんな仕草で察したのか、今度は智代が俺のネクタイにその細い指をかけたかと思うと、そのままするりとそれを解いて微笑む。
「私への気遣いは嬉しいが、別に息苦しい時は外したって構わない。ネクタイくらい、これからは私が何度でも、毎日だって締めてやるからな」
コイツこれから毎朝押しかけて来る気だ!
そう予感し、これから毎朝この調子かと顔を引きつらせた。