第二章 5月5日 夢の舞台へ駆け上がれ!
4回の裏の攻撃は惜しくも無得点に終わり、7対8のスコアのまま5回の表の守備となる。
「オーキ、智ぴょん、いけるか?」
智代を連れてベンチに戻るなり、秋生さんからそう訊かれた。
試合は7回までなので、残り3回、走者を出さなければ打者一巡で終わる。
まだ調整は不十分ではあるが……渚さんの体力的にも今このタイミングでいくしかないだろう。
「いけるな?」
「ああ、任せてくれ」
俺に判断を委ねていた智代をそう焚きつけてやると、彼女はいつもの自信に満ちた笑みで答えた。
「よし、じゃあ渚は交代だ。どの道、打席が回ってきてたら代打を送るつもりだったからな」
「はい。後はみなさんにお任せします」
お役御免となった渚さんは、申し訳無さそうにしながらもほっとした表情を浮かべる。
出るつもりも無かったのに、いきなりピッチャーをやらされたんだ。相当疲労している事だろう。
まずはお疲れ様です。
見学する側に戻って、ゆっくり休んでください。
「ピッチャーに智ぴょん、レフトには……」
ついに“あいつ”の出番か。
野球は経験無いって言ってたが、まあ、あれだけ運動神経が良ければ大丈夫だろう。
「風子入れ」
「はい。任せて下さい!」
しかし秋生さんに指名されて元気に現れたのは、春原さんの妹さんより更に小さな女の子だった。
何度か学校で見た覚えのある子だが……やっぱり岡崎さん達の知り合いなのか……?
てか、いつの間に来たんだろう?さっきまで居なかったよな……?
「おっさん、智代はともかく、こいつを出して大丈夫なのか?」
すると岡崎さんが難色を示す。
何だ?戦力的にやばい子なのか?
「岡崎さん失礼です!これでも風子、かなりのメジャーリーガーとして近所でも有名です!」
やばい子だ!
戦力以前に、ルールを知ってるかどうかも危ういぞ……!
「はあ?何言ってんだろうねこの子は……おまえがメジャーリーガーな訳無いじゃん」
「頭が変な人も、マイナーリーガーなクセに失礼です!」
「そもそも、ぼくは野球の選手じゃねえよ!」
頭が変な人って……春原さん……。
多分、有名・無名って意味でメジャーとかマイナーとか言ってるんだろうなこの子……。
「つっても、他に代わりに出れる奴居ないだろ?」
「まあ、そうだけど……」
「えっ……!?」
秋生さんと岡崎さんのやりとりに耳を疑い、思わず声が出た。
他に居ないって……?
「どうした?」
「あ……いや……あいつは?」
「あいつ?」
「いや、だから……」
ど忘れして名前が出てこず、ベンチに居るであろうあいつの姿を探した。
しかし、どういう訳か見当たらない。
と言うか……そもそも、あいつってどんな格好してたっけか……?
……あれ!?
「……俺が連れてきた奴どうしました?」
トイレにでも行ってるのかと思いそう尋ねてみたのだが、秋生さんはますます怪訝な顔をする。
「あん?おまえが連れてきた智ぴょんの後輩なら、相手チームについただろ?」
「いや、河南子の奴じゃなくて……そう!あいつのホームランを撃ち落した奴ですよ」
「あれは鳥か何かに当たったんだろ?」
「……」
何だ……何かおかしい……!?
ズキリと頭に痛みが走る。
それを押さえた右手で抑えこみ、痛みに耐えながら記憶を辿る。
先程あいつが仕出かした事は、ちゃんと秋生さんにも説明したし、その時あいつも一緒だったはずだ。
なのに、秋生さんはそれをすっかり忘れている。
いや、河南子のホームランが何かによって落とされたという事実は憶えていながら、あいつの事だけが抜け落ちている感じだ。
そして、それは俺も同じ。
あいつの名前だけでなく、容姿までも記憶に靄がかかった様に思い出せない。
「一体どうしたんだオーキ?具合でも悪いのか?」
俺の言動を変に思ったのか、智代が隣から覗き込む様にして顔色をうかがってくる。
「まさか、さっきの河南子のデッドボールが頭に当たっていたのか!?」
「いや、それより、お前もあいつの事を憶えていないのか?」
「さっきから言っているが、“あいつ”って誰の事だ?」
「さっきスタンドで会って、一緒に連れてきただろうが」
「スタンドに……?一体誰の事を言ってるんだ?」
「誰って……ほら、サッカーの試合とか、昨日も一緒に組んで戦っただろ?あいつだよ」
「サッカーの試合に出ていたメンバーなら、全員いるじゃないか。それに昨日はずっと二人っきりだったはずだ」
どういう事だ……!?
俺の記憶違いどころか、これでは“あいつ”の存在自体忘れているみたいじゃないか。
あれだけ意識していたのだから簡単に忘れるはずも、忘れたふりをするような奴でもない。
本当に知らないのだ。
そして、こいつが忘れてるんじゃ、他の人に聞いても同じだろう。
何か不可解な事が起きていた。
『魔法や或いは特殊な科学技術によって、複数の人間から特定個人に関する記憶を削除する』
その手のネタは漫画や小説じゃありがちだが、そんな事でも起きたかの様だ。
影が薄くて忘れ去られてるって事も無いだろうし……。
それとも……“あいつ”は俺の妄想の産物だとでも……?
まさか……そんな筈は……。
確かに、“あいつ”はとびきりの美少女で、しかも俺に好意を持ってくれる都合のいい存在だった。
けれど……じゃあ、サッカーの時に負傷した岡崎さんの代わりに出てくれたのは一体誰だったのか?
昨日のサバゲーで秋生さんを倒した事も妄想か?
大体、妄想だとしたら、どうしてこんな中途半端なタイミングで解けるんだ?
てか、むしろ今目の前に居る坂上智代の方が余程妄想っぽくないか?
「オーキ、本当に大丈夫なのか?さっきからおかしいぞ」
「……お前は俺の作り出した妄想か?」
確かめようと単刀直入に訊いてみると、酷く悲しげな顔をされる。
「訳がわからない……オーキが本当におかしくなってしまった……!」
「妄想じゃないなら、証拠を見せろ」
「証拠と言われてもな……これでいいのか?」
智代は俺をじっと見つめながらの両手を俺の頬に当てると……おもむろにつまんでビヨ~ンと横に伸ばしやがった。
「ひはい……!」
「どうだ?夢じゃないだろ?」
得意満面な笑みで俺の頬を伸ばしたり上下に揺らして弄んでくる。
このやろう……妄想と夢は違うだろ!
あれ?似た様な物か?
「わはったからはなへ」
こちらの手を内側から割り込ませる様にして振り払い、頬をさすりながらそのまま回れ右をしてキャッチャーの用意をすべくベンチに戻る。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。ちょっと考えが煮詰まってテンパッてただけだ。それより、お前ピッチャーやるんだから、先行ってマウンドを均したり感触確かめたりしとけ」
「……わかった。でも、無理はするなよ」
いまだ釈然としない様ではあったが、智代は素直にマウンドに向かってくれた。
やはり有り得ない。
そもそも、智代さんの相手だけでもいっぱいいっぱいなのに、わざわざ妄想する必要性が無いだろ。
それならまだ“あいつ”が何処かの組織のエージェントか何かで、何らかの方法で皆の記憶を消去していったと考えた方が合点がいく。
何にせよ、ただ一つ確かな事は……もう“あいつ”とは会えないだろうと言う事か……。
はぁ……。
無力感と感慨を溜息にして吐き出す。
俺に出来る事があるなら、“あいつ”を忘れないでいる事だけだろう。
くいくい
不意に背後からユニフォームの裾を引っ張られた。
振り返ると、そこに居たのは先程渚さんの代わりに出る事になった女の子だった。
「どうした?」
「……」
何か俺に用があるのかと訊くと、彼女は暫し無言でじっと俺を見つめ、唐突にすっと誰も居ないはずのベンチの端を指差した。
しかし、促された方向に視線を辿っていくと、そこには独り黙々と単行本を読んでいる女子が座っているじゃないか。
「って……居たし!」
「うわぁ!いきなり何!?」
思わず寄って行っておもむろに肩を掴んでしまい、酷く驚かせてしまった。
でも、何で今まで気付かなかったんだ?
まさか、気配を完全に消していたとか?
それにしたって、何であの子はこいつに気付けた?
まあ、とりあえず細かい事はいいか。
「いや……珍しく大人しいから、忘れられてるぞお前」
「ああ、今勉強中だから、出番になったら呼んでちょうだい」
そう言いながら彼女が読んでいたのは、アニメにもなった某“有名”野球漫画だった。
あんまり技術的な事は書かれてなかったと思うが……勉強になるんだろうか……?
そんな事より、確認しとかねばならない事が有る。
「そういえば、お前の名前なんだっけ?」
不可解な事件が片付き、すっきりした気持ちで試合に臨む。
「まずは三球練習出来る。さっき春原さんに投げた感じで、おもいっきり投げろ」
「わかった」
手短にマウウンドの智代にアドバイスして、キャッチャーボックスに入る。
さあ、みんなの度肝を抜いてやれ智代!
ブンッ!
おおっ!!
ガシャッ!!
「……」
一球目に投じられたのは……フェンス直撃、どよめきが起こる程の大暴投だった。
おいおい……。
「落ち着いて投げろ」
嫌な予感がしつつ、二球目を投げさせてみる。
しかし、二球目もまた一球目程ではなかったが、大きく上にそれた暴投だった。
堪らずマスクを取りながら小走りでマウンドに向かう。
「どうした?さっきの練習の感覚を思い出せ」
「……無理だ」
「何が?」
「さっきの様に投げろと言う事は、春原の時の様におまえにもぶつけるつもりで投げろと言う事じゃないか。そんな事は出来ない」
その可能性を懸念してはいたが、やはりそうなるか……。
言わばこれは、『ピッチャー坂上智代』を完成させる為の最後の試練だ。
結局、智代のコントロール悪さの原因は、キャッチャーへの無意識の気遣いにある様に思う。
ぶつけて傷つけてしまう事を恐れているのだ。
だが……、
「お前、俺をなめてるのか?」
「どうしてそうなるんだ?そんな訳無いだろ」
「なめてるじゃないか。俺もお前の球を捕れないと思ってるんだろ?言っておくがな、秋生さんの球に比べたら、お前の球なんてまだまだだぞ」
「そんな事はわかっている……」
「なら、全力で投げてこい。俺が全て受止めてやるから。屋上の時みたいにな」
「……わかった」
真剣な眼差しで諭しながらボールを手渡すと、あの時の事を思い出してか智代は少し頬を高潮させながら大きく頷いた。
今まで出会った他の奴が無理だったとしても、俺なら坂上智代の全力を受止められる。
あの日、それを証明してみせた事から、俺達の関係は始まったはずだ。
要らん気遣いは元より無用。
「こい!」
定位置に戻り、腰を落としてミットを一つ叩いてから構える。
彼女は一つ頷いてから、大きく振りかぶり……投げた。
シュッ!
バシーン……!!
快音が大気を震わせ球場の空に届く。
「ナイスボール!!」
受止めた左手の芯にズドン来た衝撃。
痺れの後にヒリヒリと痛みがやってきたが、湧き上がる喜びがそれを直ぐに忘れさせた。