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木蓮

作者:桐生 慎
 ほの甘い香りで金田正太郎は目を覚ました。丁度深い眠りに入りかけたところである。目が覚めても、身体の動きはおぼつかない。
(なぜ目覚めたのか?)
 その理由が思いつかない。
 夜の闇の中、甘い香りが庭から密かな気配を伴って入ってくる。
 ぽとり。
 聞こえるか聞こえないかの程度で音がした。
 布団から抜け出ると夜の冷気が襲って来た。今一度布団の中に戻ろうかと思ったが、音が妙に気にかかった。
 金田の部屋は屋敷の中庭に面している。
 純日本風の屋敷だ。障子を開ければ濡れ縁に出て、自慢の日本庭園を望める。
 庭には白木蓮の木があった。花が満開になっている。その香りが夜の冷気と共に部屋に入り込んでいるのだ。
 ぽとり。
 一定のリズムで音がする。自然に落ちているものではないらしい。
 濡れ縁に立って庭を望む。金をかけた日本庭園で金田の自慢である場所だ。
 月夜の中、木蓮の花々が月明かりでぼんやりと浮かんで見える。庭に出ると香りは濃厚なものになった。
 ぽとり、小さいが十分夜のしじまに響く音で木蓮が落ちた。
 が、咲いている場所から落ちているのではない。落ちる音だけが響くのだ。
 根本を見た。度肝を抜かれた。
 木蓮の根本は髑髏が積もっていた。

「そういう事があったのですよ」
 金田はまだ若いその男に敬語で語りかけた。
 その男の日本画の個展会場の応接室で金田は他に人がいないを確かめ、話しかけた。その男は静かな顔で話を聞いている。名を天野忠臣と言う。年齢は三十代半ばから二十代半ばまでどの年齢を言われても不思議のない面立ちしている。眉目秀麗な男だ。
 金田は天野の絵を好み、これまでにも数点購入している。天野にとっては上客なのだが、金田は「先生」と天野を呼ぶ。金田も五十を過ぎてから日本画を学び始めた。天野は金田の好きな画家だが、日本画を描くコツのようなものを時折、伝授してくれる。その意味で天野は金田の師の一人であった。
「あまり宜しくない話ですね」
 聞き終えて天野は嘆息と共に言った。
 とたんに金田は不安になった。実は心当たりがある。
「狩野丹海さんをご存じですか?」
「凄絶な死を遂げられた方ですね」
 天野は言う。
 狩野丹海。夭折の画家である。
 若くして日本画の世界にデビューし、将来を嘱望された絵描きである。が、三十代後半で狂った。言動がおかしくなり人付き合いをしなくなった。
 狂ったように昼夜を問わず絵を書き続け、三十九歳で割腹自殺している。
 晩年の作品は鬼気迫るものがあり、好事家の間で高値で取引されている。
 その一方で晩年の作品には奇妙な風説があった。
 その作品を持っていると祟られると言うのだ。
 金田はそのような風説は分からない。自分さえしっかりしていれば祟りなどあるまいと思っている。
 そんな時に、ある画廊で金田は丹海の作品と出会った。朱色の夕日に染まった広大なススキ野に一人の美女が立ち何かを待つように後を振り返っている寂寞としたたたずまいの絵である。金田は一目でその絵に惚れた。言い値で買い取り自宅に飾った。
 木蓮の怪異はその日から始まっている。
 その経緯を語ると、天野は得心がいった様子だった。
「では、絵が祟ったのでしょうね」
「そのような事が実際にあり得るのでしょうか?」
 金田は半信半疑の様子で尋ねる。
「狩野丹海ほどの絵描きならば、あっても不思議はない話ですね。特に晩年の作品は凄味がありますからね」
 金田はしばし思案していたが、思いこんだ様子で天野に言った。
「一度その絵を見て頂けないでしょうか? 美しい絵で祟る代物には見えないのです」
「こちらから見せて頂こうと思っていたところです。お邪魔させて頂きましょう」
 話はまとまった。

「ほう。これがそうですか?」
 居間に掛けられた絵を見て天野が嘆息する。
「さすがは丹海。優れた技法ですね」
 天野は絵の感想をそう述べた。見事と言って良い出来の作品である。右手に沈もうとする夕日を大きく描き、一面のススキのが赤く染まっている。美しい女が一人何かを抱えて立ちすなび、こちらに背を向けて何かを振り返っている。そのあどけなさが残る女の表情は寂しげに描かれている。
「先生はこれが原因とお考えですか」
「そうですね。良い絵ですが・・・・・」
 天野の目には絵から放たれる妖気が見て取れる。
(これは、なまなかな代物ではない)
 心中そう思った。
「この絵を手放す気はおありですか?」
 天野は金田にそう尋ねた。金田は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「正直申しまして、その気はありません。これは私の宝になっているので……」
「命を落とすような事があってもですか?」
 天野のこの言葉に金田は顔面を蒼白にさせた、金田は天野に霊力がある事を知っている。
 それだけにこの言葉は心臓に刃を突きつけられたように金田には感じた。
「それほどに危険な絵なのですか?」
 金田は震える声で尋ねた。
「そうですね。出来ればお寺かどこかに供養して貰うのが妥当な品物です。美しい絵で
はありますが……」
「なんとかなりませんかね? 手放したくはないのです」
 すでに絵に魅入られているのかと天野は思った。
「一応気休めですが、お札を書いていきましょう。一枚は絵の裏に張ってください。一枚は肌身離さず持っていてください」
 その場で墨をすり、筆でさらさらとお札を書く。
 梵字の廻りを意味不明な飾り文字らしき曲がりくねって書かれていた。

 数日は何事もなく過ぎた。
 一週間を迎えようとした晩に金田は又眠りより覚めた。
 金縛りに罹っていて目の玉以外は動かない。
 何者かが自分の布団の廻りを回っている。立って歩いている。和服の女性のようであった。
 やがて、女は枕元に立った。
 金田の恐怖は絶頂に達した。
 女は金田の顔をのぞき込む。ぞっとする程に美しい女であった。
 歳は二十歳を過ぎたばかりだろう。絵の女にそっくりである。装束からして江戸時代の姫君を想像させた。長い髪を垂らしている。その端が金田の顔に当たる。
「効かぬわ」
 女はそう言った。とたんに顔が腐れ始めた。腐って顔が腫れあがる。腐乱が進んで汚泥のような顔の肉が金田の顔に落ちた。
 金田は悲鳴を上げ気を失った。

「なに? その絵は?」
 台所に向かっていた遙日が振り向く。天野が持ち帰って来た絵を広げてキャンパスに掛けたのである。
「仕事だよ」
 天野の返事はそっけない。
「凄い妖気ね」
 振り返らずに遙日は言う。
「腐っても狩野丹海。なまなかな代物ではない」
「で、その絵をどうするの?」
「怪異が起こらぬよう処置して欲しいそうだ」
 エプロンで手を拭きながら鳴神遙日は天野忠臣の横に立ち絵を眺めた。
「綺麗な絵ね。なぜこうまで妖気を放つのかしら」
 鳴神遙日は若く美しい牝鹿を思わす容貌をしている。目がくりりと大きく筋肉が引き締まっている。腰まで伸びた髪を無造作にくくっていた。
「さてね。予想が当たっていれば良いのだが」
 天野は三脚とカメラを持ち出した。
「なにをするの?」
「どうせ絵をいじくる事になる。前の絵の保存と妖気の確認をするのさ」
 天野は絵の写真を数枚撮ると、フィルムを差し替えた。
「そのフィルムは?」
「赤外線フィルム」
 遙日は察しが良い。
「ははぁ。絵の下に何かあると思っているのね?」
「そう言う事」
「出来たら見せて頂戴。私は夕飯を作っておくわ」
「いつもすまんね」
「前は出来なかったからね」
 遙日は悪戯っぽく笑った。

「で、どうだったの?」
「予想は当たってた。見るかい?」
 肉じゃがを頬張りながら天野は答えた。
「どうせろくな代物じゃないんでしょ? 夕飯をかたしてから見るわ」
「賢明だね」天野は苦笑した。
 夕食後、遙日は天野の膝枕で写真を眺めた。
 猫でも飼っている気分だと天野は苦笑する。少なくともイヤではないらしい。
「ふぅうん」
 遙日は鼻を鳴らした。
「良くは分からないけど、あの絵の下に地獄絵図が描かれていたのね」
 下に隠されていた絵は壮絶の一言に尽きた。
 ススキ野には無数の死体が放置されている。まだ新しい死体から、腐りかけの死体、白骨化したものそれら多数の死体を念入りに丁寧に描いている。女の立ち姿の位地には白木蓮が月の明かりに白々と照らされている。夕日のかわりに朧月夜が描かれていた。
「こういう光景を丹海は実際に見たんだろうね。生きながら地獄へ浸かって行ったのだろう」
 天野の声にはかすかに憐憫が混じっていた。
 画家として天野は狩野丹海に通じるものを感じていた。
「で、どうするの? 分からぬように複製品でも描くの? これは燃やさないとどうにもならないでしょう」
「そこをどうにかするのがプロと言うものさ」
 天野は微かに笑ったものの、手段は思いつかなかった。

 翌朝、遙日は朝日にベッドの上で目覚めた。横にいるはずの男の姿はない。
 アトリエに下りて見ると天野が筆を取っていた。
 絵は変わっていない。
 にも関わらず、絵の妖気は消え去っていた。
 遙日は素肌にシーツを巻き付けただけで、天野のもとに下りて行った。
「なにをしたの?」
 天野はにやりと笑ってみせた。
「狩野丹海は書き連ねたは良いが仕上げをしていなかった。その絵の仕上げをしたのさ」
「具体的に教えて」
「表面をはがしてね、月を後光に見立てて阿弥陀如来を描いたのさ。今、そのはがした分の修復をしている。」
(ああ、その手があったか!)
 遙日は心中舌を巻いたが、おくびにも出さず、「呆れた、それじゃ贋作じゃない?」と詰め寄った。
「この世界、贋作が目白押しなんだぜ。贋作家でも喰っていけるな」
 熱心に修復しながら天野は呵々大笑した。(了)
 文芸社より刊行された小説「黒い禊ぎ」の主人公の一人・天野の日常の一コマを切り抜き掌編小説としました。シリーズ化したいものです。

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