昔、昔のこと。
春日部という町に、しんのすけ、風間という若者がいたそうな。
二人は寺子屋に通っていたが、真面目で優等生の風間とは対照的に、しんのすけはのんびりやで、いつも宿題をやってこなくては居残りさせられていた。
そして、今日も…。
「しんのすけーっ、早くしろよ!」
「んもー、風間くんがオラを待たせるから〜」
「それはこっちの台詞だよ。寺子屋の宿題やってこなくて居残りさせられたのは、どっちなんだよ!」
例にもれず、また二人の帰りは夕方になってしまっていた。
風間とおるはため息をついて空を見上げた。夕日が二人の姿を、赤々と照らし出している。
「あーあ………もう日が暮れちゃう。」
現代の街とは違う。江戸時代の夜は、ほとんど光源がないために、月や星の出ない時は真っ暗も同然で、おまけにそれに乗じて野盗や野犬が襲ってくることも、決して珍しいことではなかった。
しばらく行くうちに、もうすっかり日が落ちてしまったが、幸い月明かりのおかげで迷わずに進むことができた。とおるの足が、無意識のうちに急ぎ始める。
しかししんのすけはというと、マイペースなのんびり歩調をまるで崩さなかった。
「早く来いよ!野犬に襲われても知らないからな!!」
怒鳴っておいて、前に向き直って………思わずびっくりして、立ち止まった。
前方の道に、誰かがいる。うずくまっている。
こんな時間帯に、こんな所で何をやっているのだ?
「どうしたんですか?」
人影に駆け寄ってみると、それは着物を来た一人の女性だった。とおるの方を、困った顔で振り返る。
「実は、姫が急な腹痛で…」
女性は自分の娘らしい、一人の少女を抱えていた。
『姫』と呼んでいるところを見ると、二人ともそれなりに高い身分の者なのだろう。身につけている着物も、なかなかの上等品のようだ。
「それはお困りでしょう。」
苦しそうな表情をしている姫を見て、とおるは気の毒そうな顔になった。
「そんじゃ、お大事に〜」
素っ気ない言葉を投げて走り去っていこうとするしんのすけを、とおるは慌てて呼び止めた。
「助けないのか?」
「早くしろって言ったのは風間くんでしょ。」
「くっ…」
とおるはため息をつき、ふところから、小さな紙にくるまれたものを取り出して差し出した。
「これをお飲みなさい。急な腹痛に、よく効く薬です。」
「まぁ…ありがとうございます。」
女性は嬉しげに目を細めて、薬の包みを押しいただいた。
なんでそんなものを持ってるんだと思われるかも知れないが、寺子屋に行っている時に突然腹痛を起こす子供が現れたりするので、その時のために常備しているのだ。
薬はよく効いたようで、姫はあっという間に元気そうな顔になった。
「本当にお礼の言いようもありません。」
女性が頭を下げる。
「いえ、そんな…」
「いや〜、それほどでも〜」
「お前は何にもしてないだろ。」
その時姫が、母親の耳元に口を寄せた。とおるたちには聞こえないような小声で、何事か囁いている。
女性はうなずきながらそれを聞いていたが、やがて顔を上げてとおるを見つめ、こう言った。
「姫が、お礼をしてさし上げたいと申しております。どうぞ今夜は我が屋敷で、一晩泊まっていって下さいな。とびきりのおもてなしをしてさし上げますので。」
とおるは少し、困った顔になった。
「うーん………僕これから、寺子屋の予習をするつもりなので……ちょっと…」
さて、それからどうなったかというと。
とおるは結局、女性と少女の誘いに乗らなかった。
代わりにというか、招待を受けることになったのは、なぜか何もしていないしんのすけであった。
「ばいばーい、風間くん。また明日ー。」
「あ…」
女性はとおるの方を名残惜しげに見て、まだ引き止めようとしていたが、その後ろ姿はあっという間に闇の中に溶け込み、見えなくなってしまった。
「…じゃ、行きますか。」
そう言うしんのすけを、女性は思い切りいまいましげににらんだが、何の効き目もなかった。
とおるとしんのすけの住む家は、隣同士であった。
とおるは一人暮らしだったが、しんのすけは父、母、妹と共に暮らしており、母のみさえは不出来な息子に、
「ちょっとは隣の風間くんを見習ったらどう?」
と叱りつけるのが常だった。
今日もしんのすけは、明け方辺りに帰ってきてみさえにこっぴどく怒られていた。
「一体こんな遅くまで何をしてたの!?あなた、何とか言ってやって!?」
ガミガミ言われながらも、しんのすけは昨夜の話をできるだけ詳しく家族に話してみせた。
しんのすけが、女性とその娘に連れていかれたのは、竹やぶの奥深くにある大きな屋敷の中だった。そこでは大勢の人々が出迎えてくれて、ごちそうを食べたり、美女に囲まれたりと夢のような時を過ごしたのだという。
しかし招待してくれた当の母子二人は、苦虫を噛み潰したような顔をしていたに違いない。本当に助けてくれたとおるではなく、彼にくっついていただけのしんのすけをもてなす羽目になったのだから………。
もちろんみさえは、そんな話を信じはしなかった。この辺にそんなお屋敷があるなんて、聞いたこともないからだ。
しかし、しんのすけも言い張ってゆずらない。
「証拠だってあるもん!」
「証拠?」
「昨日出たお菓子を、ちょっと持って帰ってきたんだゾ!」
そう言ってしんのすけは、ふところをもぞもぞやってから、ぱっと手を差し出した。
が、中から出てきたのは数枚の木の葉だけであった。
「………ただの、葉っぱじゃないの。」
「みたいですな。じゃっ!」
近づく危険を感じ取ったらしい。しんのすけはさっさと家から飛び出してしまった。
「あ、こら待ちなさい!しんのすけー!!」
小さな木の葉は、窓から入ってきた風に、瞬く間に吹き散らされていった。
その夜───街のほとんどの人が寝静まった、真夜中のことである。
とおるの家には、まだぼんやりと明かりが灯っていた。寺子屋の勉強の予習をするためにとおるがつけた、ろうそくの明かりであった。
勉強熱心なとおるは、こんな夜まで勉学に励んでいるのだ。
不意にどこからか、冷たい風が吹き込んできたのはその時だった。
ろうそくの火が揺れ、ふっと消えた。
「ん………何だろ、急に風が……」
戸をちゃんと閉め切っていなかったようだ。とおるは真っ暗な中立ち上がり、何かにつまずいて転ばないよう気をつけながら、そろそろと戸の方へ向かった。もともと、そんなに広い家でもないのである。すぐに辿り着けた。
「あれ…?」
驚いた。戸の隙間から、びっくりするくらい冷たい風が吹き込んでくるのだ。
今は夏だというのに………。
「どうしたんだろ。」と呟きながら、戸を少し開けて外を覗いたとおるは、明かりに気づいた。
提灯の光だった。
とおるの家のすぐ隣の、野原家の戸口の前で、その提灯は止まっていた。
「………?しんのすけの家に、こんな時間にお客さんが?誰だろ?」
何気なく、提灯についている棒を目でたどってみた。
誰もいなかった。
何の支えもなしに、提灯はふわふわと浮いているのだった。
「…ひっ!」
とおるの喉から、変な声が漏れた。
そのまま戸を閉め、とおるはもう二度と、外に顔を出そうとしなかった。
冷たい風が顔に当たった気がして、しんのすけは深い眠りから覚めた。
すぐそばに、誰かが座り込んでこちらを見つめている気配がする。しんのすけは薄く目を開いた。
目に映ったのは、昨日屋敷に連れていってくれた女性だった。
「ああ、やっと起きたわね。」
女性は笑みを浮かべていたが、その中にやや怒りが混じっている。今まで起こすのに、さんざん苦労したものらしい。
しんのすけは目をまん丸くして、彼女を見つめていた。
「実は、あなたに聞きたいことが…」
ところがしんのすけはもう、女性の話など聞いていなかった。
「母ちゃん、父ちゃん、この人だゾ!このおばさんがオラを昨日、おうちに招待してくれたんだゾ!!」
「おばさっ…!!」
女性の顔が一瞬歪んだが、もちろんそれに気づくような野原一家ではない。
「いやー、息子がどうもお世話に………お名前は?」
「さ、桜田です。」
「へえ、聞いたことありませんわ。」
「たやいたやい!」
「そ、その、私たちはわけあって、人目を避けて暮らしておりますもので。オホホホホホ…」
「ほうほう、じゃ、キントン暮らしってやつですな。」
「それを言うなら隠遁だろ!」
「そうともゆう。」
「実は、あの………折り入って、お聞きしたいことがありまして……」
「母ちゃん父ちゃん!おばさんが、オラたちみんなをおうちにごしょーたいしたいって!!」
「………えっ!?」
全てが、しんのすけの言った通りだった。
素晴らしいごちそうに、美女や美男子。何もかもが昨日しんのすけの味わったことと同じだった。
ついでに言うと、後ろでいまいましげにしんのすけたちをにらんでいる、桜田親子の表情まで一緒であった。
竹やぶの中に、人影があった。
網笠をかぶった、一人の坊主である。鼻水を垂らした、表情の少ない顔つきではあるものの、彼は実は、幽霊退治において高い評判を得ていた。
今日こんな所へやって来たのも、強力な霊の気配を感じ取ったからだった。
「………ただならぬ、妖気。」
そう呟き、歩みを進める坊主の前に、突如大きな屋敷が姿を現した。なかなか立派そうな家構えである。
だが、見事なまでにぼろぼろになっていた。
とても人が住んでいないように見えるその建物から、しかし明るい声や笑いが聞こえてくる。坊主は中を覗いてみた。
そして、仰天して飛びのいた。
荒れ果てた家の中で、家族らしい四人づれがかかしに抱きついたり、木の葉を口に運んだりして大喜びしていた。
「何ですと!幽霊が出た!?」
町の長である名主は、目を見開いてその言葉を繰り返した。
彼の前には先刻の坊主。そしてその後ろで、わけが分からないという顔をしている野原一家。
彼らのお腹は、昨日食べた『ごちそう』のおかげで大きく膨らんでいた。
「しかも、かなり性格の悪い、霊だ。下手をすると、仲間にされるかも、知れない。」
「それはそれは…」
名主は青ざめた。何しろ幽霊退治で名高い坊主の言うことだ。まいがしろにするわけにはいかない。
しかし当の野原一家は、
「もっといっぱい食べたかったなあ…」
などと、呑気なことを口にしているのだった。
とにかく、これ以上霊がやって来ないようにと、野原家の戸にお札が貼られることになった。近隣の人々は、その様子を興味深げに眺めていた。
とおるもその中に混じり、野原一家と坊主と札の貼られた戸を、かわるがわる見比べていた。
坊主がとおるに近づいてきて、言った。
「君は、野原さんたちの、隣に住んでるんだな。」
「あ…はい。」
「昨日、何か、変なものを見なかったか?」
変なもの。
とおるが真っ先に思い出したのは、夜中に野原家の真ん前で浮かんでいた、提灯のことだった。
「実は…」
話していくうちに、坊主の点のような目が大きく見開かれていった。
「…ありがとう。」
軽く頭を下げ、坊主はまた名主のところへと歩いていった。
そしてまた、その夜のこと。
「ううーっ、うらめしやぁ…あれだけごちそうさせといて、こんなものを……!」
あの桜田と名乗る女性が、野原家を再び訪れていた。
が、入ることができない。戸に貼られた、一見ただの紙切れにしか見えないお札のせいで。
「くっ…」
女性が手を伸ばしたが、戸に触れた途端に電流みたいなものがほとばしり、衝撃で倒れてしまった。
「くそ…奴らから、あの若者の居場所を聞き出そうと思ったのにぃ〜!悔しい!!」
地面に倒れた女性は、とうとう泣き出してしまった。
と、その時。
「大丈夫ですか?」
「えっ!?」
聞き覚えのある声に、女性は顔を上げた。
目の前に、あの時助けてくれた若者が立っていた。
「あれ?あなたは、あの時の…」
「え、ええ…こんなとこで会うなんて、奇遇ですわね。」
女性は何とか、動揺を押し隠そうとしている。
「そうでもないですよ…ここ、僕の家ですから。」
そう言って若者…風間とおるが指差したのは、野原家にくっつきそうなほど隣に建っている、小さな家であった。
探し物は、こんなに近くにあったのだ!女性は思わず笑い出しそうになった。
「転んだみたいですけど、大丈夫ですか?足にお怪我でも…」
言いかけたとおるの言葉が、ぴたっと止まった。
とおるの目は今、女性の足元に向けられていた。
本来なら足があるべきはずのところに、足がない。着物の先がそのまま続いて、次第に半透明になって、ゆらゆら揺れているのだった。
足がないのだ。
とおるの顔から、色が失せた。
女性が、にやりと妖しい笑みを浮かべた。
「さあ…参りましょうか……」
提灯が地面に落ち、同時に、光が消えた。
「………!」
坊主は何かに呼ばれたような気がして、ふと顔を上げた。
何も聞こえない。辺りはあくまで、しいんとしている。
「気のせいか…」
坊主は頭を垂れ、再び瞑想に入った。
とおるは、声にも表せないような恐怖に震え上がっていた。
ここは、しんのすけたちが前に連れてこられたのと同じ大きな家。ただ野原一家の場合と違うのは、とおるの目にはこの家の本来の姿がはっきり見えているということだった。
ぼろぼろの床。破れた障子。ところどころ穴の開いた天井。
そして………辺りを飛び交う人魂。
かちかちと歯を鳴らしながら、とおるは壁に背をつけて、できるだけ縮こまっていた。そんなことをしても何にもならないことぐらい、分かっていたのだが。
すうっと冷気が吹き込んできたかと思うと、いつの間にかあの時の女性と、その娘が目の前にいた。
笑っている。二人とも。とても嬉しそうに、満足げに笑っている。
「そんなに怖がらなくてもいいのよ。」
女性が、優しい声で言った。
「………。」
とおるは頭を抱え込み、顔をひざにつけたまま、動かない。
「もう分かってるでしょうけど…私たちは、幽霊なの。」
返事なし。
「少し昔のことなんだけど、ここには桜田家という名門の屋敷があったの。でも戦に巻き込まれて、家族も家来もみんな死んでしまった……だけど殺された無念で成仏できなくて、私と娘と、忠実な家来の一部が幽霊になって、ここに住み続けた。」
とおるは沈黙していた。顔も上げず、震え続けていた。
「でもやっぱり、これだけじゃ寂しくなってきてしまってねぇ…
仲間がほしくなってきたのよ。」
がた、と、天井が鳴った。
「でもこの前のじゃがいも小僧とその家族みたいな、下品で無礼な奴じゃ困るの。あなたは私たちのことを心配して、わざわざ助けてくれたわ。頭もよさそうだし。娘の相手にぴったりだと思ったわけよ。」
冷気が一段と増した。
「…だから、喜んで仲間に迎え入れてあげるわ。あ、それから逃げようなんて思わないでね。一応この家には、こんなに家来たちがいるんだもの。どんなに遠くへ逃げても、きっと捕まえるわよ。」
いつの間にか、とおるの周りを大勢の男や女たちが取り囲んでいた。どれも人魂を漂わせ、透明な身体をしている。
「………
……これで、全部ですか。」
「…えっ!?」
女性が、顔をしかめた。
「今何て?」
「これで幽霊の数は、全部ですかって聞いてるんです。」
「ええ…そうよ。」
いきなり何を言い出すのだろう。
とおるが顔を上げた。
笑っていた。
口が、三日月みたいな形を作って笑っていた。
「この時を待ってたんだよ………!」
「名主どの、ちょっと話があるのだが。」
「……?何の話ですかな、坊主殿?」
「実は、宙に浮かぶ提灯を、見たという若者…彼も、何か影響を受けていないかと、心配になりまして。」
「ほう?」
「そこで、まことに失礼ながら、彼の部屋を、無断で調べさせて、いただきました。」
「………」
「霊の影響や気配を、表すものは、何もなかった…でも少し、妙なものを、見つけましたよ。」
「…妙、とは?」
「畳をめくってみると、下の地面に、かなり古い、大きな赤黒いしみが、ありました。」
「………」
「それについて、もし何か、知っていることがあれば、お聞かせ願えませんか?」
「ひいぃぃぃ…」
ぼろ屋敷の中で、甲高い悲鳴が響き渡った。
「嘘よ…こんな…!」
屋敷の中は、黒で埋め尽くされている。
たとえではない。文字どおり、真っ黒な闇色で、塗りつぶされているのだ。
しかもその闇は、ざわざわと生き物のようにうねり、動いていた。
幽霊の女性は、娘を抱きかかえて、必死で窓から外へ、抜け出そうとした。
しかしその直前に、闇が彼女の身体を捕らえた。
「いやあああぁぁ………!」
叫び声が、静かに消えていく。二人は闇の中へと、呑み込まれていった。
「うーん…」
風間とおるは、さっきと同じ体操座りの格好で、壁に背中をつけ、前方の闇を見つめていた。
彼の足元から伸びる影が、部屋中に広がり、水のように流れ、屋敷を覆い尽くしているのだった。
(今回のエサは…まあまあか。前のザコに比べたら、まだマシかな………
とりあえずこれで、半年ぐらいは人間のふりをしていられそうだ。)
そう考えて、とおるはまた、声もなく笑った。
「実は…坊主様だけに、申し上げます。このことはどうか、ご内密に…。」
「うむ。」
「まだ戦が盛んだった頃の話ですがな、あそこは前から、幽霊の出る家として知られていたのです。」
「ほう…」
「そこに戦を逃れ、越してきた夫婦がありました。子供がいたのですが、親戚の家へ預けていたそうで…夫婦は幽霊など、頭から信じていないようでありました。しかし…」
「どうなったんです?」
「越してから一週間もたたないうちに…その家からものすごい叫び声が、ある真夜中にしたそうです。周辺の住人が駆けつけた時には、夫婦は顔を真っ白にして息絶えていたそうで……」
「あの血は…じゃあ……」
「あ、いえ。それは違います。二人は血を流してはおりませんでした。」
「?」
「二人の子供が、知らせを聞いて駆けつけてきましてね。まだ5歳ぐらいでしたが………家の中に入るって聞かなくて、まあ昼間だし大丈夫だろうと中に入れたんですが………いつまでたっても出てこなくてね。気になって、夕方あたりに見にいったそうですが…」
「…それで?」
「自殺していたそうですよ。匕首を使って、腹を切ってね。まだ子供だってのに…あの血は、その時のものですよ。」
「………」
「もちろん畳は換えましたが、あの床下の染みだけはどうしても取れなくてねぇ、いつまでたっても住み手がつかなくて…それにいっぺん私も見たことがあるんですが、あそこから毎夜、不気味な光が飛んだり、声が聞こえたりするんですよ。誰も来るはずがありませんわ。」
「…それでは、あの若者は?」
「それが不思議なんですよ。あの若さで一人暮らしってのも妙なもんだが、彼はここがいいって強く希望してね。どこからともなく現れて…やめた方がいいって言ったんだが、どうしてもと言ってね。ところが彼が住んでから、あの家の幽霊騒ぎがぴたっとなくなったんですよ。本人に聞いてもきょとんとするばかりだし、私たちも不思議なもんだなあと思いつつも、最近はもう忘れかかってたんですけどね。」
「あの若者は、どんな…?」
「ああ、そりゃあ真面目で勉強熱心だし、親切で評判のいい若者ですよ。ただ、たまーに夜中にどっかへ出かけていくところを見た奴があるんだが、大した用事じゃないだろうしね。すぐ帰ってくるし。ほんと、隣の野原さんとこの息子さんとは、えらい違いですよ。」
「…あっ!」
しんのすけは、彼らしくもなくびっくりした。
「あれ…しんのすけ。」
「風間くん!」
橋を渡っている途中の風間とおるのもとに、しんのすけは駆け寄った。
「今朝はどうしてこんなに早かったの?」
「うーん…たまには、思い切り早起きしてみたくなる時があるんだよね。」
「ひどいゾ、オラをおいてくなんて、んも〜!」
「ばか、気持ち悪い声出すな!!」
江戸の空は、今日も青く澄み渡っていた。
終 |