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4話 変わり始めの予兆
 いつもの様に彼が二冊の書物を同時に差し出した。

「こちらが返却する本で、こちらが借りる本です」

「はい、こちらに記入をお願いします」

 彼が十七歳だということを忘れそうになる、そんな落ち着いていて穏やかな声を心地よく聞きながら、エヴェリンは書物を受け取りいつも通りの言葉を返す。そして彼が記入し終わるのを待って、貸し出しする書物を彼に渡した。

「貸し出し期間は二週間なのでお願いします」

 笑顔でひと通りのやり取りを終えて、彼が扉に向かうのをじっと待った。

 だが、彼は動く気配を見せない。

 エヴェリンが不思議に思って口を開きかけた、その時だった。

「あの」

「はい」

 ようやく沈黙が終わり、なぜか少し安堵しながら返事を返した。

「あなたの名前を教えて頂いてもいいですか」

「え……私のですか?」

「はい」

 思ってもいなかった問いに戸惑い、それに素直に答えて良いのか分らず一瞬思考が停止する。

 それでも普段はまっすぐ見てくる彼の視線がこの時は少しだけ険しかったので、理由を問うことが出来る雰囲気ではないことをエヴェリンは理解した。

「エ、エヴェリン・シュラムです」

「そうですか。私はノルベルト……ノルベルト・ミューエです」

「は、はい」

 訳も分らないまま言葉を返す。

「では、また来週来ます」

 彼はそう告げると、いつも通りの落ち着いた足取りで扉から出て行った。

 エヴェリンはというと、思いも掛けなかったやり取りのせいで、暫くの間彼の出て行った扉を呆然と眺めることしか出来なかった。






「ただいま戻りました」

「おかえりエヴェリン」

 食堂の開いているインゴの妻であるアンネッテがエヴェリンに返事をすると、帰ってきたことに気付いた常連の客たちから口々に同じ言葉が掛かる。それを一人一人に返事をしながら奥に進むと、アンネッテが忙しそうに客に食事を運んでいた。

「おばさん、おじさん、すぐに着替えて手伝います」

「いつも悪いね、エヴェリン」

「エヴェリン、急がなくてもいいぞ」

「いいえ、大丈夫です」

 二人に笑顔で返し、奥の階段から二階に駆け上がる。

 下宿している食堂は小さいながらも安くて美味しいと評判の店で、常連客も多く食事時になると狭い店内は人で溢れかえる。初等課程の頃から、住まいを提供してくれて色々と世話をかけている礼にと、手が空いた時には食堂を手伝い始め、今ではそれが毎日の習慣になっている。

 五十を半ばまで過ぎたこの夫婦の子供たちはとうに巣立ち、帰って来ることは稀だった。エヴェリンはその子供たちが使っていたうちの一部屋を借りて住んでいる。

 親元を離れ幼い頃から一人で下宿しているエヴェリンを、この夫婦は本当の娘同様にとても可愛がってくれていた。エヴェリンにとっては、そんな二人に少しでも恩が返せるなら食堂の手伝いくらい少しも苦にはならなかった。

 エヴェリンは急いで荷物を置き、動きやすい服に着替えて食堂に下りた。

 店内は帰ってきてそれほど経っていないにも関わらず更に客が増えていて、数人が立ったまま待ちの状態になっている。

「エヴェリン、ちょうどいいとこに来てくれた。酒のおかわりを貰えるかい」

「はい、すぐに持ってきます」

 常連客に声を掛けられインゴからお酒を受け取り、それを客に差し出した。

「やっぱり、一日の仕事が終わりはエヴェリンの顔を見ないとなあ」

「そうそう、たまに店に出てない時は心配でおちおち夜も眠れないよ、なあ」

 常連客たちの言葉に笑顔で返すと、奥から鋭い声が上がる。

「ちょっと、私一人じゃ不満だって言うのかい」

 アンネッテが料理を運びながら常連客を睨み付けている。

「そりゃあ、なあ」

「なあ」

「エヴェリンもいつかは嫁に行くんだから、いつまでもそんなこと言ってられないよ」

「えっ、もう嫁に行くのかい?」

「エヴェリンも今年の誕生日で二十歳になるんだし、いつ嫁に行ってもおかしくない年なんだから」

 アンネッテの言葉に、少し焦りながら答えた。

「いえっ、全然。予定はまったく無いですし。お嫁に行くのはまだまだずっと先ですよ」

「そうかい。そりゃよかった」

 常連客の返事に、アンネッテは先ほどより更に険しい顔になる。

「ちっとも良くないよ!私がエヴェリンの年の頃は、もう結婚して一人目を産んでたんだからね。休みの日も外出せずに店の手伝いだなんて。休みの日くらい男の人と出掛けてくれた方が私としても嬉しいんだけどねえ」

 もう最後の方は呆れ口調になっている。

 そんなアンネッテに、エヴェリンは何も言えずに苦笑いを返す。

 エヴェリンとて流行に興味が無いわけではないが、見ると欲しくなってしまうのは目に見えている。買い物に行くにしても、自由になる金はそれほどありはしない。無駄な金を使うくらいならば、母への仕送りに回した方がはるかに有意義に思えるのだ。

 それ以外で外出といっても、散歩くらいしかすることが見つからない。だから必然的に食堂の手伝いになる。

「だれかいないのかい?仲の良い男の人とか、誘ってくれる人とか」

「いないですよ。だって別館には若い男の人は滅多に来ないですから」

 言いながら、今日少しだけ話をした少年のことを思い出す。

 彼はなぜ自分に名前を尋ねたのだろう。

 たった一言の短い会話を思い出し不思議に思う。

 改めて近くで見た濃茶の瞳は濁りの無い綺麗な色で、少しだけ鼓動が鳴った。

 若い男性と至近距離でお互い目を見て会話するのは学院の時以来だったから。

 いや、学院の時でさえあんなに相手の目を意識して話したことは無かった。

 彼は来週も来るだろう。

 その時はいつも通りの会話に戻るのだろうか。

「まあ、そのうちいい人が見つかるよ。エヴェリンはこんなにも可愛くていい子なんだから。あと三十歳若ければわしが貰いたいとこだけどなあ」

 客の言葉に、エヴェリンは物思いから我に返った。

「冗談じゃないよ。エヴェリンはあんたが例え若くたって嫁にはやらないよ」

「そりゃ、酷いなあ」

 アンネッテと常連客たちのやり取りに笑いながら、エヴェリンは手伝いに集中すべく厨房の方に足を向けた。






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