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02・知らぬ間のエンカウント
 こういう時足が竦むのは当然だと思う。心臓がバクバクいってるのに呼吸だけはいつも通りのペースで、パチパチと瞬きして――でも口は動かない。口の動かし方が分からず、ひたすらその獣を見つめた。背中をスゥっと汗が一筋流れる。私を圧迫する殺気に心臓が痛い。胃がムカムカして吐きそうだ。怖い、逃げ出したい、怖い。叫んで暴れて泣きわめきたい。このまま倒れて気絶してしまいたいのに一歩も動けなくて、ただひたすら食料になるのを待っているだけ。


「ぐるるるるるるるるるる……」


 サーベルタイガーというんだろうか、鋭い牙が口の中に納まりきらずにはみ出てる。あの牙で八つ裂きになって、死の瞬間が訪れるまで恐怖に身を竦めるんだろうか。もしかすると痛みで叫ぶかもしれないけど。


「来んといて――」


 一般的に、女性の方が事故や事件が起きた時すぐに理性を取り戻しやすいのだそうだ。毎月血を見ているからかもしれない。

 かの阪神淡路大震災の時も、怖いと言って部屋から逃げたがらない夫を妻が張っ倒して避難所に行ったなどというエピソードを聞いたことがある。復興後奥さんは頼りにならなかった夫に離婚届を突き出したというんだから女は強い。つまり私も強い――と思いたい。


「お母さん」


 人間が最後の時に助けを求めるのは母親にだそうだ。どこか私の冷静な部分がそんな情報を吐きだした。今役に立つかといえば、全く役に立たない。脳みそは冷静なフリして混乱してるんじゃないだろうか。


「助けて、お母さん。お母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さん……」


 ここにお母さんがいるはずもないのに、私は気付けばお母さんと繰り返していた。呼べば呼ぶほど体の感覚が戻ってくる。私――震えてたんだ、泣いてたんだ。手に持った傘がどうしてかとても心強い味方に思え、柄をギュッと握りしめる。唯一の武器に思えた。


「来ん、といてぇっ!!」


 せめてもの抵抗と傘を掲げ、ぶんぶんと振り回すつもりで振り下ろす。とたん吹き荒れる暴風、弾き飛ばされ転がる猛獣。


「――は?」


 猛獣は樹齢何年だろうという太い木の幹に叩きつけられ、口から唾液を撒き散らして悲鳴を上げる。尻尾を踏まれた犬みたいな泣き声だ。風が吹いたのは分かる、でも何で吹いたのかが分からない。こんなタイムリーに吹いてくれる風があったらとっくに私も知ってる。


「や、やったんか……?」


 風のことは一先ず置いておいて、猛獣はどうなったんだろう? 気絶したらしく全く動く様子がない。膝の震えに耐え切れず気付けば地面にへたり込んでいた。何が起こったのか、どうして助かったのか、分からない。分からないけど助かった……!


「は、はは……助かった」


 乾いた笑いが口をつく。バッタリと背中から倒れて空を見上げた。傘を上に突き出して先端が円を描くように振り回す。あの獣がすぐに意識を取り戻すとは思えないし、しばらくこうしてても良い――と思いたい。思わせてほしい。だって足が動かないんだから逃げようもないし、猛獣が幹に叩きつけられた時の音は肋骨が折れたんじゃないかってくらい凄かったから。きっと大丈夫だよ! とあるカードキャプターは「絶対」って言ってたけど私はそこまで自信がないから。死ぬんだったらほら、寝てる間に食われて絶命してるさ!


「ふー」


 傘を持つ腕を下ろしてぼんやりと空を見つめれば、真っ白な雲がゆっくりと形を変えていた。足が復活するまでと思いながら見ているうちに、私の瞼はだんだんと落ち――いつの間にか眠っていた。









 青年は森の影から溶け出るように現れた。耳の先は尖り、また人間にはありえぬ青い髪をしている。瞳の色は茶、細身の体躯はしかし筋肉が付き力強い。彼は仲子を見やり、そして獣を見た。仲子を視界に収めた時には柔らかかった目元は獣を前にすると鋭く細められる。そして足音なく獣に近づくと、気を失ってピクリとも動かぬそれを軽々持ち上げ崖から投げ捨てた。


「畜生風情が、分をわきまえず……」


 憎々しげにそう吐きだし、下方の木に刺さり絶命したそれを確認すると一つ鼻を鳴らした。彼にとってあの獣はこうされるべきモノだった。なにしろ彼が――彼らが永く待ち望んでいた存在を、恐れ多くも牙に掛けようとしたのだから。

 いつまでも死んだ獣を見ていてもつまらない。彼は平和そうにグースカ眠る仲子を振り返る。獣の毛が付いた手を打ち合わせて払うとゆっくりとした動作で彼女に近寄り膝を突いた。さっきまで殺気を前にしていたとは思えないほど安心しきった顔には苦笑を禁じ得ない。


「目覚められて良かった――」


 彼女が力に目覚めて良かった。目覚めてくれなければ一番忌避したいことをしなければならなかっただろう。せめて、せめてことが終わるまでは安全に過ごして欲しいから。

 癖のある黒髪をそろそろと撫でる。できるなら今どうにかしてやりたいが、時期が悪すぎる。彼女を迎えるのは全てが終わった後にしなければならない。


「また、今度は目覚めておられる時に」


 青年は眠る仲子に微笑みかけ、掻き消すように消えた。
あれ? そのつもりなかったのにエンカウント。いちおう、彼はすぐ出てくる予定です。彼だと分からないようにするだけで。

書いている途中でお気に入りに登録してくださった方が数名いらっしゃって、うわっしょーいマジで?! とか心の中で叫びながらタイプしてました。今日は珍しく暇な日なので書けたんだぜ、いつもは鬼のような授業が待ってるんだぜ!

感想くださると凄く嬉しい。すぐ美味しい、凄く美味しい。


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