ポップコーン
「ポップコーン」
ポップコーンみたいに弾けた。
犬が。
犬小屋に繋がれていた犬が。
夜中にコンビニへ立ち寄った帰り、今にも襲い掛かろうという猛犬の吠え狂うさまにおののき、私はただ、思わずへたり込んでいただけだった。
夜闇に爛々と輝く目は、あまりに怖かった。今にもあの鉄柵をすり抜けて、私の眼鏡ごと目玉を貪りに飛びかかってきそうなほどに。
大げさかもしれないけれど、死を覚悟した。
そしたら犬はポップコーンになった。
火の気もなく、電子レンジにネコやタマゴを放り込んだように、ボンと犬は弾けて飛び散った。焼けた肉片が、頬にへばりついていた。そのあまりの熱さに気づいたとき、頬は火傷を負っていた。
私は全速力で逃げていった。その夜のことは忘れることができない。
私に得体の知れない力があるのだと悟ったのは、二度目のできごと。
夜中、近くのコンビニに立ち寄ることが日課の私はいつものように適当な品を温めて貰い、その温もりがするマイバックを時おり頬に当てた。頬の火傷はとうに治り、ほんのりくすんでいるだけ・・・もうすっかり目立たなくなっていた。
ターンテーブルの上に赤々と照らし出されるおにぎりは、踊っているかのようだった。マイクロウェーブの円舞曲に水分子たちが踊り狂い、熱狂する。電子レンジというのは何とも不思議であり、そして昔から恐ろしく思えてならなかった。
あれは夢だと思っても、あの帰り道で犬が吠えてくることは二度と、そして今夜もなかった。あの犬は爆弾でも呑み込んでいたのだろうか。考えるほどに理解できない。
そんな風に、考え事をしていた矢先のこと。
チカッ。
私を白く洗い流すような眩しいライトに、ハッとする。原付だった。
激突する――!。
スクーターが私にぶつかることは無かった。
スクーターはポップコーンになってしまったからだ。
乗っていた男も原付も弾けてしまい、車体は赤々と溶け、男は黒コゲになったサイコロステーキよりも醜悪で凄惨な人間にも思えない何かになっていた。
熱気が揺らめき、異臭に嗅覚は殺されてしまった。それでも私の視線は反らすことができなかった。
ふと足元に転がっているヘルメットに気づき、私はおそるおそる爪先でつんと蹴り転がした。怨めしそうに睨み返してくれる首も顔もありはせず、どろどろに溶いた絵の具のようなものがこびりついていた。吐瀉物を抑えることはもうできなかった。
怖かった。怖かった。逃げた。怖かった。怖かった。怖かった。閉じこもった。怖かった。怖かった。気づいてしまうことが怖かった。
これは私のせいなのだ、と。
洗面台に映る私の瞳。赤い輪が浮かび上がっていた。電子レンジみたいな輝きがぼんやりと。この目が、きっと身の危険が迫ると無意識のうちに、そう、目に映るものを爆発させてしまうのだ。
なぜ、どうして、こんな事になってしまったのか分からない。けれども、これはバレてはいけない。この目は人殺しの眼だ。私は誰かを殺してしまった。シャワールームに飛び込んでも、異臭は拭えない。血の匂いというより焦げ臭い、焼けたタイヤやプラスチックの匂いがこびりついているようだった。
一週間、私は勤め先を休み、クビになりかけて慌てて職場へと、外へと出ざるをえなくなった。不思議と、あれだけの出来事がなにも表沙汰にはされていなかった。三面記事で見かけることもなく、噂話を聞くこともなく。
ネットを調べてみても、浅学な私では私が一体どうなってしまったのか、有力な情報など得られなかった。されとて医者に相談することも怖かった。警察に自首することも考えたものの、そんな度胸もない。
私はただ時間と共に忘却することを望み、この眼の事など忘れてしまうことにした。それにこの眼は、私自身に迫る危険を取り除いてくれる。この眼の力を知る人もいなければ、説明できない力で捕まることもない。無かったことにすればいいんだ。そうすれば、私は今まで通りの人生を歩むことができる。そう考えていた。
月日が流れて、私は一児の母となった。
旦那と幼い娘、二人に囲まれて人生は順風満帆。そう信じていた。それは娘が七歳になった春の頃――。
巷では少しずつ、私のような特異な人間の噂がささやかれ始めていた。あれ以来、私の力が発現することは無かったというのに。そして悪夢は蘇った。いや、因果応報というものかもしれない。
ある日、些細なことから旦那と大喧嘩になった。娘を寝かしつけた後のことだ。二人して軽く酒が入っていたせいもある。険悪な夫婦仲でもなし、本当だったら三日もすれば仲直りできるはずだった。なのに――。
拳を振り上げ、大声で頭の中を切り裂くように旦那は怒鳴りつけた。あんなに優しい夫が、とても怖かった。怖くて、怖くて、たまらなくて・・・。
私の瞳は旦那のことを凍りついた眼差しで涙を流し、見上げていただろう。そして赤い輪がぼんやり浮かび上がっていたに違いない。そのとき、私は心臓の異常な高鳴りを感じていた。
そしてポップコーンが跳ねた。
私は言葉することができなかった。七年連れ添った大切な人が、ほんの一瞬のうちに灰燼に帰した。ポップコーンの屑が私の服や身体にへばりつき、しゅうしゅうと煙を上げるようだった。
私が殺した。わたしが死なせた。わたしが――。
なぜ。なぜ。どうして。怖い。怖い。怖い。逃げたい。逃げたい。コワイ。怖いこわいコワイこわい怖いコワゐこわ――。
「ママ」
七歳になる娘が眼を擦り、私のことをママと呼んだ。
鈍痛が金槌で殴られたように頭へ響く。見られた。娘に。なにをどうせつめいしてわたしがパパをころしわたしがあなたをころしたころしたころした怖いコワゐ逃げたい逃げたいコワイこわい子ワイパパをころし――。
娘の無垢な瞳が、怖かった。こんな私のことを愛してくれている、信じている、ママと呼んでくれる娘を裏切ることが怖かった。とても、とても――。
そして娘もポップコーンになった。
もう何も考えられなかった。記憶も匂いも熱もポップコーンのバスケットをぶちまけたように散らかってしまった。一つ一つ拾い上げることはもう二度とできない。私という喜劇映画に終止符を打つべき時がやってきたのだ。
今、私が一番怖いものはたった一つだけ。
私は鏡に映る“私”の赤い瞳に、恐怖した。私より怖いものなど何もない。
私もまたポップコーンになる――。
――了――