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皇帝と赤い服の男
作:矢車



【7】


  
 「君に伝えるべき事は」赤い服の男は指を二つ立てた。「二つある」
 狭い衛兵の控え室。窓は開いていなかったが、まるで北風が吹き込んだかのように、周りの気温がグッと落ちたように感じた。窓から、月の光が零れ落ちている。
 「なんだ?伝えるべきこと、とは?それに、二つも?」
 ナポレオンは何とはなしに唾を呑んだ。男は、言った。
 「一つは世俗の話。もう一つは君自身の話、だ。どっちから訊きたい?」
 どっち、だと?
 ナポレオンは少し悩んだが、答えた。
 「世俗の話、とやらを先に聞こうか」
 ナポレオンにとって、自分の話など興味のあるものではない。ナポレオンに興味があること、それは「自分自身のこと」ではなく、「自分が世の中に何を為すか」なのだ。そして、ナポレオンは好物を先に食べる性質である。つまり。
 ナポレオンは、訊きたい話題を、先に所望したわけだ。
 「さすが、だね」
 赤い服の男は、笑顔を見せた。
 「何が、おかしい?」ナポレオンは少し苛立ちながら訊いた。
 「ああ、いや失礼」男は笑いを抑えて言った。「君なら、そう言うと思ったのだ。自分のことより、はるかに周りのことに興味があるのだからな」
 「はやく」ナポレオンは苛立ちを隠さず、言った。「話を進めてくれないか」
 「おお、悪い悪い」赤い服の男は呑気に手をポン、と叩いた。まるで、今気づいた、と言わんばかりに。そして男は、話を切り出した。
 「ネルソン、って知っているか?」
 ナポレオンは頭をひねった。「知らんな。地名か?人名か?」
 すると、男は奇妙な顔をした。「呑気なものだな。これから君と闘うであろう、イギリスの軍人の名だ」
 「何?!」思わずナポレオンは身を乗り出した。
 これから闘う国の軍人の情報。一軍を預かる将軍にとっては、喉から手が出るほど欲しい情報である。
 「だが・・・・・・」フランスの一軍を預かる我輩が、なぜイギリスの海軍軍人の名を知らぬ?ナポレオンはさらに首をかしげた。
 「まあ」首を傾げるナポレオンをなだめるように、男は言った。「まだソイツはせいぜい戦列艦の艦長だからな」
 ナポレオンは拍子抜けした思いであった。
 戦列艦の艦長、と言えば、陸軍に換算すればせいぜい500人を率いる部隊長くらいのものだ。そのくらいの将、地中海にごまんといる。
 少なくとも、数万の兵を率いる立場になったナポレオンにとっては、取るに足らない塵芥、小物の将でしかあるまい。
 だが、ナポレオンは不安になった。この、赤い服の男がわざわざ言上げする程の男なのだ。もしかしたら、それは、我輩を脅かす存在なのかもしれない。
 「そう。察しの通り」赤い服の男はナポレオンの顔を覗きこみながら言った。「君を脅かす存在だ」
 赤い服の男は、その男について語り始めた。
 「なかなか、果断な男でな。ある意味、君とは好対照だな。彼の戦ぶりを見たことがあるが、なかなか強引、かつ蛮勇。君の戦ぶりを騎士の戦い方と喩えるのなら、彼の戦ぶりは・・・・そうだな、ゲルマン戦士の戦い方、とでも言えようか。
 とにかく、伸るか反るかの戦を張り、カンで戦場を渡る、そんな男だ」
 「ふん、そんな暗愚な将、恐るるに足らんな」ナポレオンは、そんなネルソンを一蹴した。
 緻密な作戦を重ねに重ね、その上に砲台や城を築き、さらにその上に兵士を乗せて闘うナポレオンにとって、そんなネルソンの戦い方は「蛮勇」でしかないのだ。
 しかし、このナポレオンの感覚はある程度しょうがないことでもある。
 そのナポレオンの発想は、「陸軍軍人」としてのものであるし、一方のネルソンのそれは「海軍軍人」のものなのだ。
 陸における戦争、というのは有史以来の積み重ねがあり、それによりある程度の予測や定石というものが確立されている。それに、陸戦における兵力の最小単位は「人」であるから、すぐに補充が利く。それがため、長期化するのも特徴である。そういう長期化した戦争には、「緻密な作戦」が生きるのである。
 だが、海戦、というのは、当時陸戦ほどの積み重ねが無かった。また、兵力の最小単位が「船」のため、補充があまり利かない。つまり、どうしても海戦は短期決戦になってしまう。そういう環境では、そもそも「緻密な作戦」を立てることが困難であるし、やはり「カン」のようなものに頼る部分も多かった。
 おそらくネルソンに、ナポレオンの戦争観を話せば、鼻で笑って一蹴することだろう。「戦争は、伸るか反るかの博打みたいなモンだ!」などと言って。
 「まあ、そう言うな」赤い服の男はそんなナポレオンをなだめた。そして、続けた。
 「だが、コイツは本当に怖いぞ。
 ・・・・・ヤツは、頭も回る。頭がよく、その上フットワークも軽い・・・・・、この上無く強い」
 バカな。我輩の緻密な作戦を破れるか、と言おうとしたナポレオンだったが、話が平行線になるのを恐れて、心にもない言葉を吐き出した。
 「・・・・・そうか。胸に留めておこう」
 「ああ」赤い服の男は、少し不服そうに声を上げた。
 「そう言えば」ナポレオンは思い出したように訊いた。「もう一つ、我輩に助言があるのではなかったか?」
 「ああ」思い出したように、赤い服の男は声を上げた。「そうそう。あるある。忘れてた。とは言っても、たった一言なんだけれどね」
 ナポレオンとしてはどうでも良い話題ではあるが、一応訊いておこうという気分になったのだ。
 男は、ナポレオンの方を見ると、一言言った。
 「一度の敗戦くらいで、歴史の表舞台から去らないでおくれよ?ナポレオン=ボナパルト将軍?」
 そう言い終わると、男は指を鳴らした。すると、男から強烈な光が発せられた。
 「な!?これは!?」ナポレオンは目を細めた。
 光の中で、確かに男は笑っていた。その男特有の、人懐っこい笑顔で。だが、そんな光景も、一瞬で光に塗りつぶされ、完全に真っ白になってしまった。そんな真っ白な光景の中、男の声が響いた。
 「また会おう」
 次の瞬間には、さっきまでの部屋に戻っていた。ただ違うのは、さっきまでこの部屋にいたはずの赤い服の男が消えうせている、という点だけ。
 部屋には、目を大きく見開きその場に立ち尽くすナポレオンと、グーグー寝息を立てる衛兵達の姿が、月光に照らされていた。
 「あ、あれ?・・・・・ん・・・・、な、将軍閣下!!」
 やがて、衛兵たちも目を覚ました。ナポレオンは、「居眠り」をしでかした衛兵達を見渡した。ナポレオンに居眠りを見られた衛兵達は、バツが悪そうに視線を泳がせている。
 だが、ナポレオンはそんな衛兵達に、優しい言葉を投げかけた。
 「君達、職務怠慢はよくないな。・・・・・だが、今日は気分がいい。今日のことは目をつぶろう」
 そう言って、眠い目をこする衛兵達がたむろする部屋を後にした。
 だが・・・・・・。ナポレオンは思った。なぜ我輩は気分がいいのだ?
 今日あの男がした話は、到底いいものではなかった。特に二番目の話など、暗に敗戦を示唆するような内容だった。いつものナポレオンだったら、机を叩いて反論するか、いつものようにくよくよと悩んでいたことだろう。
 だが、なぜか気分がいい。
 ナポレオンは、比較的軽い心と足取りで、自らの執務室に入っていった。












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