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皇帝と赤い服の男
作:矢車



【6】


  
 赤い服の男は言った。「私に、不可能は無いよ。例え、ここがフランスで一番警備が厳しい所であったとしても、だ」
 ナポレオンは思わず人を呼ぼうと、手を叩こうとした。
 宮殿に無断侵入する輩など、怪しい以外の何物でもない。しかも、今ナポレオンの目の前にいる男は、ナポレオンと顔見知りだ、という点に目をつぶれば、ロココ様式のフロッグコートに白いタイツ、それにカツラという、明らかに革命政府とは一線を画しているということをいでたちで示したような男だった。
 未だ、フランス国内には国王を、いや、正確には王政を支持する連中も多いのだ。
 だが、ナポレオンが手を叩くより一瞬早く、赤い服の男は指をパチンと鳴らした。
 「な、何を・・・・・」
 ナポレオンが訊くと、男は不敵な笑みを浮かべて答えた。
 「う〜ん、邪魔者が入ると面倒なものでね。ちょっと眠ってもらった」
 「な!?バカな!」
 ナポレオンは、手を叩いた。いつもの手はずなら、隣の部屋に控える衛兵が将軍であるナポレオンを助けにやってくるはずだ。しかし・・・。
 手を叩いた音が響くばかりで、衛兵がやってくる様子は無かった。
 男は、言った。
 「な?だろ?」
 ナポレオンは思わず部屋から飛び出した。そして、暗い廊下の左右を見渡す。だが、いつも真面目に警備しているはずの兵士たちはその定位置で崩れ落ちている。
 「おい!大丈夫かね!!」
 ナポレオンは兵士の一人を揺さぶった。だが、兵士はナポレオンの揺さぶりに反応せず、頭は揺さぶりに任せるがまま揺れる。
 毒でも盛ったのか?ナポレオンはそう思った。だが。
 ぐー、ぐー。
 幸せそうな、兵士のいびきが廊下に響く。赤い服の男の言うとおり、兵士たちはよだれを流して眠っている。
 「な?言っただろ?」
 ナポレオンは何だか怖くなり、隣の衛兵の控え室に駆け込んだ。「やれやれ・・・・」とつぶやく男の言葉を背中で聞きつつ。
 控え室に、まるで転がり込むように入ったナポレオンは、振り返り、ドアに鍵をかけた。
 「衛兵!なにして・・・・・」
 ナポレオンは、さっき生じたばかりの恐怖の八つ当たりを、衛兵にぶつけようとした。だが、それは叶わなかった。
 衛兵達も、ある者は地面に崩れ落ち、またある者は机に突っ伏したりして、眠りの世界に溺れていた。
 ナポレオンは、アゴがカタカタ震えているのを自覚していた。
 こ、怖いのか?我輩が、あの男を、恐れているとでも?バカな。我輩はフランス救国の英雄・・・・・。
 「ナポレオン=ボナパルト、だろう?」
 ナポレオンの後ろには、あの赤い服の男が立っていた。馬鹿な!さっき鍵は確かに掛けたはず・・・・・なのになぜ・・・・・。恐怖で震えるナポレオンの後ろで、男は続けた。
 「あのコルシカの少年が、まさかここまで成りあがるとは・・・・・。おめでとう。よく、あのフランス革命の嵐を切り抜けた」
 恐怖で震えるナポレオンは、言葉が出なかった。男は続ける。
 「だが、君の正念場はこれからだ。これから君は、大きな決断に迫られるだろう。だが、迷ってはいけない。次の場面では、果断さが大事だ」
 「か、果断さ、だと?」ようやく口から出た言葉がそれだった。そんなナポレオンの言葉に、男は恭しく頷いてから続けた。
 「君は悩んでばかりだ。その結果、君は胃を痛めている」
 ナポレオンは、出し抜けに射抜かれたような気分になった。
 ナポレオンという将軍は、「綿密に計算された戦争」をモットーにしていた。必ず勝てる戦法、必ず勝てる戦を志向した。それは、完璧主義とも言い換えできるだろうが、それは将軍としては致命的な個性であった。というのは、戦争というのはいくら万全を期したとしてもなお負けることがあるからである。逆に、まったく策を練らずとも、ものの弾みで勝ってしまう事もある。戦争というのは、多分に博打性が高いもので、戦を操る将軍たちもある程度「戦争の博打性」を理解しておらねばならない。戦争という巨大な事業において、全ての不確定要素を把握できるほどには、人間は頭が良くは無いのだ。
 ナポレオンという将軍は、その不確定要素をすべて掌握しようと努め、その結果胃を病んだのである。
 「だ、だまれ!私の行なってる戦は、負けることが許されない戦なのだ!」
 ナポレオンは、急に痛み出した胃をさすりながら言った。だが、男は笑った。
 「ああ、今までは、な」
 「い、今までは、だと?」ナポレオンの顔は疑念と恐怖の入り混じった、妙な顔になった。
 すると赤い服の男は指を立てて、言った。
 「ああ、君がこれまでしてきた戦は、祖国を守る戦だった。確かに、そういった戦争では負けは許されない。負ければ、すなわち亡国だからだ。
 ・・・・・だが、今君が頭の中で思い描いている戦は、直接的に祖国を守る戦ではあるまい?」
 思わず目を瞠るナポレオン。
 なぜこの男は、我輩の次の一手を知っている?いや、カマをかけているのか?
 ナポレオンの頭の中には、そんな疑念がぐるぐると荒れ狂う竜巻のように渦巻いていた。
 男は続けた。
 「君が次に狙うのは、エジプトだろう?
 だが、フランスにとってエジプトは、領土ではない。そういう戦なら、負けても問題はないだろう?」
 男の言うとおりだ。
 エジプトを封鎖できればイギリスの通商に大打撃を与える事ができる。確かにそれは、未だにフランスの目と鼻の先で影響力を持つイギリスへの牽制の意味を持つ。だが、牽制できなかったところで、本国が決定的な打撃を受けるわけではないのだ。
 だが。
 ナポレオンは吼えた。
 「我輩には負けは許されん!!いや、我輩自身が許さん!」
 ふ、と赤い服の男は笑った。そして、言った。
 「ならば、必ず負けぬ、と叫び続けるといい。ならば、君が負けることは無いだろう」
 「・・・・・それだけ言いに来たのか?」ナポレオンは訊いた。
 「あ〜、いやいや、違う違う」男は手を振って否定した。「君の耳に、入れておきたい話がある」
 我輩の耳に?なんだ?だが、・・・。
 この男の話ならば、有用なものにちがいない。そう、なんの確証もなく思うナポレオンなのだった。












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