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皇帝と赤い服の男
作:矢車



【5】



 ナポレオンが、後に権力を手に入れるまでの道程において、「フランスの本国に移住した」という出来事は、非常に大きなものだった。
 まず第一に、ナポレオンの前に「軍人」としてのレールが敷かれたことが大きい。
 彼はフランス本国に移住してから、まず修道院付の学校に、やがて陸軍の仕官学校に入学した。このことが、ナポレオンの一生をある程度決定する事になる。少なくとも、物を売ったり畑を耕して生きるという生き方ではなくなった。
 だが、それ以上に、「革命前夜のフランス」の空気を思いっきり吸ったこと、それがナポレオンの人生にとって大きな出来事であったろう。
 コルシカ島でも、理由のない「国王憎し」の声はあったが、そこまで大きいものではなかった。だが、花の都パリでは、もっとその声は声高だった。
 最初はナポレオン ―この頃には、己の名前をフランス風に“ナポレオン=ボナパルト”と変えていた― にも、その理由はわからなかったが、そのうち、ここまで王が嫌われている原因が見えてきた。
 それは皮肉にも、フランス貴族のサロンで醸造された思想の所為であった。
 ルソーやヴォルテールといった「啓蒙思想家」の思想が、まるで伝染病のようにフランス労働者に広がり、蔓延していたのだ。啓蒙思想家たちは「国の主権は国民にある」という論を並べた。それを聞きかじった労働者たちは、王政に対して不満を抱いていたのだった。
 そして、そんな不満が、ナポレオンの目前で爆発した。
 1789年、バスティーユ監獄の襲撃が起った。いわゆる、フランス革命の始まりであった。この頃には軍人として働いていたナポレオンであったが、革命軍に合流した。ナポレオンとて、やはり当時の「熱病」には勝てなかった。「啓蒙思想」という熱病に、皆と同様、ナポレオンも浮かされていたのだ。
 ナポレオンは、このフランス革命の嵐に自ら飛び込んでいった。まるで、上昇気流に乗ろうとする鳥のように。
 だが、その上昇気流は、ナポレオンを上に上げてはくれなかった。
 この時期、ナポレオンは見事に雌伏の時を過ごしている。革命運動がばれて逮捕されコルシカに隠棲することになったはいいが、もはやコルシカにはナポレオンの居場所はなかった。すぐにマルセイユに移らざるを得ず、そこで嵐が過ぎ去るのを待ったのだ。
 だが、この雌伏も結果としては良かったといえる。
 フランス革命の最初期の混乱で、多くの人間が死んだ。歴史に「もしも」はないが、もしこの時期にナポレオンが頭角を現していたなら、ナポレオンはこの時代に多くの人間の生き血を吸った処刑具、ギロチンの刃にかかって死んでいたことだろう。
 この時代に、首が胴体から離れなかった事、それこそがナポレオンの幸運といえる。
 むしろ、ナポレオンを歴史の表舞台にのし上げたのは、フランス革命に反発した諸国と、フランス政府の戦争である「フランス革命戦争」であろう。
 フランス軍は弱かった。それは、革命軍側に優秀な将官がいなかったからなのだが、それによってナポレオンにもツキが回ってきたのだ。
 元々優秀な将官で、砲兵だったナポレオンは革命軍の中でメキメキと頭角を現した。
 トントン拍子で出世を続け、気がつけばイタリアの遠征軍のトップにまで登りつめた。この当時、弱冠27歳である。
 だが、ナポレオン率いる革命軍は連戦連勝、イタリアと休戦条約を結ぶまでに大活躍し、さらにはオーストリアも屈服させた。この大活躍で、ナポレオンは一躍祖国の英雄とまで呼ばれるようになった。
 そんな、「祖国の英雄」ナポレオンの前に、赤い服の男は、何の前触れもなく現れた。

 その時は夜だった。カンテラに火をともし、地中海の地図を眺めながら、黒い軍服姿のナポレオンは唸っていた。
 「イギリスの力を押さえ込まないことには・・・・・この戦争、勝てんぞ」
 ナポレオンは、地図に浮かぶグレードブリデン島を、苦々しげに眺めた。
 そうなのだ。イタリアとオーストリアを落としただけではこの革命戦争は勝てないのだ。いや、オーストリアが抜けた意味は大きい。実質、この革命戦争の主役はオーストリアなのだ。だが、イギリスがまだ諦めていない。イギリスが孤軍奮闘しているのだ。
 イギリスを撤兵させないことには、革命戦争に勝ったことにならないのである。
 「何か無いか・・・・・何かいい手は・・・・・」
 イギリスを撤兵させるいい方法。それを考えるナポレオン。だが、何度考えても、一つしか思い浮かばなかった。
 「エジプトを陥落る、これだな」
 ナポレオンは、地図の上のエジプトを指差した。
 当時、イギリスはインドを植民地にしており、インドとの交易が国益につながっていた。その交易の際に、イギリスはエジプトを経由していたのだ。
 つまり、エジプトを封鎖すればイギリスの通商破壊が出来る。そうすれば、少なくともイギリスの国勢を弱める事ができる。運がよければイギリスの影響力を、地中海から締め出すことも可能かも知れない。さらに、エジプトを支配下においておけば、様々な布石にもなる。考えれば考えるほど、エジプトは陥落させておくべきだ。
 不意に、風がナポレオンのいる部屋に吹き込んだ。
 「ん?我輩、窓を開けておいたか?」
 そうつぶやきながら振り返ると、そこには赤い服の男が、あの頃と全く変わらない姿で、立っていた。
 「ああ、君は窓を開けていない。何せ、私が開けたのだから」そう言って笑う赤い服の男の後ろでは、窓が風に吹かれてキイキイ鳴いていた。
 ナポレオンはわが目を疑った。目の前には、あの頃と全く変わらない男の姿。
 あの男、まさか、あの男か!?でも・・・・・。
 ナポレオンは男の顔をまじまじと眺めた。
 なんで、こいつ、歳を取っていない?
 そう。赤い服の男は全く歳を取っていなかった。初めてこの男に会ってから20年以上経っている。その20年の時の流れは、ナポレオンを子供から青年にした。だが、この赤い服の男は、時の流れというくびきから逃れたように、全く歳を取っていない。どういうことだ?
 「はっは」男は笑った。「なぜ私が歳を取らないか、不思議かね?」
 それはそうだろう、とナポレオンが言うと、また男は笑った。
 「いつぞや話したと思うが」男は言った。「私は死なない」
 「ふん、まあいい」ナポレオンは疑念をとりあえず飲み込んでからそう言うと、椅子に腰掛けた。「ときに、どこから入ってきた?」
 男は、客用の椅子に腰掛けて言った。「いや、あの窓からパッと」赤い服の男は親指でキイキイ鳴る窓を指した。
 「そうじゃない」ナポレオンは続けた。「この部屋に、ではない。この建物に、どうやって入った?」
 ナポレオンが今居るのは、リュクサンブール宮殿という宮殿の一室である。
 普通、こういう「宮殿」と名のつく所は大変警備が厳しい。それこそ、「猫の子一匹」侵入させないはずなのだ。
 事実、このリュクサンブール宮殿はものものしい警戒態勢をしいている。これなら「猫の子」どころか「ネズミの子」すら通さないのではないか、と思わせるに充分なほどである。
 赤い服の男は笑った。












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