皇帝と赤い服の男(4/20)縦書き表示RDF


皇帝と赤い服の男
作:矢車



【4】


 「な、な、な?!」
ナポレオン少年は、自分の左胸を、まるで生まれて初めて見るものを見るかのように、まじまじと眺めた。思わず右手で触ってみても、そこには傷などない。当然、鍵穴などあろうはずもない。そんなナポレオンを見下ろしながら、男は言った。
 「これで君は、己の運命に負けない人間になった。君は、国中の人が己の運命に流される中で、唯一運命を変えることが出来るようになったんだ。だが、自分の運命を変えられるかどうかは」赤い服の男はアジャクシオの街を眺めて言った。「君にかかっているんだ」
 「え?ぼ、僕に?」ナポレオンが訊くと、赤い服の男は答えた。
 「自分の運命を変えられるのは、自分だけ。・・・・・だって、他人の人生を変えてあげられるほどには」男は続けた。「人は他人に興味がない」
 「そういうものなの?」
 ナポレオンが訊くと、赤い服の男はニコっと笑って言った。
 「そういうものさ」
 また、風が吹いた。そして、ナポレオンの頬をかすめ、男の赤いフロッグコートを揺らす。風は、まるで鏡のようになめらかな水面みなもに石を落として出来た波紋のように、コルシカの木々を揺らして、去っていった。
 「さて」と前置きして、男はう〜んと伸びをした。「もう、行くよ。じゃあな、少年」
 そう言って、赤い服の男は、アジャクシオに向かう下り坂を、トロトロと下りていった。
 そんな様子を、少年ナポレオンはただただ目で追った。

 その夜、眠れなかった。
 なぜかは判らない。だけど、まるで祭の前夜のようにワクワク感に襲われ、なぜか眠れない。なんだ、これは。ナポレオン少年は、その日は眠れなかった。
 いや、眠れなかったのはその日だけではない。その日から、夜という、本来眠るはずの時間に眠れなくなってしまったのだ。
 だから、ナポレオンは昼寝を取るようになった。コルシカにいる頃には、散歩の途中に寝転がって昼寝をするようになった。
 後世、「一日三時間しか眠らない」という伝説で語られることになるナポレオンであるが、実はそれは日々の「昼寝」によって成されたものだった。
 だが、それ以上に変わったことがある。
 あの赤い服の男に出会う前のナポレオンは、どこかボーっとしたところのある少年だったが、あの日を境に急に聡明な子供になった。ナポレオンの周りの者たちが、「あののんびり屋が」と目を瞠るほどの変化だった。
 あの日を境に、ナポレオンは「真実を見抜く」力がついたのだ。
 例えば、パン泥棒の居場所をピタリと当てて見せたことがあった。「あそこの炭小屋のなかだよ」と。
 だが、ナポレオンに言わせれば、「あのパン屋さんは人の往来が多いから、きっと犯人は裏道に抜けたはず。でも、裏道にも人の往来はあるから、きっと犯人は近くにいるはず、という推論だよ」とのことだった。けれど、子供の推論にしては鋭いのだ。
 急に神童になったナポレオンに、周りの者は戸惑った。だが、ナポレオンの父だけは皆とは違う反応を見せた。
 父は、その日からナポレオンに読み書き計算を教えた。
 父としても、ただの戯れのつもりだった。「神童も、勉強させればただの人だろう」と皮肉を言って笑いながら、勉強を教えた。
 だが、そんな父の予想は外れた。
 ナポレオンは教えること教えること、全て吸収していった。まるで砂漠の砂が水を吸うように。特に、数学などはすぐに父の手に負えないほどに成長した。
 だが、字は下手だった。「はっは、神童でも出来ないことがあるのだな」と、ナポレオンの周りの人々は口々に言った。
 だが、父は気づいていた。ナポレオンが悪筆なのは、字が下手だからではないことに。
 父は近しくナポレオンの様子を見ていたからわかるのだ。
 ヤツが悪筆なのは・・・・父は思った。
 ヤツが悪筆なのは、字が下手だからではなく、手が、頭で考えていることに追いついていないからだ。つまり、ナポレオンの頭の回転が速すぎて、筆が追いついていないのだ。
 このことに気づいてから、ナポレオンの父は、己の息子に期待を持つようになった。そして、こう思うようになった。
 “この子を、コルシカの地主の冷や飯食いで終わらせてはならない”
 ナポレオンの父は、フランス本国へ移住する決意をした。
 元々、そういう話はあった。本国のある貴族が、「もし本国に移住してくるなら、本国でも身分を保証する」という旨の通達をよこしてきたのだ。これは、コルシカ独立運動のナンバー2であるナポレオンの父を切り崩す、本国の工作であろう。この話、どう転んでも父にはどうでもよい話だった。たとえコルシカに残っても地元の名士、本国に渡っても下級貴族。どっちにしろ、あまり栄達に興味のない父には興味の持てる話ではなかった。
 だが、「神童」ナポレオンの出現により事情が変わった。
 本国に渡れば、爵位をもらえる上、ナポレオンを、当時髄一の学校に通わせることができる。ヤツに、然るべき道を与えれば、もしかしたら・・・・・。
 そう思い至ってからの、父の行動は早かった。コルシカ独立運動のメンバーには「本国の様子を偵察する」という苦しい名目を押し通し、引越しの準備を進めた。
 そしてナポレオンは、生まれ故郷コルシカ島を後にした。












ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう