【20】完結
不意に、思い出したように赤い服の男は口を開いた。
「ああ、そうだ。君に、訊きたい事があるのだが」
紅い太陽をじっと眺めていたナポレオンは、男の方に向き直った。「我輩に聞きたいこと?何だそれは」
赤い服の男は続けた。「魔法をかけた人間に、二つ質問をするようにしているのだ。答えてくれたまえ」
ナポレオンは言った。「立て込んだ質問に答えるのはイヤなのだが」ナポレオンはコホンと咳払いをした。「あなたの頼みだからどんな質問も受けよう」そう言って、ナポレオンは笑った。
すると、赤い服の男は、振り返って言った。「まず、一つ目の質問。君の人生は、楽しかったか?答えてくれ」
ナポレオンは考えた。恥辱にまみれた我が人生。だが、一人の人間の手には余るほどの栄光。そして、英雄、名将としての名声。人一倍地獄も見たが、人一倍の天国も見た気がする。いや、あるいは、人一倍の天国を見たが故に、地獄の淵を深く感じたのかもしれない。
ナポレオンは答えた。「・・・・・・楽しかった、のだろうな」
そんなナポレオンの言葉に、いささか意外そうな顔をした赤い服の男だったが、すぐにまた口を開いた。
「そうか・・・・・・。では、もう一つ。君の人生は、幸せだったか?」
しあわせ、とナポレオンは口の中で口ごもった。ナポレオンにとって「幸せ」という言葉は、自分の人生にまるで関わりの無い言の葉のように思われた。
我輩の人生は。と、ナポレオンは思った。結局、栄光と挫折だけ。その二者のシーソーゲーム。それが我輩の人生だったのではないか、と。楽しい人生ではあった。だが、それが「幸せ」と呼べるものだったか、とふと問われれば、その答えに窮してしまう。
結局のところ、「幸せ」というのは、自分でラインを引いて決めるものでしかない。きっと、ナポレオンはその作業を怠ってしまったのだろう。普通の人なら、「妻がいて、子がいて、それで生活できているのだから幸せだ」と、あるラインで納得しようとするのだが、ナポレオンにはそんな感覚は無かった。というより、数奇な人生を送る間に、そのラインを引く作業を忘れていたのであろう。
そんなナポレオンは、こう答えるしかなかった。
「・・・・・・「幸せ」の意味がわからないな、我輩には」
すると、赤い服の男は、さらに意外そうな顔を見せた。
「ん?なんだ?我輩、おかしなことを言ったのか?なぜ、そんな顔を?」
ナポレオンがそう訊くと、赤い服の男は仰々しく答えた。
「いや、君は随分と変わっているな、と思ってね」
何がだ?とナポレオンが訊くと、赤い服の男は続けた。
「普通、この二つの質問をするとね、みんななぜか同じ答えをする。だが君の答えは、その答えとはいささか違う傾向を示したものでね。やはり、それは鍵の力かな?」
「普通は、なんと答えるのだ?」
ナポレオンは訊いた。すると、赤い服の男は指を立て、言った。
「普通、前者の質問には『いいえ』と答え、後者の質問には『はい』と答えるよ」
はは。思わず、ナポレオンは嗤った。普通の人間は、「人生は、おもしろくはないが、幸せなもの」と考えているということか。我輩とは、全く逆だな。どっちのほうが人生の歩み方として楽しいのかはわからないが、本来歩むはずだった人生、「幸せな人生」も歩んでみたかった、と「楽しい人生」を歩んだはずのナポレオンは思うのだった。
「さて、と」赤い服の男は、足をゆるゆると動かし始めた。
「行くのか?」そうナポレオンが訊くと、赤い服の男は答えた。
「ああ、もう行く。私は世界を歩む。永遠の時を歩む。そして、私は進む。世界がどうなろうとも、私には知りたいものの答えがどこかで待っている。だから私は行く。その結果、人間世界に、どんな災いを招いたとしても」
赤い服の男の姿が、なぜかおぞましいものに見えた。しかし、その姿はナポレオンの以前の姿に他ならなかった。ナポレオンは己の栄達のため。そして、赤い服の男は「知りたいものの答え」を知りたいがため。だが、その根っこにあるものは、違うようでまったく同質のものなのだ。
ナポレオンは思わず思った。可哀想な男だ、と。
「あ、そうだ、忘れてた。魔法を解くのを忘れてた」
ナポレオンの哀れみに気づかず、赤い服の男は、どこまでも明るい声を発した。そして、右手の指を鳴らし、パチンという音を響かせた。
「なにをしたのだ?」ナポレオンがそう訊くと、赤い服の男は答えた。
「ああ、皆を眠らせていた魔法を解除したのだ。だからきっと、そろそろ皆目覚めるだろう」
「ああ」ナポレオンは手をポンと打った。「だが、すごいな、あなたの魔法は」
すると、赤い服の男はキョトン顔を見せ、そして言った。
「いやいや、今の魔法は君の魔力によるものだよ」
「は?」今度はナポレオンがキョトン顔に変わった。すると、赤い服の男はカラカラと笑った。
「いや、人を眠らせるあの魔法はね、君の魔力を流用して行なっていたものだ。私はさる理由で魔法を使えないのだ。だから、君の魔力を無理矢理に使わせていただいていたのだ。ただ、他人の魔力を使うためには、相手の息がかかるほどに近づかないとならないからね」
ああなるほど、とナポレオンは思った。いつぞやのことだったが、赤い服の男は強行突入してきたことがあった。かつてのように人を眠らせる魔法を使えばいいのに、と当時は思ったが、そういうことだったのか。
不意に、赤い服の男は振り返った。そして、言った。
「すまんな、ナポレオン=ボナパルト閣下。私は、君の人生を心ならずも弄んでしまった。許してくれ」
謝罪の言葉、結局はそれだった。そんな男を、ナポレオンは笑い飛ばした。
「バカ言うな。そもそも、君は」ナポレオンはキッパリと言った。「後悔してはいけない。なぜなら、君は、歴史上で太陽のように輝く人間だからだ」ナポレオンは、自分に浴びせられた言葉を、赤い服の男に返した。
すると赤い服の男はカラカラと嗤い、言った。
「いやあ、君は聡明だ。その聡明さは、鍵とは関係ないらしい。・・・・もしかして、鍵には、人間の隠れた力が発現する、という隠れた力でもあるのかな?」
ナポレオンは、フ、と微笑んで、静かに言った。
「決まっているだろう。我輩は、ナポレオン=ボナパルトである。ナポレオン=ボナパルトは、この頭で戦場を駆け回り、立ち回ったのだよ」
「はは、そうだったな」赤い服の男は、ナポレオンと顔を見合わせて、クスクスと笑った。
その合間、呟くように、赤い服の男は言った。「私もまた、後悔をしてはならないのだな」けれど、その言葉はナポレオンには届かなかった。
そして、赤い服の男は、ナポレオンに手を振ると踵を返し、宵闇が迫るセント=ヘレナ島の海岸に消えた。ナポレオンはそんな赤い服の男の長い銀髪を、ずっとずっと目で追いかけていた。
赤い服の男の来訪から三日後、ナポレオンは死んだ。コルシカの、高台への道を思い浮かべつつ、死んだ。天国に続くような、長く天に続く道を、ナポレオンは夢うつつの中登っていった。
そしてヨーロッパは、彼の死の報を笑顔と安堵のため息で迎えた。皆が皆、ナポレオンの死を喜んでいるはずなのに、離れて見れば、それはまるで「ナポレオン」という人間を悼んでいるようにさえ、見えた。
さて、この話の結びとして、「ナポレオンのデスマスク」を紹介しよう。
ナポレオンが死んだとき、たまたまセント=ヘレナ島に居合わせたある医師が、「この偉大なる巨大な人間の死に顔を、何としても写しておかねばなるまい、そうでなくばそれは大きな歴史的な損失となる」という使命感のようなものに駆られ、その死の二日後に取られたものだという。まったく奇特な人もあったものだが、その医師のおかげで、ナポレオンという一個の英雄の死に顔を、現代の我々が観察できるという面も否定できまい。
デスマスクとして収まっているナポレオンの死に顔は、あれだけの人生を歩んだ男とは思えないほど、穏やかな顔をしている。数百万の人間を殺した「悪魔」にも、権力の頂点に登った「皇帝」にも、すべてを失い零落した「咎人」にも似つかわしくない、まるで春の日差しのような、穏やかな顔である。まるで、生きるだけ生き切って、もはや何も望むものが無い、と言っている老人の顔のようにも、まだまだ登っていきたいのだ、と、うそぶく少年の顔にも見える。
ナポレオンが、その人生の最後の瞬間に何を思ったのか、それは誰にもわからない。
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