【18】
赤い服の男は続けた。「自分の運命を変えられるのは、自分だけ。つまり君は、自分の運命を変えることが出来なかったのだ」
「どういうことだ?」ナポレオンは、穏やかな口調で訊いた。すると、男も穏やかな口調で返す。
「魔法は、万能ではないのだ」赤い服の男は石を左手で拾い上げた。「強いイメージを持たないと、願望は実を結ばないのだ。・・・・つまり、君がロシア遠征で負けたのは、君がその戦争での勝利図を頭で思い描けなかったからだし、わずか100日で皇帝位を追われたのは、君が、皇帝に登ってから何をする、という明確なビジョンが無かったからだ。・・・・・・ま、もっとも」
赤い服の男は、左手にある石を海に向かって投げた。重力のくびきを受けた石は、緩く放物線運動を描いて海に消えた。「君がエジプト遠征で負けたのには、他に二つ理由があるのだがね」
「何だ、それは」ナポレオンが訊くと、男は苦笑いを見せてから、答えた。
「理由の一つは、私だ」赤い服の男は、頭を掻いた。「エジプト遠征前に会ったとき、私は君に、“負けてもいいんだ”と吹き込んだ。それが影響して、君の心の中に隙が生まれたのだ。その結果」
「我輩は、負けたのか」ナポレオンは、もはや怒りもせず、結論を言った。「負けてもいいのだ、という我輩の意思の弱さ、そのせいで、『意思を実現する魔法』が発動しなかった、ということか」
「その通り。そして、あと一つ、理由がある」
「なんだ?それは」
「ネルソンだ」赤い服の男は言った。「覚えているだろう?」
もちろん、ナポレオンは覚えている。エジプトでの敗北の遠因を作った、イギリスの海軍提督。そして、皇帝になったナポレオンをも苦しめた、軍略家。結局、ネルソンがイギリスの海軍提督の椅子に座っていたせいで、ナポレオンはイギリスを支配下に置くどころか、国力を削ぐことさえ出来なかった。そしてその結果が、セント=ヘレナ島での幽閉生活である。
だが、ナポレオンの心中では、もはやネルソンに対して、何の感慨も抱いていなかった。「皇帝」ナポレオンならば、彼について何がしかの感慨を抱いただろうが、今のナポレオンにとっては、何の響きも持たない名前であった。
「ネルソンが、どうしたのだ?」
ナポレオンが、興味無さそうにそう訊くと、赤い服の男は言った。
「ネルソンもな、君と同じなのだ。君と同じく・・・・・、魔法を使えたのだ」
「と、いうことは、あなたが『鍵』で、使えるようにしたのだな?」ナポレオンは、訊いた。
赤い服の男は、大きく頷いた。「その通り。私は、君に施したのと同じことを、ネルソンにも施したのだ。そして彼は、君の前に立ちはだかった。つまりね、君とネルソンの戦いは、君と、ネルソンの想像力の戦いだったのだ」
なるほど。ナポレオンは思った。
我が人生の前に立ちはだかった男。やはり、只者ではなかったのだ。何だが嬉しくなったナポレオンであった。
「と、いうことは」ナポレオンは訊いた。「あなたは、ネルソンに会っているのだろう?彼は元気か?」
我輩と同じように、ネルソンが魔法を使えるというのなら、きっと赤い服の男は時折ネルソンの元を訪ねているのだろう、となんとなくナポレオンは思ったのだ。
赤い服の男は答えた。
「え?知らないのか?ネルソンはもう死んだよ」少し寂しそうな目をして、赤い服の男は続けた。「トラファルガー海戦で死んだよ」
トラファルガー海戦、とは、1805年、フランス・スペイン艦隊とイギリス艦隊との海戦である。簡単に言えば、ヨーロッパ中の制海権を握っているイギリスの力を削ぐために、ナポレオンが仕掛けた戦争である。だが、ここでも、フランスは負けた。
赤い服の男は続けた。「あの海戦で、ネルソンはイギリスの指揮官だった。そして、フランス海軍を壊滅させた。だが、果断さが仇になったようだ。彼は、狙撃されて死んだよ」
ネルソンはトラファルガー海戦で、後にネルソン・タッチと呼ばれる作戦を採った。これは、敵艦の陣形を崩すために、敵陣に向かって縦列で突っ込む、というものであった。海戦において、陣形を崩すということは非常に効果的な戦略である。なぜなら、海上で、船という巨大な物で編成された陣形を立て直すのは並大抵なことではないからだ。それだからこそ、ネルソンはこの作戦を採ったのだろうが、何しろ果断だった。敵の陣に突っ込む、ということは、裏を返せば敵の攻撃をモロに受けてしまうことをも意味する。
イギリス艦は、フランス艦側の必死の銃撃を受け、ネルソンはその銃撃に運悪く当たってしまったのだった。
「そうか。ネルソンは、あの戦で死んだのか」
ナポレオンは、何の思い入れもない戦いで死んだ好敵手を思い、ため息を吐いた。
今でこそ「トラファルガー海戦」といえば、ナポレオンの没落の転機とされることも多いのだが、当時はそんな認識は無かった。ナポレオンとしては、せいぜい「イギリスの制海権を奪えなかったか」程度の認識であった。それに、ナポレオン自身はこの海戦には参戦していなかったことも、ナポレオンの記憶から「トラファルガー海戦」が抜け落ちる理由の一つであった。
「だが、わからないな」ナポレオンは海を見ながら、首をかしげた。「なぜネルソンや我輩に、あなたは魔法を授けたのだ?・・・・・我輩は最初、こう考えていた。あなたは、祖国フランスを守りたかったのではないか、と。それがため、我輩に力を貸していたのではないか、とな。だが、それは違うようだ。ネルソンにも力を貸していた、ということは、フランスを守る、という目的で動いていたわけではないようだな」
赤い服の男は、フランスのロココ様式の貴族服をまとっている。多分、フランス宮廷で活躍していた男なのだろう。だからこそ、ナポレオンはそう推測したのだ。「救国の志をもった殊勝な貴族が、フランスの代表たる我輩に、魔法という不可思議な力で以って、力を貸しているのではないか」と。だが、その推測は間違いだった。フランスを救いたい男が、その敵であるイギリスの軍人にも力を貸すはずないのだ。
すると赤い服の男は笑った。そして、言った。「悪いがな、私は君達ほど国というものに価値を感じてはいないし、愛着も抱いていない。確かに、長く過ごした国がなくなってしまったり、あるいはたくさんの友人がいる国がなくなったりするのは気分のいいものではないがね。私が少しなりとも愛着を持っていた国は・・・・・・最早滅びてしまったよ。いや・・・・正確には、君達が滅ぼした」
赤い服の男は、厳しい顔をして続けた。
「私は、ルイ王朝はいい政権だったと思うよ。特に、ルイ16世閣下は、王政を穏健な方へ変えようとなさっておられた。だのに、君達は・・・・『啓蒙思想』とかいう病に取りつかれ、暴走したのだ」
なるほど。ようやくナポレオンは気づいた。
今目の前にいる男が、「国」と呼ぶのは、ルイ王朝なのだ。そして、ルイ王朝を滅ぼした我らを・・・・・恨んでいる?ナポレオンは、そう赤い服の男の心中を慮ったが、赤い服の男から出た言葉は意外なものだった。
「恨んではいないよ、別に」
|