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皇帝と赤い服の男
作:矢車



【13】


 
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 気づくと、ナポレオンは安楽椅子の上にいた。
 む、おかしいな。ナポレオンはふと周りを見渡す。確か今、我輩は赤い服の男を切り殺したのではなかったか?なぜ我輩は安楽椅子で眠っているのだ?
 そう思ったナポレオンは、ふと周りを見渡し、まどろんでいる目をこすった。だが、ナポレオンの目に映ったのは、あの赤い服の男を斬り殺した小宮殿ではなく、どことなく小汚い、あの小宮殿と比してさえ見劣りのする建物の中であった。それでも事情が飲み込めず、ナポレオンは窓の外を眺めた。窓の外には、ヨーロッパには無い植物たちが、ギラギラ輝く太陽に照らされていた。
 ああ。なるほど。さっきまでのは夢だったのか。ナポレオンはようやく得心した。
 ナポレオンは、未だに眠気に支配されている頭をゴンゴンと小突いた。
 ここはセント=ヘレナ島。我輩は、安楽椅子に座ったまま、うたた寝をしてしまったのだ。そして、在りし日の夢を見ていたのだ。
 ナポレオンは、窓をまた眺めた。ナポレオンが逃げ出さないように建物を見張る、兵士たちの姿が見える。その兵士達は、顔を赤くしながら、まるでこの暑さがナポレオンのせいだとでも言いたげに、ナポレオンのいる建物を睨んでいる。
 あのあと。ナポレオンは夢の続き、すなわちエルバ島に渡ってからの自身の人生を省みて、ため息を吐いた。
 あの後、ナポレオンは領主として、エルバ島に配された。つまりこれは、「最低限の食い扶持と栄誉は与え、今までの所業には目を瞑るから、ここで余生を過ごしてくれ」という、かつての皇帝に対してヨーロッパ中の人々が見せた「礼節」であった。そんなヨーロッパ中の願いを理解しつつも、ナポレオンは赤い服の男の助言を愚直なまでに守った。つまり、「自分はもう皇帝に返り咲くつもりはない」と言わんばかりに、エルバ島の小領主として隠棲してみせたのだ。
 最初の頃は、ヨーロッパ中が、ナポレオンの影に怯えた。いつかあの、「コルシカの悪魔」が戻ってくるのではないか、そしてまた、まるでかの黒死病のように、戦という災厄・死を運んでくるのではないか・・・。
 だが、ナポレオンは動かなかった。
 そのうち、ヨーロッパの人々は、「コルシカの悪魔」を忘却のかなたに追いやった。それはまさに、天災と同じことである。天災も、被害のあった直後には生々しく語られ、皆それに備える。だが、そのうち、天災への恐怖が日々の生活に洗い流され、人々の意識から消え去ってしまう。かつては「黒死病」と比肩されるほどに語られた「コルシカの悪魔」もまた、追憶のかなたに姿を消した。
 だが、忘れたころにやって来るのが天災であるように、「コルシカの悪魔」もまた、忘れた頃に牙を剥いたのである。いや、正確には、「皆が忘れた頃を見計らって、牙を剥いた」という方が正しいだろう。
 ナポレオンは、皆の記憶から「コルシカの悪魔」が消えたことを肌で感じるようになると、行動を開始した。ナポレオンは、「エルバ島の隠居」という仮衣を脱ぎ捨て、その本性をむき出しにしたのである。
 ナポレオンは、本国の親ナポレオン派の者たちと共に、クーデターを起こした。
 それはまるで、電光石火の如き行動だった。
 ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに達した。そして、自らの軍事力をちらつかせ、当時のフランス王で、失政の目立っていたルイ18世を退位に追い込んだ。そして、自らはフランス皇帝として復位したのである。
 だが、そんな行動を、ヨーロッパ中が許すはずも無かった。
 ヨーロッパ各国は、またもやフランスへの、いや、「コルシカの悪魔」への包囲体勢を完成させた。そのような情勢下では、ナポレオンはまたもや勝ち目の無い戦に出陣するしかなかった。
 1815年、ワーテルローの戦。
 この戦で、ナポレオン率いるフランス軍は、イギリス・プロイセン連合軍に大敗した。結局、この戦争における敗北によって、ナポレオンはまた登りつめた皇帝位から転がり落ちることになった。
 そして、ナポレオンは退位に追い込まれ、宿敵イギリスによってセント=ヘレナ島に流されることとなった。エルバ島のときのそれとは違い、その扱いはもはや「戦犯」としての扱いだったのだ。
 この約100日間のことを、「ナポレオンの百日天下」と呼ぶが、当のナポレオンは知る由もない。なぜなら、その名が付けられたのは、ナポレオンが歴史上の人物になってからだからである。

 結局。ナポレオンは口の奥でぼやくように言った。
 我輩の人生はなんだったのだろう。
 コルシカの地主の子として生まれ、長じて軍人になり、気づけば皇帝にまで登りつめた。だが、何度も投獄された。何度も暗殺されかかった。二度も帝位から転落した。天国も見た気がするが、それ以上に地獄も辛酸も味わった。そして最後は結局、勝ち逃げできず、負け越してしまった。
 そして、ナポレオンに残ったのは、ヨーロッパ中を戦火に巻き込んだ死神、「徳を得られず、権力を掴んだ男(ゲーテ評)」、「コルシカの悪魔」という悪名だけだった。そして、老境に至ったナポレオンには、その悪名はあまりに重たくその肩に圧し掛かった。
 「我輩は・・・・・」ナポレオンの皺だらけの顔に、一筋の涙が流れた。「もはやただの咎人なのだ」
 ナポレオンはまた目を閉じた。
 もう、眠ってやり過ごしてしまおう。ナポレオンは、心の中でつぶやいた。我輩は我が咎を、すなわち、多くの人間の命を、まるで黒死病の如くに刈り取っていった罪を受け止められない。
 ナポレオンは、気づいてしまった。上に登るとき、すなわち権力の頂点を極めようとしたときに、どれだけ多くの人間を踏みつけにし、どれだけ多くの人間の家族を無残に奪い、どれだけの屍の山を築いたかを。
 かつて皇帝という頂に向かって登っていたナポレオンは、世界と対峙する人間だった。のちにある独裁者が言うように、「あまりに多数の死は、ただの数字の羅列でしかない」と冷ややかに考えることができたのだ。だが、今のナポレオンは、もはやただの人だった。「ただの数字の羅列」と思えなくなった。そういうことだ。
 ナポレオンは、呼吸を整えた。自分勝手にも、寝ようというのだ。だが、彼の眠りは、ある声に遮られた。 
 「やあ。ナポレオン=ボナパルト元・皇帝陛下?」
 懐かしい声だった。どこか優しく、どこか棘のある声。もはや老境に至ったナポレオンとは違い、若々しい声。
 ま、まさか、あの男が・・・・・?まさか、あの男はあの時我輩が・・・・。
 ナポレオンは、まるで悪夢から覚めるように、ぱちっと目を見開いた。
 ナポレオンの目の前には、懐かしい男の、もはやすでに死んでいるはずの男の、あの頃と変わらない姿があった。















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