最終話
二ヶ月を過ぎたある日、私はいつものように学校へ行き、いつものように自分の机に向かい、いつものように自習をして、いつものように演じていた。
…はずだった。
「直藤さん。ノート見せてくれない? 私やってないんだ…」
ええ。困ったときはお互い様。
「嫌よ、面倒臭い」
私はいつものように笑顔をたたえながら女子生徒に言ったつもりだったが、彼女がこちらを驚いた表情で見ているので、聞き返した。
「どうしたの?」
彼女は慌てて、
「な、なんでもない」
そう言うと、前を向いてしまった。私はノートを取り出そうとした手を所在投げに見下ろしながら、彼女の表情を考えていた。
どうして彼女は、ノートを借りないまま引き下がったのだろう。他人のノートを借りるという愚行に気がついたのだろうか。
私は特に深く考えず、思考を一時中断した。
結局、その日、その女子生徒と会話することはなかった。
放課後になり、家路に着く。両親はいつも残業で、家の中は私一人。私がテーブルに乗っている夕食を視界に収めたとき、赤い携帯電話が鳴った。配信されたばかりの新曲が、ダイニングキッチンに寂しく響き渡る。私が電話に出ると、クラスメイトの声。
『あ、沙耶?』
なれなれしく語りかけてきたのは、右隣の女子生徒。
『今日さー、日本史の香田ったらさー、私にこう言ったんだよ』
私は仕方なく、彼女の話に耳を傾ける。
『「体ばっかり成長させてないで、頭を成長させろ、頭を!」って、もう最悪』
何言ってるんだろうね、香田先生は。私が明日注意してくるよ、はっきり。
「あはははっ、本当に? それってセクハラじゃない?」
『……そう…だね…』
彼女の声が一気にしぼんだ。何か気に触ることでも言ってしまったのだろうか。分からない。私は見事に演じきったはずだ。なのに、この反応は。
『…あ…じゃあね…』
次の瞬間、不通になる電話。私は首を傾げたが、まもなく私のくびれたスタイルのいい腹が空腹の叫びを上げたので、とりあえず食事をとるべくテーブルについた。
今日は何かが変だった。
そんな不快感をまといながら。
次の日、私が教室に入室すると、そこは別世界のような雰囲気が漂っていた。クラス全員の視線が私に殺到したかと思うと、すぐにまた談笑を再開した。視線が私に殺到したときの静寂は、喧騒を静める先生の一喝以上だった。私はやはり首を傾げ、自分の席へと歩き出す。途中、すれ違う生徒に、おはよう、と優然な口調とともに微笑むが、誰一人として私に挨拶を返してくれる者は存在しなかった。それどころか、視界にさえ収めてくれない。私が不可視の存在、まるで幽霊になったかのようだった。加え、教室内に濃厚な霧が立ち込め、私の机の周りだけが晴れている。教室に私の居場所がすっかりなくなっていた。私は何が起こっているのか理解できずにいたが、思い切って肩を叩いて呼んでみた。
そして――拒絶された。
明らかに拒絶だと分かった。肩にかけた手を、まるでゴミを払うようにはねつけたのだ。
私は中学校時代にタイムスリップしたかと思った。
あの時と同じ空気、あの時と同じ居場所、あの時と同じ拒絶。
それらが中学校時代と寸分たがわず酷似している。疑問と混乱が、怒涛のように私に押し寄せる。才色兼備と歌われ続けた私が、自らの沽券にかかわるようなミスを犯すはずがない。
私は完璧なはず。
今まで苦労して積み上げてきた信頼や、羨望が、得体の知れない原因によって瓦解するなんて信じられない。
私は完璧なはずなのに。
なのに、どうして私を見てくれないの。
私を見て、みんな、私を見て。羨望の眼差しで、憧憬に染めた双眸で、私を見て――
結局、私の願いは届かなかった。
その日、私は高校入学以来はじめて、偽善を使うことなく帰途に着いた。私は友人とつながる赤い携帯電話をベッドに投げ捨て、半ばすがるようにして、白い携帯電話に飛びついた。
もう誰でも良かった。
私という存在を確認したかった。たとえそれが、私が作り出した人物でも構わない。
私は耳をすまし、電話がつながるのをただひたすらに待っていた。コール音が耳孔を震わせる。
『はい』
「わたし…だけど…」
そして私は死に物狂いでエリを演じた。たしかエリは、無邪気で天真爛漫、金切り声で話すはず。十分くらい話をしたと思う。突然、電話の相手が軽い調子で、恐るべき言葉を電波に乗せた。
『なんか、エリじゃないみたいだ』
「え…」
私は次の言葉が出てこなかった。「エリではない」と言われた。それの意味するところは、私がエリを演じきれていないということ。私は動揺を振り払うように叫喚した。
「そんなことない!」
私は相手の返答を待たずに会話を絶った。内心で激しく動揺し、動悸が速度を上げた。
私は黒い携帯電話に一縷の望みを託した。
マイの性格を冷静に考える。人間不信に陥っていたが、最近はセキカワのおかげで克服しつつある。そして、彼氏との仲も良好…。
私は携帯電話を強く握り締めながら反芻した。
セキカワは一人暮らしの貧乏学生で、いまどき珍しく携帯電話を持っていない。だから、彼のアパートにある固定電話にかける。
連続する呼び出し音。
お願い、出て。セキカワ、お願い。
十回目の呼び出しで、ようやくセキカワにつながった。私は安堵の息を漏らす。
『もしもし、セキカワですけど』
セキカワの野太い声帯に、私は涙が出そうになった。
「私…です」
その絶望は、かつて味わったことのないほど、私を暗闇に叩き落した。
『誰?』
その声は、私が誰であるか分からずに戸惑い、怪しむ声だった。私はそれ以上何も言えず、セキカワとのつながりを絶った。私は小刻みに震えだす。ベッドの上で両足を抱え込んで、顔をそこに埋めながら、恐怖に打ち震えていた。
誰も私の存在を知らない。
演じ切れていたはずのエリ、マイ、学校での私。その三者が、誰の心の中にも存在しない。
何が間違っているのだろう。
声の調子、感情の起伏、言葉の陰影、濃淡。
その微妙なニュアンスが出来ていないのか。そんなはずはない。私は完璧だから。私は完璧…。
――エリじゃないみたいだ。
――誰?
私よ。全て私。違うなんてことはない。演じていたとはいえ、それはれっきとした私自身。
ふと気づく。
私が演じている私を否定された私は……演じていない私は、どんな私?
私はどんな性格?
どんな人間?
――本当の私は、誰?
エリのこと?
マイのこと?
それとも学校での私?
…あと、もう一人いたような気がする。
「…私…は、誰?」
頭をかきむしると、指に頭皮からにじんだ血が付着している。膝の上に長い髪の毛が、何本も何本も落ちてくる。
「…私…わたし…ワタシ…」
加速度的に動悸が増す。黙していると、頭の中にその音が反響する。戦慄が背中を駆け上がった。私という人間、性格の喪失。ひとつに定まらない私。性格を使い分けていたはずが、いつの間にかそれぞれが溶け合い、鮮明だった、白、黒、赤が、私の見知らぬ色に変化していた。
私の色が見つからない。
「あ……ア……」
そして、赤い携帯電話が鳴る。
私の震えが極限に達する。発汗が止むことなく私の肌をなぞっていく。携帯電話に手を伸ばすが、触れるまでには至らない。怖い。
次に、黒い携帯電話が鳴り響く。
私は部屋の隅まで逃げる。もう逃げ場はない。足がすくんで動けない。苦しい。
最後に、白い携帯電話が響く。
出来損ないの協奏曲が、部屋中を狂ったように回っている。嫌。止まらない不協和音。カプリッチオ。
私が混濁していく。何色なのかも分からない。知らない。理解できない。消えてしまう。私が。消える。キエル。消えてしまう。嫌。私は赤色。違う。白色。黒色かもしれない。もうひとつ。もうひとつあるはず。ナニイロ。教えて。誰か。ワタシハナニイロ。
徐々に目の前の色が消えていく。
嫌。消えないで。キエナイデ。
三方向から漂う瘴気が私の脳を侵し始める。音という瘴気。耳から侵され、全身に広がっていく。
痛い。私は耳をふさぐ。イタイ。消えていく。ワタシガキエテイク。首を激しく左右に振る。イヤ。嫌。タスケテ。瘴気から三人の人間が現れる。誰。ダレ。三人が無表情で接近してくる。嫌。戦々恐々とした思いが、私の未来を予見する。コナイデ。三人が私を取り囲む。無機質な瞳で私を見下ろす。死んでいる人間のそれ。三人が六本の手を伸ばす。私に近寄らないで。コナイデ。触らないで。私は壁伝いに逃れる。半死人が私を急追する。駄目。タスケテ。嫌。コナイデ。背中越しにベランダが見える。私はスライドガラスを開ける。一歩一歩近づいてくる。私は逃げた。視界が開ける。そこには何もない。気づいたときには空中に身を投げていた。三人は、三人とも私だった。私でない私。私は、私が落下していくのを見て、霧散した。
衝撃の後、ビデオカメラを地面に転がしたような画像が、しばらく私の視界を埋めていた。
気がつくと、私はベッドの上にいた。自宅ではないことから、おそらく病院であろう。
とりあえず自己紹介。
私の名前は、直藤沙耶、高校生。眉目秀麗な容姿を持ち、頭脳明晰、さらには、身体能力も他の追随を許さない。けど、クラスからは疎まれている。私を簡単に紹介するなら、今のが最も分かってもらえると思う。
「気の毒にね。意識は戻らないんですって」
でも寂しくはない。偽善がくれた三人の友達がいるから。紹介するわね。
彼女の名前は――
【END】
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