発車ベルが鳴り、彼女は電車から降りた。僕はどうすることもできず、ただ彼女を見つめた。じじっ、と電灯が鳴き声を上げ、蛾が醜く彼女の顔の前を横切った。ドアが音を立てて閉まり、ガラス越しの彼女の頬を、涙が一筋零れる。
彼女は見慣れた悲しすぎる微笑を浮かべた――
午後九時過ぎの鈍行電車は空いていた。車両の中に残った酒の匂いが鼻につき、僕は不快に思いながらも、四人がけの席に座ろうとする。だが彼女は僕の服の裾を掴み、それを制した。僕は振り返った。すると彼女は首を振って、「立っていたい」と言った。僕はなぜかを問わなかった。しばし彼女の冷たい瞳を見つめたのち、無言でそれに従う。
彼女は僕の恋人だ。同じ大学に通う学生で、この電車で告白された。僕としては正直ほとんど面識がなかったが、顔ぐらいは知っていた。そして彼女を美しく、また時折見られる美しさの裏に潜んだ影に惹かれていたのも事実だった。だからだろうか、僕は深く考えることもなく、愛しているというわけでもないのに、彼女と付き合うことを選んだ。大学二年の、夏のことだ。
そして一年が経った。
僕たちはまだ付き合っている。会話は少ない。何度か抱いたことはあるが、それ以外はキスもしないし、手も繋がない。時々、僕たちはなぜ付き合っているのだろうか、彼女はなぜ僕を好いているのか、と考える。だが答えは出ない。考える行為は、闇を掴んでいるのと同意に思える。彼女という人間が、闇へと溶け込み、渦を描き、消えていく。
僕たちはそれぞれドアの両脇に立ち、呆けながら外を眺めていた。建物が少ないためか、外は暗く、僕たちは闇ではなくガラスに映る自分の姿を見つめることとなった。僕は手を伸ばし、ガラスの中の自分に触れた。ガラスの中の自分は冷たく、酷い顔をしていた。僕の後ろには果てしない闇が広がっていた。
アナウンスがもうすぐ駅に止まると告げた。僕たちの降車駅まで、あと二駅だ。いつまでも無言のままではいけないだろうと不意に思った僕は、何気ない風を装って、「あと二駅だね」と彼女に話しかけた。だが彼女はそれに答えなかった。
彼女はやはりガラスに映る自分を、またはその奥の闇をじっと見つめていた。おそらく後者だろうな、と僕は理由もなく思った。長いまつげが彼女の目元に影を作り、僕がそれを見つめていると、ふと彼女は目をつむった。そしてそのまま数秒間沈黙を守り、ゆっくり目を開ける。彼女は僕と目を合わさずに、「私があなたに告白したのは、あなたの心に闇があったからよ」と切り出した。僕は目線をガラスの中の自分へと戻した。
「私はあなたの心の闇に惹かれたの。私の闇が、あなたの闇と混じり合って、一つになるような気がしたの。あなたなら私を癒してくれると思ったの。……でも、ダメだった。あなたの闇は私にとって深すぎた。私の光まで、あなたの闇は飲み込んでしまったの。一年間耐えたけど、もう無理だわ。ごめんなさい」
僕は黙ってその告白を聞いていた。電車が駅に止まり、ドアが開いた。そこは無人駅で、屋根もなく、ただ電灯が蒸し暑い夏の夜のホームを空しく照らしていた。蛾がひらひら舞っているのが僕の目に映った。一人の青年が僕を一瞥しながら電車に乗り込み、僕の脇にある二人がけの席に腰掛け、仰々しく脚を組んだ。僕は目をつむった。彼女は続ける。
「あなたのことは、今でも好きよ。でも、私を抱くとき、こうして一緒に帰るとき、あなたは私をしかと見たことがある? ないでしょ? あなたはいつもなにを見ているの?」
僕が目を開けると、そこには電灯に照らされる薄い闇がいた。僕の脇の席に座る青年は、素知らぬ顔で僕をちらりと横目で見た。僕は決して口を開かずに、眉を寄せ、下唇を軽く噛んだ。
発車ベルが鳴り、彼女は電車から降りた。僕はどうすることもできず、ただ彼女を見つめた。じじっ、と電灯が鳴き声を上げ、蛾が醜く彼女の顔の前を横切った。ドアが音を立てて閉まり、ガラス越しの彼女の頬を、涙が一筋零れる。
彼女は見慣れた悲しすぎる微笑を浮かべた。そして、何事かを呟いた。だが、僕にはそれを聞き取ることはできなかった。ただガラスに手をついて、時が歪むほど重いため息をつく。
電車が動き出し、彼女はガラスに映る僕の向こう、果てのない闇の中に沈んでいった。僕は彼女が沈んでもなお、ずっと彼女が沈んでいった闇を見つめていた。すると、ガラスに映る僕も渦を描きながら闇の中へ溶け込んでいった。全ては無と化し、無はさらに深い闇を生んだ。闇の中で僕は彼女を見た。
だが強く目をつむり、開くと、やはり彼女の姿はどこにも見えなかった。そこには、酷い顔をした僕だけがいた。 |