ここで謝れば全てが終わると感じていた。
これまで一つ一つ積み重ねてきた小さな思い出のかけらが全て崩れてしまう。
粉々になってしまう。
それでも綾香は体中から溢れる衝動を抑えることができなかった。
「ごめんなさい。」
全身をわなわな震わせながら、精一杯搾り出した答えはほとんど声になっていなかった。
健吾は黙っている。黙って俯いている。握り締めた拳に力が入っているのがわかる。
その瞬間ちょっと地面が揺れたような気がした。
こんな時に地震が起きたら今までのことが全部無かったことになってくれるのではないか。
綾香のその期待を裏切るように健吾はふっと
「さよなら。」
と言った。
優しい声だった。
半年間一緒に居たときには一度も耳にしたことのない優しい声だった。
「いかないで。」
そう叫びたかったが、悪寒のように身震いする体は言うことを聞かなかった。
一歩一歩遠くへ行く健吾が、次第にかすれていきそのまま蜃気楼みたいに消えてしまうのでは
ないかと思った。
綾香は全てを失った。
家族も友人も全てを犠牲にしてきた。
欲しいもののためにただ前だけを見て進んできた。
それ以上何も望んではいなかった。ただ、健吾にそばにいて欲しかっただけなのに・・・。
風が西から吹いている。
辺り一面に咲き散らかった名も知らぬ花は、立ち尽くす綾香を嘲笑しているように見えた。
綾香は髪を振り乱しながら、手当たり次第にその花を引き抜き始めた。
ぶちっ、ぶちっと容赦なく。
引き抜いては捨て、また引き抜いてそれを捨てた。
狂っていると言われてもしょうがなかった。
冷静な自分は影を潜め、ただ健吾を失った苦しみでじっとしていることなんて
できなかったのだ。
「あっーーーー!」
力の限り叫んだ。
声は空しく響き、やがて湿った空気に溶け込んでいった。
一瞬光が見えた気がした。
綾香がその光の方に目を向けると、無機質にそびえ立つ高層ビルの隙間から
わずかに夕陽が覘いているのがわかった。
夕陽の中に融けてしまいたい。
体中を燃え盛る炎の中できれいにしたい。
19年間染み付いた汚れを燃やしてしまいたい。
生きれば生きてきた分だけ自分は汚くなってきたような気がする。
他人を落としいれ自分を傷つけた。
それなのにどうして何も残らなかったのだろうと綾香は思った。
いや、わかるはずなどない。
失ったものの悲しさなど、失った人間しか知り得ることはできないのだ。
夕陽がゆらゆら揺れているように見えた。
私はこの先何度苦しみを味わい、そして苦しみを味あわすのだろう。
額の上に手をかざす。
街中を照らす夕陽は、この街を浄化しているのかもしれない。
一日のうちで生産された汚れを全て。
綾香はすっと立ち上がり、踵を返した。
どこまでも続く名も知らぬ花の遊歩道を夕陽が照らしていた。
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