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悪の華道

悪の華道を追いましょう

作者:真冬日
ここはこの国の宰相を勤める人物の屋敷の一室。
多くのメイド達が控える中、大きな腹を抱えた女が我が家御用達の仕立て屋のパタンナーに、身体のあちこちをメジャーで巻き付けられていた。

「出産予定日は再来週だよな?」
「ええ、そうよマルク」
「では何故また新たなマタニティドレスを作ろうとしているんだ。もう何十着と持っているだろう」

溜息を吐く俺に彼女は嫋やかに微笑む。

「大丈夫よ。お針子の数を増員させて出産予定日前には完成させるから」
「そういう問題ではないのだが……まぁいい」

完成が間に合ったとしても恐らく一回しか袖を通す機会のないドレスがもったいないとは思わないものだろうか。
彼女の出自を考えるとこれが普通の服であるのならば致し方ないのかもしれないが、いつも彼女のオーダーしているドレスは一般貴族が身につける衣服の十倍ほど値が張る。
毎回毎回使い捨てのような扱いをされては堪らない。
しかし何度注意しようが治ることはなかった。今はもう何を言っても無駄なことだと悟っている。

「くれぐれもヒールのある靴だけは履かないようにしろよ」
「いやねマルクったら。そんなの当然よ。もうすぐ私はこの子のお母様になるのですもの。御子を守るのは母の務めでしてよ」

凛とした表情で笑う彼女に思わず不満が吹っ飛んでしまう。
最近よくするようになったこの顔つきは母親としてのものだ。
華を豪奢に背負う美貌に、聖母のような慈愛を滲ませる姿がなんだか眩しく目を細めた。

「……男児だろうか女児だろうか。貴女はどちらがいい?」
 「希望は女の子かな。お揃いのドレスでお出掛けって夢なの。でも無事に産まれて来てくれるのならどちらでもいいわ」
「そうだな」

採寸を終えたパタンナーが静かに下がるのと交代に、側に歩み寄り手を彼女の腹に当て胎児の温かい存在を感じる。
微笑み合う俺達に屋敷の者は微笑ましげな視線を送ってくる。
どこからどう見ても俺達は仲睦まじい若夫婦にしか見えないだろう。
彼女は柔らかな声で己の腹へ喋り掛ける。

「良かったわね。あなたに会えるのを、お兄様も楽しみにして下さっているわよ」


そう、彼女は俺の義母だ。
父の再婚話の中で新しい義母の年齢を聞いた時は、若い女が好物の父らしいと呆れ返ったが既に騎士として身を立てているこちらとしては反対する理由もない。
父は女好きな割りに彼方此方で種を撒き散らすようなミスをしない抜かりのない男なので今まで兄弟という存在を思い浮かべなかったが寧ろこれは好都合。
年齢的にそろそろ父の跡を継ぐべく文官への転職を求められている身としては、二人の間で男児が成せれば騎士を続けられるかもしれないと淡い期待を持った。
しかし今となっては、この腹の子の性別など気にならない。
母子共に健康ならばそれ以上は何も望まない。


初めて義母と対面したのは二人の結婚式であった。
少し気が強そうだが、若く美しい純白の花嫁。
隣に並ぶ父は酷く満足そうで、反対に彼女の顔色は悪い。
王太子の元婚約者だという情報からも察せられるように、政略的な強制婚姻であることは明らかで、居た堪れない気分にさせられた。

自分の父親が仕出かした彼女への仕打ちによる罪悪感と義理の母が自分よりも若いという違和感に、彼女とどう接していいのか分からない。
情けないことだが関わりを極力避けたいと思ってしまった。
まぁ、そんな卑怯な考えは彼女を前にして簡単に消し飛んでしまったが。


最近、早く騎士を辞めろとせっつくために父に呼び出されることが多くなった。
渋々生家へ顔を出せば父の横に必ず佇んでいる彼女。
飽きっぽい父のことだ。随分前に家を飛び出したきり帰らなかった実の母の時のように、すぐに放置して互いに愛人と仲良くやっていくだろうくらいに思っていたが意外や意外。
父は新しい幼妻が余程お気に召したらしい。
俺が滞在中、片時も離れずイチャイチャと纏わり付いているではないか。
そして一番意外なのは彼女だ。
父と無理矢理婚姻を結ばされ泣き暮らしているのだろうかと思えば、気味が悪いと嫌悪してしまうほどの父の溺愛ぶりを易々と受け止めているのだ。
それどころか父に劣らぬほどの熱量を瞳に宿している。
その大きな目に映っているのは醜い中年などではなく、絶世の美男子だっただろうかと錯覚すら覚えてしまいそうになる。

更には前々から気になっていた父の食生活や体臭を改善しようと厳しく指導しているという話を屋敷の人間から聞いた。
彼女の指摘によりあれほど大切にしていた髪まで剃り落としたというのだから驚きだ。

そして彼女自身もまた父に愛され会う度に美しくなった。
元から整ってはいたが、幸せがそのまま容姿に滲み出たのか、人の心を惹きつけ離さない恐ろしいほどの美貌を備えるようになっていった。


誰もが口々に褒め称える彼女だが、この時の俺はどうにも気に入らなかった。
理由は彼女の浪費癖だ。

いつもいつも会う度、彼女は通いの商人から品を買い求めている。
それも、一つで家宝に出来るほど高価な物をまるで市井の人間が野菜でも選ぶかのごとく気軽にポンポンと何個も購入していく。
実の母もまた結構な浪費家であったが、ここまで酷くはなかった。

彼女の隣に佇む父親は、まるで初孫を愛でる祖父のようなメロメロに垂れ下がった顔で見ているだけだ。
国一番の資産を持つ我が家だが、余りあるそれも無限という訳ではない。

この女は傾国だ。
このままではこの美貌に全ての財を搾り取られてしまう。
多少彼女に対し負い目がある分強気に注意しづらかったが、危機感を覚えた私はもう遠慮などせず彼女の浪費癖を指摘した。

しかし結果は暖簾に腕押し。
『旦那様のお金は私のお金でしてよ? だって夫婦ですもの』と厚かましくもヘラリと笑って言ってのける。
そんな妻の言葉にだらしなくにやけるだけで、父もまた聞く耳を持とうとしない。
『大丈夫、きちんとライフプランを設計した上での必要経費ですわ。ね、旦那様?』などと言われれば『うんうん、セレスの好きな物を好きなだけお買い』と、とても悪辣宰相と言われる男とは思えない言葉が飛び出した。
開いた口が塞がらない。
我が家も、そして我が家に影で支配されるこの国も最早ここまでかと覚悟した。


しかし俺の危惧は杞憂に終わった。
彼女を迎えた父はそれまで行っていた悪事から足を洗ったのだ。
人身売買に麻薬に窃盗に誘拐に暗殺———金になることならば、どんな悪事も躊躇わない世界的規模で暗躍する闇組織がつい最近まで存在していた。
父はその組織の影の支持者の一人であったが、それもすっぱりと手を引いたらしい。
「おかしな連中とお付き合いなさるのはおよしになって」と彼女に忠告されたようだ。
優秀であるが故にワンマン気味で仕事に口出しされるのを何より嫌がる父が、幼妻のこの一言をあっさり受け入れてしまったのだから驚きである。

しかも偶然なのだろうが、数ヶ月後にその連中はやらかしていた悪事が他国で明るみとなり、一網打尽に捕縛されあっという間に処刑されてしまった。
父のようにその組織の支持者であった世界各国の要人達も繋がりを暴かれ次々と失脚。
父も関与を噂されたが、既に己の形跡を綺麗サッパリ消し去った後の彼はいくら調べようとも無関係という結果しか出なかった。

しかもただ単に足を洗うだけではないのが父が宰相を勤める所以である。
彼はもうこの世に居ない闇組織の連中の隠し資金をそっくりそのまま頂いてしまったようで、退職金代わりだと高笑いしていた。
やはり父は決して善人にはなり得ない。

更にその資金を元に領地での多岐に渡る事業展開に成功。
絶世の美女として名高い彼女があらゆる商品の広告塔となったのもとても大きい。
特にソリィエの布を独自の製法で染色した美しいドレスは世界中の貴族女性が憧れ買い求めた。
気付けば彼女が嫁いでから我が家の資産は尽きるどころか倍に膨れ上がっており、宰相夫婦の高笑いが止むことはこれからもないのであろう。



「それで、大切な話とはなんだろうか」

採寸を終えて優雅に茶を楽しむ彼女に今回この場に呼ばれた用件を尋ねる。

「ええ、実は……」

茶を静かに置いた彼女は、珍しく強張った顔で口ごもりつつ切り出した。

「旦那様が浮気をしているようなのです……」
「は?」

父が浮気……。
見ているこちらが目を反らしたくなるほどデロデロ甘々で、そのうち溶けてしまうのではないかと心配してしまうほど妻を溺愛しているあの人が浮気?
絶対にあり得ない。
確かに再婚以前の父ならば色々な女性を相手にしていたが、今の彼を見て浮気をすると思う人間などいないだろう。
だがしかしそんなことは彼女だって理解しているはずだ。

「根拠はあるのか?」
「ええ……浮気相手に直接釘を刺されたの。“私の大切なあの方”を返して下さい、と」

なんでも先日行われた夜会で父と少し離れた隙にとある令嬢に声をかけられたそうだ。

「いつかはこんな日が来ると思っておりました」
「いやいや無いだろ」
「何故?」
「何故って、あの父だぞ?」
「そう、あの旦那様ですのよ? 少し太めですが涼しげな頭はとてもキュートでダンディ、誰よりもお優しく貫禄たっぷりで魅力しか詰まってないパーフェクトな男性は他におりません」

色々突っ込みどころが多すぎて困る。
まず父の体型は太めではなく太っている。
それは大きな欠点となり得るだろうし、そもそも涼しげに続く言葉で好印象なのは目元などであり、涼しげな頭というのはかなりマイナスだと思うが相変わらず面白い感性をしている。
何より、父が優しいのは妻である彼女にだけだ。
あの父を優しいという人間は他に居ないと断言できる。

「旦那様に魅了される女性が出てきても何の不思議もないのですが…………何が許せないかって、そのご令嬢の華のなさです」
「華?」
「そう、華。私に挑もうとするのにあの地味さっ! なんなのですかアレは!? アレで私から旦那様を奪おうというの!?」

不遜な宣戦布告より、そのご令嬢の容姿が余程気に入らなかったらしい。

「あんなのっ……あんなのっ……反則です。あんなに地味では一緒に居て空気のように違和感なく落ち着くではないですか」
「……?」
「私は良く言えば華々しく、悪く言えば派手派手しいのです。とても旦那様に癒しを与えれない……」

今までの勢いはどこへやら。しゅんと萎れた姿には年相応の可愛らしさがあった。
普段の凛とした雰囲気と今の小動物のような雰囲気とのギャップの威力は凄まじい。
思わず撫でたくなるようなこの感情は、癒しと言っていいと思うのだが。

「貴女はそんなことを気にしていたのか」
「そんなことと仰いますが、旦那様は私といると落ち着かないみたいです。いつもソワソワしているわ」

それは父が彼女に夢中である証拠ではないか。
あの一癖も二癖もあるあの中年が初恋を知った初心な少年のようになるのは彼女の前だけである。

「でも……でもでも、絶対! 彼を一番愛しているのは私です! 誰にも譲るものですか!」

強い目で言い切る彼女。
白鳥のように麗しく子猫のように愛らしく、それでいて獅子のように誇り高い強さを持つ義理の母。
それに見惚れることを一体誰が批難出来ようか。

「今現在旦那様はその令嬢の家へ向かったと見張り役から連絡が入ったの。そこで貴方を此処に呼んだのですマルク」

どういうことだと不可解さに眉を寄せる私に向けてニヤリと口端を悪そうに歪めた。

「旦那様が戻られたら全身の毛を剃ってしまいましょう。私が剃るから貴方は旦那様が怪我をしないよう押さえつけていて」
「はぁ!?」
「だってこんな事使用人に頼めないでしょ?」

確かにいくらなんでも主人を押さえつけろという命令に従う者は居ないだろう。
そんなことをすれば比喩ではなく首が飛ぶ。

「何故そのようなことを?」
「浮気した罰です。まさかまさかとは思っていましたが、本当に妻の妊娠中に浮気相手の家に向かうなんてっ!」
「…………」
「二度と他の女の前で脱げぬようツルツルにして差し上げます。勿論下着にも旦那様の名前を大きく刺繍させますわ」

ふふふふと妖しく笑う彼女は完全に理性を失っている。

「父に直接真偽を尋ねたのか?」
「いいえ……」

楽しげに笑っていた彼女は途端に大人しくなり俯いた。
彼女の性格から言って一番に父を締め上げ詰問しそうなものを、意外である。

「だって旦那様が浮気を認めてしまえば、私きっと泣くわ。泣き叫んで旦那様を叩いて引っ掻いて……」

勇ましい言葉とは裏腹に彼女の声は弱々しい。

「それで、きっと、捨てないでとみっともなく縋るわ。そんなの私じゃないもの。この私がこんな弱い生き物だったなんて認めないんだから」

俺は慌てて椅子から立ち上がり彼女の隣へと向かう。
膝の上で握られた手は小刻みに震え、ポタポタと落ちる涙を必死に止めようとしている健気な彼女を抱き締めるのは簡単だ。
だが気高い彼女が望んでいるのはそのようなことではないだろう。

「行こう」
「え?」
「その令嬢の家へ向かうんだ」
「でも……」
「貴女は弱くないのだろ? 乗り込んで真相を問い詰めよう。もし本当に浮気だったのなら、俺が責任を持って父を全身ツルツルにしてやる」

彼女が望んでいるのは誰かに背中を押してもらうことであろう。

「あんなハゲデブ中年男など裸で外へ放り出してしまえばいいさ」

プライドの高い彼女がここまで追い詰められたのだ。
たとえ誤解だとしても父に責任はある。
誤解させるような行動を取るのが悪い。
俺の台詞に彼女は目を丸くした後、楽しそうに微笑んだ。

「それではあまりにも旦那様が可哀想だから、亀甲縛りで勘弁してあげましょう」

ふふふと笑いながら目元に浮かぶ涙を拭った彼女は、決意を固めた表情を俺に向ける。

「では行きましょう」
「ああ、行こうセレスティーヌ」






彼女が向かった先はとある伯爵の屋敷であった。
彼の家の令嬢ならば自分も見知っているが、妻のある男と恋仲となり況してやその妻に宣戦布告をするような気性の荒い娘ではないはずだ。
第一、父など令嬢は絶対に願い下げであろう。

やはり何かの誤解であることを確信し、屋敷のノッカーを叩く。
出てきた家令に先触れのない突然の訪問に詫びを入れ、父と令嬢を訪ねた旨を話す。
話を聞き終わった家令は心得たと何の気負いもなく丁寧な対応で父と令嬢の元へと案内をしてくれた。

「まぁマルク様……それと、セレスティーヌ様まで……」

思いがけぬ俺達の出現に戸惑う父と令嬢。
その様子を見た彼女は一瞬目を釣り上げるが、固い笑顔を携え令嬢の前へゆっくりと進む。

「突然の訪問、申し訳ございません」
「い、いえ。今日はどうなされたのでしょう?」
「少し主人に用事がありまして。失礼を承知で伺いましたの。お邪魔だったかしら、ふふふ」

これと言った特徴のない可もなく不可もない女性。
そんな令嬢に対して絶世の美女と謳われるセレスティーヌは、人生最大のライバルとばかりにバチバチと火花を散らしている。
蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまった令嬢が哀れで、そっとセレスティーヌに近寄り耳元で囁く。

「落ち着け。目的は真相を確かめることだろ。最初から敵意剥き出しでどうする」
「そうね……殺るなら旦那様よね」

素直に頷いた彼女だがアドバイスは全く耳に入らないようだ。
これは何を言っても無駄だ。
仕方ない、後で出来る限りのフォローはするから頑張ってこい。
ボルテージが上がりっぱなしの彼女の肩をそんな思いでポンポンと叩き、成り行きを見守るべく部屋の隅に控えていたこの屋敷の家令の隣へと移動する。
その際、一瞬だが令嬢と目が合った気がした。

「それで私に用事とは? マルクはともかくセレスまで、何かあったのか?」

俺達の様子を窺っていた父が痺れを切らしたように彼女に尋ねる。

「随分とのんきなこと。私がとても怒っていることにお気づきにならないのですか旦那様」
「え!? 何を怒っているのだいハニー」
「ご自分の胸に手を当ててお考え下さい」

そっぽを向いた彼女に慌てて駆け寄る父。

「先日取り寄せたネックレスのサファイアのカラットが小さすぎたかい?」
「違うわ」
「まさかハウゼンバーグ家で出された料理のことが耳に入ったのか?」
「……料理?」
「た、確かに豪華で高カロリーな数々の料理を口にしたが、是非食べてくれと用意されていたものを断るのは失礼だろう? その、あの、私にも付き合いというものがあるのだよ……分かっておくれハニー」
「それは知りませんでした。そのお話は後日じっくり伺います」
「なんとっ!」

墓穴を掘った父は永遠に続く広過ぎる額を「しまった!」とペチンと叩く。
予想通り全く浮気に心当たりの無さそうな様子で、的外れなことばかり出てくる。
ようやく彼女も何かおかしいことに気付いたらしく、上がっていた眉を下げ困ったような表情で父を見つめる。

「……私は、旦那様がこっそり浮気相手である彼女の元へ向かったので、怒鳴り込んで来たのですけど」
「浮気相手!? そんな! とんでもない誤解だわっ!」

彼女の言葉にいち早く否定したのは意外にも父ではなく伯爵令嬢であった。
今までどこか大人しい印象を抱いていた令嬢が、今は心外だと言わんばかりに鼻息荒く彼女を睨み付けている。

「突然訪ねてきたかと思えば、宰相様とだなんてそのような悍ましい誤解、あまりにも私に失礼ではないですか?」

余程父との仲を勘繰られたのが気に入らないようだが、その言い方では寧ろ令嬢の方が父に酷すぎる気がする。
しかし当の父は令嬢の言葉など耳に入っていないようで、彼女の腰に手をやりいやらしく撫で回しながらこちらも別の意味で鼻息を荒くしている。

「セレス、嗚呼、世界一可愛いセレスや。ヤキモチを妬いたのかい? この私が君以外に魅力を感じるはずがないだろうに」

見るに堪えない締まりない顔で彼女の額に口付ける父。しかし彼女の気持ちは晴れないようで、不機嫌そうにプイと他所を向いてしまった。
父はその様子がまた堪らないらしく、鼻の穴を膨らまし顔を赤くして彼女の頬やら髪やらに可愛い可愛いと一生懸命口付けている……確かに悍ましいかもしれない。

「教えておくれ。何故そのような誤解をしたんだい?」
「だって、こちらのご令嬢に先日言われたのです。“私の大切なあの方”を返してって……」

ベタベタまとわりつく父をベリッと剥がすと、彼女は令嬢に向けて尋ねた。

「あの言葉は旦那様のことですよね?」
「そんなわけないでしょ! 何故私がこんなオヤジなどっ」

言葉を選ぶ余裕を完全に無くしている令嬢はわなわなと震えながら叫んだ。
その言葉にセレスティーヌはピクリと反応を示す。

「では“私の大切なあの方”とは一体どなた? 貴女の“大切なあの方”はお預かりしておりませんが」

怒れる令嬢とは反対に、父の気味が悪いほどの激甘さ(通常運転)に落ち着きを取り戻したセレスティーヌ。

「ねぇ、旦那様はお分かりになる? 私にはこの方が何を仰っているのかサッパリ分かりません。セレス、なんだか怖いわ」

父に寄りかかり、その肩に置くようにこてんと小首を傾げると美しい髪がさらさらと流れる。
赤く熟れた魅惑的な唇に指を添え無邪気な顔で父を見上げる。
その瞬間、ぶわりとフェロモンが彼女の身体から溢れ出た幻覚が見えた。
何気ない仕草に込められた絶大な色香。
あれは自分の美しさ踏まえ魅せた動作だ。

あざとさを感じるが、それでも……だからこそ堪らなく魅力的だ。
その愛らしさと色っぽさには、世の男全てを魅了する力があるのかもしれない。
隣を見ればこの家の家令も熱く蕩けた目で彼女を懸命に見つめている。
斯く言う俺も顔が熱くなってしまっているが、彼女の撒き散らすフェロモンに抵抗しようとするなど無理な話である。
半ば開き直って彼女に見惚れていると、ふと強い視線を感じた。
その先には唇を噛み締め悔しそうに眉を顰める令嬢が。
彼女はセレスティーヌに向き直ると、苛立ちの燻る口調で吐き捨てる。

「そうやって色んな男性を誑かし弄んで、世間に露呈していないとでも思っておいでなの?」
「誑かす? 生憎私には“こんなオヤジ”だけしかおりません。“こんなオヤジ”しか欲しくありませんので、他の殿方を誑かしたことはないわ」

どうやら彼女は先程の令嬢の“こんなオヤジ”発言が気にくわなかったようだ。

「私の友人も皆、貴女に恋人を奪われたと言っているのよ」
「覚えがないわ。何より旦那様以外要らないもの。奪う必要がないわ」
「セレスや。君はその美貌でいつも無意識に奪っているんだよ、男達の心をね」

興奮する令嬢に彼女が呆れ気味に返すと、父は苦笑しつつ彼女の頬を撫でる。

「それで、ご令嬢や。どうやら私の妻が気に入らないと見えるが、そなたは立場も分からぬ愚か者なのか」

父の冷たい声に漸く自分の態度の不味さに気付いたらしい令嬢はサッと顔色が青くなる。
父の不況を買った人間がどうなるのか、この国の貴族で知らない者はいない。

「っ! いいえっですがっ! 彼女を今のまま放置されてよろしいのですか? あの噂は宰相様もご存知ですよね? 」

必死な様子の令嬢の言葉に父の表情が不快そうに歪む。

「あの馬鹿馬鹿しい噂か。知っているとも。実に滑稽な話だ」
「ですがっ、噂を気にかけていらっしゃるからこそ、今回急いでお話を進めて下さっているのですよね?」
「噂に左右されたわけではなく、この先の未来を想定しての婚約だ。第一いい歳をした男が嫁どころか婚約者もいないのではみっともなかろう」

「噂とはなんですか?」

自分の分からない話をする二人が気に入らないとばかりに割り込むセレスティーヌの頭を父が宥めるように撫でる。
令嬢はそんな様子を憎々しげに睨み付けた。

「そのお腹の御子が、貴女と“私の婚約者”の子であるのではないかという噂です!」
「まぁ! なんですかそれ」

呆れを含んだ溜息を吐く彼女。

「なんて荒唐無稽な……私が今世でこの身を捧げたのは愛する旦那様ただお一人だというのに……ねぇ旦那様?」
「当然であろう」

ふんっと自慢げに鼻息を吐く父と、くすくすと鈴を転がしたように綺麗に笑う彼女。
チグハグな筈の二人は何故か何よりもお似合いの対のように見えた。

「それで貴女の婚約者というのは?」
「我が息子だよハニー」
「まぁ、マルクが?」

今まで空気に徹していた俺に三人の注目が一気に集まった。


今社交界でまことしやかに囁かれている一つの噂がある。
セレスティーヌと俺の禁断の恋についてだ。
無理矢理嫁がされた女神のように美しく若い義母と騎士である義息子は互いに惹かれ合い、醜く意地の悪い老いぼれ宰相の目を盗み二人は密会を重ねた。
そうして出来たのが腹の中の子であり、最終的に駆け落ちした二人は結ばれ子供と三人仲良く暮らす、というストーリーの本が密かに巷で出回っているとか。
勿論この内容はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ない。

「今回の訪問で、マルク達の婚姻の話をこの伯爵家で纏めようと思っていたのだ」
「それはなんとおめでたいのでしょう。それなのに私ったらとんだ勘違いを……失礼致しました。一人で騒ぎ立て取り乱してお恥ずかしいわ」

漸く令嬢の正体を知った彼女は、父との仲を疑ったことを頬を赤らめ令嬢へ謝罪した。
その恥じらう様子に興奮し再び彼女へと手を伸ばそうとする父を俺は慌てて制止する。

「ちょっと待ってくれ。父上、彼女とのことはお断りした筈ですが?」

そう、俺は大分前に令嬢との婚約を断っている。
元々正式な約束ではなかったので問題なく許可されたものとばかり思っていたのだが。

「何故ですかマルク様! 以前は貴方様もこの縁談に乗り気だと伺いましたのに! 私の何がダメなのですか」

父との間に割り込み喚き散らす令嬢に微かな苛立ちを覚える。

「貴女を知れば知るほど相手が私では勿体なく思ったのです。今回は縁がなかったということで」

涙声で縋りつこうとする彼女からさりげなく距離を取りながら、定番の断りを入れる。しかし令嬢は納得してくれない。

「やはり、マルク様とセレスティーヌ様はそういう関係なのですね……」
「だから何故そうなるのだ」

悲劇のヒロインよろしく涙を零す令嬢に思わず呆れてしまう。

「いくら宰相様の再婚相手とはいえ、真面目なマルク様が女性とあのように親しくなさるなんて、何かあると考えるのが自然です」

確かに自分は今まで女性というものを苦手としていた節があり、極力寄せ付けないようにしていた。
というのも以前の父の爛れた女性関係を間近で見て育った為に、それを反面教師として寄ってくる女性の相手をする気になれなかったのだ。
しかしそれは恋愛の話であり結婚は別だ。
きちんとしたお嬢さんと所帯を持ちたいといういたって普通の願望はあった。
だから縁談の話が最初に舞い込んだ時、この目の前の平凡そのものな令嬢を大切にしようとも思っていたのだ。
だがそんな想いを打ち砕いたのは他でもない令嬢自身である。

「彼女が、セレスティーヌが、俺の特別であることは認めよう」

不義の噂になってしまうような行動を取っていた自覚がある。

父が仕事で不在のために退屈だとセレスティーヌがぼやけば、気晴らしに街の散策に手を引いて強引に連れ出した。
父の誕生日の贈り物に迷う彼女と、父の長年の友人にアドバイスを求め遠く離れた地を二人で訪ねた。
腰を痛めて動けない父の代わりに彼女と連れ立ってパーティに参加したことも数度ある。
その際彼女の側から片時も離れなかったのは、父に言いつかったからだけではない。

今現在だって、セレスティーヌに話があると呼び出されれば、何を置いてもすぐに飛んで来てしまう程なのだから。

「だが誓って彼女と男女の関係などない」

父しか見えていない彼女とそんなことが起こる筈などない。
それを残念に思っていることは否定しないが。
しかしそれ以上に彼女の幸せが最優先事項である。

「男女の関係がなくとも、特別なのでしょう!? やはりマルク様もセレスティーヌ様に誑かされていらっしゃるのよ! だから私とのお話をお断りされたのでしょう!」

令嬢はどうあってもセレスティーヌのせいにしたいようだ。
はぁと大きく溜息を吐いて仕方なく口を開く。

「貴女と私の名誉の為に口を噤んでいたが、正直に言おう。今回の話を断わったのは、貴女の本音を聞いたからだ。呪われた血を持つ私では嫌なのだろう?」

自嘲気味に放った『呪われた血』という言葉に大きく反応した令嬢の顔色は見る見る内に青くなる。

「ど、どうして……」
「以前忍んでいたパーティでたまたま耳にした」

それは目元を仮面で隠す特殊な夜会であった。
目元を隠した程度では知り合いならば面と向かえば気付くのだが、ちょっとした変装はいつもより大胆な自分が出てくる。一夜限りの出会いの場としても重宝されているらしい。
正直面白さがよく理解出来ず、友人に無理に連れられたその悪趣味な夜会で一人不貞腐れ窓際で酒を煽っていた。
背後のバルコニーでは女性陣が何やら楽しそうに盛り上がっており、甲高い声が耳障りで場所を移動しようとしたときである。

「きゃー、じゃあじゃあ本当にマルク様との縁談が進められているの!?」

耳に飛び込んで来た自分の名前に足が止まる。

「なんて羨ましい!」
「お相手があの素敵なマルク様なんて女の夢だわ!」

姦しい女性達の中から聞き覚えのある声が響いた。

「マルク様も私との縁談に積極的でいらっしゃるようなの」

それは確かに先日縁談で会って話したばかりの令嬢の声だ。
素朴で大人しそうな彼女とならば穏やかな家庭が作れそうだと思ったのは確かだが、まだ互いのことを知らないのだからこちらからははっきりとした返事は避けた筈なのだが。
しかし何事もなければこのまま縁談を進めたいとは考えていたので、訂正しようと彼女達の元へ進み出ることはしない。
それにしても未婚の女性がこのような場に来るのはどうだろうか。
一瞬不信感を抱くが、友人と一緒のところを見ると自分と同じように無理に連れられたのかもしれないと気を取り直して彼女を見守る。

「でもそんなに羨むことでもないのよ」

騒ぐ周囲に、どこか照れ臭そうな声の令嬢。

「だって、彼ってほら、呪われた血だし」
「呪われた血?」
「なにそれ?」

『呪われた血』という聞き慣れない言葉に、令嬢の友人達同様盗み聞きする俺もまた首を捻る。

「だから頭のことよ。彼ってとっても素敵だけど、よく見たら生え際ちょっと危ないじゃない?」
「ぷっ、やだもう! 笑わせないでよぉ」
「あははは、でも確かに前髪の生え際は少し気になるわね。今はあまり目立たないけど、あの宰相様のご子息ですものね」
「そうなの、彼のお家は代々薄毛らしいのよ。まさに呪われた血だわ」

若い娘達の他愛も無いブラックジョークである。令嬢も照れ隠しのつもりなのだろうことも理解出来る。
聞かなかったことにして忘れるのがベストなのは分かっている。

しかし幼少より父の頭を見て過る不安と、この頃起床すると枕に頻繁に発見するようになった抜け毛の不安が俺を襲う。
どちらの不安にも気付かないように蓋をして心の奥底に仕舞い込んでいたというのに、それをバールか何かで力任せに無理矢理こじ開けられた心地がした。

女性の軽い中傷など笑って許すことが出来ればいいのであろうが、狭量と非難されようがどうあっても令嬢と添い遂げる未来はもう考えられなかった。

それが縁談を断った顛末なのだが、今回の事で一番失望したのは令嬢ではなく自分自身である。
女性達にはいつも黄色い声を上げられ、それを当然のように考え鬱陶しいとさえ思っていた。
それがどうだろうか。注目している全ての女性が、自分の頭を嘲笑っているかのように思え恐怖を抱いた。
足元が揺らぐ思いがするのは、今までの自分が無意識のうちに驕り高ぶっていたからに他ならない。
女性に騒がれ満更でもない癖に嫌がってみせ、笑われていると知れば急に怖くなる。
自分はなんとちっぽけな人間であろうか。





「あの、あれは、その……」

とても気まずそうにしている令嬢に優しく微笑みかける。

「別にあの時の貴女を責めているわけではないのです。むしろ客観的な意見が聞けたことに感謝しています」

励まそうと言葉を紡ぐが、令嬢は肩を落としてしまった。

「先程私はセレスティーヌが特別だと話したでしょう。それは、貴女の仰られた『呪われた血』が関係しているのです」




*******


プライドをバキバキに砕かれた傷心中のある時、いつものように父に呼び出され早く自分の仕事を手伝えと小言を浴びせられた。
途中で「忙しくてセレスと一緒の時間が取れないだろう」とかいう本音が漏れ始めたそんな最中に、ふと疑問が浮かんだ。

父はハゲの上にデブで臭い中年なのに今現在とても幸せそうだ。
三重苦を抱え、その上悪役然とした構えを崩そうとしないにも関わらず、何故真面目に生きる自分より幸せなのか。
言い掛かりもいいところだが無性にズルい気がしてきた。

釈然としない心地のままようやく解放され、少し休息を取ってから帰ろうと屋敷をふらふらしていた時だ。
ホールで商人を相手にいつもの如く高価な物を買い漁るセレスティーヌが目に付いた。
普段でも文句の一つは言うものの、その日は虫の居所が悪かった。

「マルク、来ていたのね。御機嫌よう」
「ふん、また無駄遣いか? 良いご身分だ」

険悪なムードに通いの商人はそそくさと商品を畳み慌てて帰ってしまった。

「金目当てにしても、あの父を相手によくやるものだ。大変だな貴女も」

完全に八つ当たりである。
後悔がジワジワと押し寄せるが、口から飛び出した言葉を無かったことには出来ない。
いい歳をして年下の女性にみっともなく謗りをぶつける自分がほとほと嫌になる。

怒るだろうか? いや、いくら勝気な彼女でも流石に泣いてしまうのではないか。
ああ、なんてことを言ってしまったんだ。
俺は彼女の反応を内心で恐れながら待った。

「あら? どうして? 大変とはどういう意味かしら?」

彼女は少し吊り上がり気味の目をきょとんとさせ、本当に分からない様子で小首を傾げる。
その予想外の反応に自分でも驚くほど動揺した。

「ち、父は禿げている!」
「え? それが何?」

何を言っているんだ自分は。
いくら動揺したからと言って、こんな子供のような返しはないだろう。
猛省する心とは裏腹に怪訝そうな彼女に新たに幼稚な言葉が飛び出す。

「禿げはカッコ悪いだろ! 禿げた夫など金目当てでも嫌だろう!」
「マルク、一つ訂正させて」

宥めるような冷静な声が興奮する俺の言葉を遮る。

「私はお金目当てに旦那様と結婚したのではありません」

その言葉にハッとさせられる。
そうだ。元々彼女は王太子により無理矢理父に嫁がされたのだ。
金目当ても何も選択肢など初めからなかった。
そんな彼女に対して俺は……。

「私は旦那様のルックス目当てで結婚したのです」
「は?」

どのように謝れば許してくれるだろうかと頭を働かせていると、彼女から思いも寄らぬ言葉が飛び出した。

「誰しもが初対面の者を外見で判断するわ。ルックスに惹かれるのはそんなに悪いこと? 今では外見も内面も全て愛しているもの。問題ないわ」

余程俺が間抜けな顔をしていたのだろう。
彼女は片眉を上げ、面白くなさそうに口を尖らせる。
いや、言いたいのはそこではないのだが。

「あの父のルックス目当て?」
「ええ」
「あの禿げがいいのか?」
「ええ」

はっきりきっぱり頷く彼女に人生一番と言っていい驚愕で顎が外れそうになった。

「イヤイヤイヤイヤ! 可笑しいだろう! 髪が頭にないんだぞ! 毛根が大切な脳を保護することを放棄しているんだぞ!」
「あら、キュートじゃなくて?」
「キュートじゃない! 絶対にフサフサの方が良い!」

脳内がパニック状態の俺に彼女は呆れたような視線を送る。

「まぁ髪がフサフサだとかスカスカだとか本当はどうでもいいのよ。大切なのはそれに向き合う姿勢ではない?」
「姿勢?」
「ジヒドロテストステロンに日々怯え、どうにか進む侵略を食い止めようとする努力。そしてそれを周囲に悟らせまいとするプライド。渋いわ。なんて素敵でしょう」

ジヒド……誰だ、その悪の親玉のような名は。
何やらうっとりしながらペラペラと語り始めた。
どうやら彼女の好みが少し世間からズレていることが判明した。
あれほど悩んでいた薄毛を褒める女性の存在に俺は衝撃を受けた。
そうして一筋の光明が見えた気がした。

「ハハハ、禿げが素敵とはな」

今までの哀しみや憤りがすっと抜け、思わず笑いが溢れた。
伸ばしていた前髪を無意識にかきあげる。
それを見たセレスティーヌはポツンと呟いた。

「もしかして、マルクも薄毛を気にして?」

初めて面と向かって問われ、内心どきりとしたが冷静を装い頷く。
大丈夫、目の前の彼女は禿げを笑ったりはしない。

「ああ、近頃そのことで色々あってな。それで貴女にも八つ当たりをしてしまった。すまない」
「……そうだったの」

眉を下げ気遣わしげに微笑む彼女はいつもより優しげで大人っぽく見えた。

「マルク、こちらに座って下さらない?」

ポンポンと叩いたのは彼女が座るソファの隣だ。
戸惑いながらも引き寄せられるようにそこに腰掛ける。
大人しく座る俺に嬉しそうに微笑むと彼女は静かに口を開いた。

「一つ、お話をさせて」

そう言って始まったのは、とても奇妙な話だった。

「とある国の大人気御伽噺なのだけれどね。その中に野菜の星の王子様が登場するの」

まるで小さな子供に聞かせるように物語が紡がれる。
彼女が言うには、王子は瀕死に追い込まれたつるっぱげの側近に役立たずと吐き捨てトドメを刺してしまうほど冷酷無慈悲。
プライドが山のように高い誇り高き野菜の星の王子。
正直野菜の星とかいうファンシーな設定でそれはどうだろうか。
そんなツッコミを入れる間も無く彼女の話は続く。

「問題はここからなの。なんと、その王子様はね、チビでM字禿げだったの。しかも若い時から」
「っ………」

どんどん深くなるMの切れ込み……恐ろしかっただろう。
クールなのに面白い頭……影で笑われていないか気が気ではなかったろう。
野菜の星の王子よ、貴方の気持ちは痛いほど分かるぞ。

「でもね、王子様はM字で踏みとどまったわ。別の星の女性と結ばれ生まれた子供達が大きくなっても、彼のM字は変わらなかったのよ。それはもう見事な完全勝利よ」
「……だがそれは御伽噺なのだろう? 進行を食い止めるなど所詮夢物語だ」
「私の言いたいことは諦めない大切さよ。抜け毛は生活習慣で改善されることもあるの」
「つまり居なくなった毛根が帰ってくると?」
「まぁ、人によっては」

そんな話は聞いたことがない。
そもそも抜け毛の研究は全くされていないのが現状だ。
生活習慣が禿げに関係しているとは驚いた。

「旦那様のようにバッサリと捨ててしまうのも男らしいけれど、長く苦しい道程と知りながら苦悩しつつ戦い抜くのもまた男らしさよ」
「戦い抜く……」
「ええ、マルクが望むならば微力ながら手伝うわよ。一緒に戦いましょう」

なんという事だろうか。
禿げを素敵だと言い切る彼女。
自信を完全に失った俺に希望を持たせ、更には一緒に戦ってくれるとまで言う勇ましい彼女。
今まで男を惑わせ破滅を招く傾国として油断ならぬ思いばかり懐いていたが、そんなものは吹っ飛んでしまった。
父がよく彼女のことを女神と呼ぶが、まさに自分にとっても彼女は女神で間違いなかったのだ。
まさに彼女こそ、禿げの女神である。




********

「ということで、今二人で増毛について研究を重ねている」
「っ、二人でコソコソしていると思えばそのようなっ! 私だって禿げているだろうっ! 私の方が重症だろうっ!」

話を終えるとすかさず父が吼える。

「いや、父上のそれはもう末期だ。毛根の毛穴がないではないですか。ツルツルではないですか」
「ぐぬぬ……」
「黙っていてごめんなさい。男らしく諦めた旦那様に余計な希望を持たせてガッカリさせたくなかったの」
「ぐはっ……!」

女神をもってしてもお手上げ状態の父の髪。
申し訳なさそうな彼女を前に父は他人の家にも関わらず、膝をついてガックシと項垂れてしまった。

「わ、私だって、たとえマルク様が禿げても、気にしないわ。呪われた血なんてただのジョークです」

全てを聞き終わった令嬢は辿々しくはあるが、意外にも諦めることなく食い付いてきた。
しかし食い付いた相手は俺ではなくセレスティーヌであった。
彼女を前に令嬢はキッと敵意の視線を投げつける。

「悲劇的な誤解で落ち込むマルク様につけ込むなんて最低です」

自分で言っておいて誤解とは。
あまりの厚顔ぶりに呆れて言葉が出ない。

「ええっと、よく状況が見えないのだけど?」

困惑する彼女に大まかに呪われた血の経緯について説明すると、彼女の顔はみるみるうちに険しくなった。


「旦那様はO字型、マルクはM字型。彼等は全く違う種類のハゲよ。それを並べて呪われた血などと、分かったような口をっ……侮蔑もいいところだわ! 」

あれ? なんか怒るところ違くないか?

「ハゲラーならば瞬時に見抜けることなのに。その程度の認識しか持たず、禿げを気にしないなどと軽々しく口にするなんて片腹痛いわ! 」

ハゲラーとは一体……。

「そもそもその上から目線は何事ですか! ハゲは譲歩するものでは決してなく、寧ろ素敵なオプションなのですよ! お分かりになって?」
「り、理解できないわ…………」

彼女の熱い言葉に、令嬢も父の横に膝をついて崩れ落ちた。





その後、婚約話も今度こそ綺麗になくなり令嬢が俺達に関わることは全くなかった。

彼女は元気な男児を無事出産し、父は萎んでしまうのではないかと心配になるほど滝のように涙を流して喜んだ。
まぁ成長したその子が未だにしつこく消えない噂を鵜呑みにして俺のことを父親だと思い込んだりするが、可愛い異母弟の誤解は敢えて解かない。
何故ならかなり年の離れた父は彼女を遺して確実に先に逝く。
遺された彼女を支え守るのは、異母弟と俺しか居ない。
だったら今の内から異母弟とは本物の親子のような強い絆を結んでいた方がいいだろう?
本当にそうなる日が来てもいいように、な。
まぁ何れにしろまだまだ先の話だ。


ところで彼女との増毛研究の方はどうにか形となり、“ケガハエール”という毛生え薬として貴族達に高値で販売するようになった。
しかしただ販売するだけではなくブランドの価値を出す為に、店舗や商人を介さず知り合いからしか手に入らないようにした。
知り合いに販売し、更に買い取ったその知り合いが他の知り合いに買い取った値より高値で販売。何パーセントかのマージンを売ってくれた知り合いに渡す。
知り合いが知り合いに販売して更にその知り合いが別の知り合いへ……チューチューと増えるマージンにより、貴方は寝ているだけで金が転がり込みます!
なんて夢のような触れ込みで“ケガハエール”は貴族達の間で飛ぶように売れた。
しかし夢は夢である。
かなり多くの子ネズミが儚く散ってしまったようだが、父は貴族が整理出来て丁度いい流石は次期宰相だと笑っていた。

大層な浪費家の彼女の隣は、途方もない金が必要なのだから仕方がないではないか。
女神の背を懸命に追いかけ、気付くと目の前にあったのは—————悪の華道である。
俺は迷うことなくその道を進む。
彼女へと続くその道をただひたすらに。




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