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第二十八話 酒と涙目とエミリと魔王

ずっとエミリのター……え? コータのターン!?


正直、少しやり過ぎたとは思っています。


 世界全体という大きな括りで見れば『幸福の総量』というものは、増える事も無ければ減る事も無い、一種のゼロ和であると言えるのではないだろうか。


 ゼロ和とは、複数の参加者が相互干渉する中で、利得の総和がゼロになる状況を指すゲーム理論の考え方だ。何となく小難しい理論の様に聞こえるが、かいつまんで説明すれば何も落ちていない道路上で『百円落とした人』と『百円拾った人』がいる場合、差し引きで道端に落ちているお金はゼロであり、百円得した人と百円損した人の財布の中身は、足してみれば落とす前と変わっていない、とまあ、こう言う理論の事だ。下衆な言い方をするのであれば、他人の不幸は蜜の味、である。

それでは振り返ってこの数日間の浩太と愉快な仲間達の行動を振りかえって見よう。まず、初日の夜。エリカと共にカジノで豪遊……と言う程、豪遊では無いがまあ少なくとも楽しい夜は過ごした。その後はソニア失踪事件で多少のゴタゴタはあったものの、何とか無事解決。翌日、つまり二日目の昼はコータはソニアと共に街のケーキ屋さん巡りの旅に繰り出した。『そ、その……コ、コータ様? あ、あーん……して、ください』なんて、本人はいざしらず、周りの人々から生暖かい&刺す様な眼を向けられるイベントもあった。エリカは本人に自覚ありでコータにベタ惚れ。ソニアにしても、まだまだ『愛情』と呼べるほど深くはなくとも、少なくとも『親愛』レベルでは浩太に好意を寄せており……まあつまり、彼女達にとっては十分『幸福』な出来ごとであった訳である。先程のゼロ和理論で考えれば、彼女達の『幸福』はある一人の女性の『不幸』……というか、我慢と犠牲と運の無さの上に成り立っているとも言えよう。

 さて、それでは思い出して欲しい。二日目の昼、浩太とソニアのデートは『美味しいケーキ屋さんに行きたいです』なんていう、ソニアのそれはそれは子供らしい可愛い『我儘』でもたらされたイベントである。あるがしかし、その前日の夜、『ソニアもどっかに連れてって上げて』とそもそも浩太に頼んだのはエリカだ。あんな事件があり、エリカやエミリに取って、甚だ不本意にもソニアの浩太に対する好感度は上がったが……まあ言ってしまえば予定調和。成るべくして成ったイベントなのである。


「……」


 カラン、とグラスの氷が音を立てる。琥珀の液体をグラスの中で軽く遊ばされる様にカラカラと手遊ぶ妖艶な美女。胸元の大きく開いた黒のナイトドレスに豊かな胸と、肩まで伸びた髪をアップにしてうなじを惜しげもなく魅せていた。店内に居る男共の視線を一身に集めながら、女性は退廃的な色を瞳に浮かべ、グラスを眺める。口元に引かれた紅いルージュから、色っぽい息が漏れた所で、ガタンと遠くの方で椅子が鳴る。

「失礼ですが、レディ。私に一杯奢らせて頂けませんか?」

 その声に、気だるげに視線を向けて彼女は溜息を一つ。

「結構です。奢って頂く理由がありませんので」

「いえ、この言い方は正確ではありませんでした。このパルセナで、貴方の様な美しい女性に出逢えた事を感謝して『運命の女神』に一杯、奢らせて頂きたい」

 芝居がかった様にそう言って、見目麗しい……まあ、一般的な感性の女性で有れば声を掛けられても悪い気がしない程度の整った容姿の男性はぐるりと店内を見回し。

「……しかし残念ながら、この店内に女性は貴方しか居ない。ですので『運命の女神』の代理として、貴方に奢らせて頂きたいのですが?」

 そう言って、断りもなく隣のスツールに腰を降ろす。

「申し訳ございませんが」

「そう仰らず。ウーズ教は言っているではありませんか。『己を認め、他者を認めろ』と。これは私の信仰心です。どうかレディ、私の信仰心を満たす為にお願いできませんか?」

「ウーズ教は他者に強制をするな、とも教えている筈ですが?」

「そうですね。ですから」


 そっと、耳元に口を寄せ。


「貴方が私のお酒を飲みたいと……そう思って下されば、解決です」

 ウインクのおまけ付き。恐らく、この男の常套手段なのであろう。甘いマスクに、神様まで持ち出してまでの懇願。端から素面で見れば随分と歯の浮く様な、或いは『くさい』台詞であるが、薄暗い店内で、イケメンに囁かれればまあ悪い気はしない。というか、イケメンは基本的にくさい事をしても許されるのは世界のみならず、異世界でも共通なのだ。

「……そうですね」

「おお! それでは……」

「ですが、先に私の信仰心を……私の信じる神に、この出逢いを感謝させて頂けますか?」

 少しだけ上目遣いで、潤ませる。その瞳に、思わず男の喉がごくりとなった。

「も、勿論ですとも。さあ、貴方の望む信仰を――」

「マスター。こちらの方にこの店で一番高く、きついお酒を。樽でお願いします」

「承知しました」

「――……え?」

「私は酒の神を信仰していますので。この出逢いを酒の神に感謝する為、貴方に飲んで頂きたいのです…………一気で」

「い、一気!? 一気って……一気?」

「ええ」

 どうします? とこくんと小首を傾げる美女。

「……失礼しました」

 すごすごとスツールから腰を上げ、店の外に続くドアの扉を押しあける男。その男の姿をちらりとも見ようともせず、再びグラスに視線を落としかけ――

「……っと、すいません。不注意でした」

 男が出て行こうとしたドアから聞こえる声に、美女の首がもの凄い勢いでドアに振り向かれる。先ほどまでの気だるげな仕草とは一転、その余りに素早い動きに店内に居た男性達はあんぐりと口を開けた。

「コータ様!」

 花が咲いたようと形容できる様な、満面の笑み。先ほどまでの美女と本当に同一人物か? と男達がありもしない幻想を抱いた辺りで、浩太がエミリの席まで辿りついた。

「と……あ、エミリさん。すいません、お待たせして」

「い、いいえ! 全然! 全然、待ってなどおりません!」

「隣、座っても?」

「も、勿論です! あ、な、何を飲まれますか?」

「えっと……それじゃ、エミリさんと同じモノを。あ、『駆け付け三杯』はいりますか? いるのなら少し弱いお酒を先に頂きたいのですが」

「かけつけさんばい? なんでしょうか、それは?」

「遅れて来た人間は、一気飲みで三杯飲むという……まあ、宴会ルールでしょうか?」

「一気飲みなんてとんでもありません! 体に悪いです。どうか……御自愛を」

 

 ……後に、美女――エミリにこっぴどく袖にされた男は、仲間内で語ったという。



『なんだろう? ほれ、凄く躾された飼い猫を見た気分。え? 分かり難い? 『ほーら、餌だよ~』なんて可愛がろうとするけどガン無視されてさ。その癖、飼い主が帰ってきたら急に今まで見た事無い様な仕草でにゃーにゃー甘えてる姿を横から見せつけられて指を加えてる様な……分かってるよ、この説明も分かり難いって! でもな? 『あ? おら、一気飲みしてみせろよ?』って言ったその舌の根も乾かない内に『一気飲みなんてだめですよぉ。体、心配だもん!』なんて別の男に言われてる姿を見て見ろ! こんな説明しか出来ねーよ!』



 ……要するに、アレである。



 二日目夜は、エミリのターンと……まあ、そういう事だ。



◇◆◇◆◇◆


「エミリ、今晩暇?」

「エリカ様?」

 ソニアと浩太のデート(というか、お買い物)を歯ぎしりしながら護衛し、色々な意味で疲れていたエミリの下をエリカが訪ねたのは買い物が終わってから二時間程経った頃。

「暇か、と問われれば……まあ、暇ですが」

 ちらり、と視線を机の上に向かわす。浩太程では無いにしろ、エミリも十分ワーカーホリックの気がある。机の上には所狭しと並べれた仕事の資料が散乱していた。

「……貴方も? いい? 旅行の時ぐらいは少しは気を抜きなさいよ」

「いえ、別段気を抜いていない訳では無いのですが」

「……ま、いいわ。それより暇なのよね?」

「はあ。まあ……」

 終わらせていた方が良いが、かといってどうしても今日に明日にやって仕舞わなければいけないモノでも無い。

「そうですね。予定は今の所ありませんが」

「そう……そう……よね。バカンスだもん。予定なんて無いわよね……」

「……エリカ様?」

 訝しむエミリの視線に頭を上下に振ってあーうーと苦悶の表情を浮かべるエリカ。と、急にそのエリカが口を開いた。

「……ああああーーー! 分かった! 分かったわよ! エミリ! 貴方今日、コータとデートしてきなさい!」

「……」

「……」

「……は?」

「だから、デート! もうお店の予約もしてるから!」

「お、お待ち下さいエリカ様! え? ……え?」

「その……貴方、パルセナに来てから全然『ゆっくり』してないでしょ?」

「……それは」

「私はコータとカジノに行ったし、ソニアはソニアで今日はコータを一人占めしてたし……その、貴方だけコータと全然二人の時間が取れてないかな~って」

 そっぽを向き、頬を赤く染めながらごにょごにょと口の中で良く聞き取れない言葉を呟くエリカ。

「……」

「……な、なによ」

「……」

「……ちょ、ちょっと! 何とか言いなさいよ。その、エミリがイヤなら、別に良いのよ? わ、私が行くし!」

 エリカはコータに愛情を抱いている。エリカが暮らして来た家庭環境――王族に生まれ、辺鄙な土地の領地を与えられ、頼るべきものも無い中で懸命に生きて、『戦って』きた経緯を斟酌すれば、颯爽と登場! とは言い難いも、それでもエリカを影に日向に支えた浩太に父に対する、或いは兄に対する愛情の様な愛もある。あるが、それでも勿論男女の愛だってある。

「……よろしいのですか?」

「……諸手をあげて行ってらっしゃい、とは言い難いわよ、正直。でも……エミリだって楽しんで欲しいし」

 自分の想い人が別の女と、それもすこぶる付きの美女と深夜のデートだ。エリカだって平静を保てる訳ではないが……それでも、ある意味では『家族』以上に接してきて、接してくれたエミリにもこの旅行を満喫して、楽しんで欲しいと言う思いも……自分達だけ『幸福』である事に対する罪悪感もある。良くも悪くも、善人なのだ、エリカは。

「……」

「……どうする?」

「……それでは、お言葉に甘えて」

 そう、とあからさまに肩を落とし……それでもどことなく『ほっ』とした表情を浮かべるエリカに、対照的に苦笑を浮かべるエミリ。まあ、そうは言ってもそこはエリカも乙女。ある程度以上の嫉妬も、あわよくば自分が! という想いがあってもそれを持って責めるのは酷であろう。

「で、でも! いい、エミリ? 明日はテラに帰る日何だからね? その、あんまり遅くまで――エミリ? なに、その黒のナイトドレス。貴方それ、『殿方の視線が痛いので着るのは少し……』って言ってたドレスよね? って、ルージュ? 普段貴方、ルージュなんて……なによ、『うなじは魅せた方が色っぽいでしょうか?』って! ちょ、エミリ! 聞いてるの!」


◇◆◇◆◇◆


 ……とまあ、こんな会話があって今に至る訳である。エミリ的には超が上に四つも五つも付く程、気合を入れた恰好なのだ。エリカには悪いが、正直求められれば行く所まで……なんて、下世話な想像もしていた。


 ……していた、のだが。


「あれ? エミリさん、グラスが開いてますよ?」

 さして広くは無い店内だが、今はガラガラに空いている。まあ、元々『隠れ家』の様なお店でもあり、常連さんが通う店ではあるのだが、それ以上に先程の『エミリの中の人が入れ替わった』説にお客さんがあてられて……まあ、何だか馬鹿らしくなって皆返ってしまったのである。お陰で貸し切りの様な雰囲気になってしまったが……『ここで一旗あげる!』と意気込んだエミリにとっては好都合といえるだろう。

「そ、そうですね! そ、そそそれではマスター! 同じモノを!」

 言えるのだが……カクカクと、まるでロボットの様な動きを見せてマスターにグラスを掲げるエミリ。その姿に、若干以上に訝しげな視線を向ける浩太。当たり前だ。

「エミリさん? その……大丈夫ですか?」

「な、なにがでしょうか!」

「いえ、なにがと言われましても……」

 空気を読む事には定評のある浩太だ。『いや、貴方の動き挙動不審すぎるんですけど?』とは流石に言わない。

「だ、大丈夫でし! ではなく、大丈夫です!」

 実は、エミリと浩太は実は驚くほど接点が少ない。少ないというと少し語弊があるが、まあ少なくとも『二人きり』で過ごす事は……エリカや、後発組のソニアより少ないのである。しかも、場所はムード満点の、旅行先の落ち着いたシックな感じのバー。経験値はエリカやソニアとそう変わり無いエミリにとって、この『少し大人な良いムード』は、若干ハードルが高く……要は、彼女にしては非常に珍しく、思いっきりテンパっているのである。

「その、本当に心配いりません。そ、その、恥ずかしながら少しきん――」

「その……やはり、私と二人で飲みに来るのはつまらない、でしょうか?」

「――ちょうして……え?」

 浩太の言葉に、エミリがポカンとした顔を浮かべるも、浩太はそれを気にした風も無く言葉を続けた。

「エリカさんから『エミリの息抜きに付き合って上げて』と言われて、役者不足とは思いながら参上した次第ですが……やはり、私と一緒に飲むのは――」

「……少々お待ち下さい。何ですか、『やはり』とは?」

「いえ……エミリさん、私の事を……その、あまり好きではないでしょう?」

『貴方は何を見ていたんですか!』と思わずテーブルを叩きつけたくなる衝動を意志の力で抑え込み、エミリは浩太に問いかける。額には青筋が浮いていたが。

「……何故、そう思われるのです?」

「何故って……だって、出逢いは最悪でしょ?」

「そこからですか!」

 思わず頭を抱えてテーブルに突っ伏す。本当に、この男は何を見ていたのだろうか、と抱えた頭を持ち上げ、浩太に胡乱な視線を飛ばすエミリ。

「え、エミリさん?」

「……断っておきますが、別に私はコータ様の事を嫌ってなどいません」

 むしろ、大好きですと言えたらどんなに楽かと思いながら、そこまで思いきれないエミリ。

「そうなんですか?」

「……むしろ、何故そうなんですかと問われる意味がさっぱり分かりませんが」

 手元のグラスの中身をぐいっと一息に飲み干し、マスターに『同じモノを』と頼むエミリ。既に目が結構ヤバい。

「え、エミリさん? その、一気飲みは……」

「コータ様? グラスの中身が減って無い様ですが?」

「あ、はい! その、ゆっくりいただき――」

「……ゆっくり?」

「って、エミリさん!? さっき、一気は体に悪いって――」

「…………なにか?」

「一気、ですよね!」

 ぐいっと一息にグラスの中身を飲み干し、むせる浩太。そんな浩太に満足そうに頷き、『彼に同じモノをもう一杯』と注文するエミリ。

「え、エミリさん? その、このお酒、一気する様なお酒では……」

「駆け付け三杯、やってませんでしたよね?」

 恐怖に引きつる浩太にふん、と拗ねた様にそっぽを向き、グラスに……今度は少しだけ口をつけるに留める。

「……その……確かに、私も最初は態度が悪かったです。認めます。認めますが……」

「……その、申し訳ございません」

「謝らないで下さい。大体……私の態度を見ていたら大体分かりそうなものですが」

 そっぽ向いたまま、頬を少しだけ膨らませるエミリに苦笑を見せる浩太。

「……何と言いますか……その、苦手なんですよ」

「苦手?」

「人の好意というモノが」

 マスターから渡されたグラスに『どうも』と頭をさげ受け取り、口をつけて。

「……ああ、いえ、『愛され慣れていない』など悲劇の主人公を気取るつもりは無いんですが……その、私は人間として非情に『薄い』ので」

「何処がですか。十分『濃い』ですよ、貴方は」

「そうでもないですよ」

 もう一口、グラスに口をつける。

「憚りながら、私が勤めていた職場は……まあ、世間一般的には『有名企業』というモノに分類されていまして。そこで働いていた同期や先輩というのは……まあ、結構『濃い』んですよ」

「……」

「そういった同期達に比べて、私は人に誇れる程魅力的なモノは何もありません。先日はエリカさんと一緒にカジノに行きましたがボロ負け。スポーツも……まあ、ソニアさんの件で分かる通り、私は運動神経もそんなに良くないです」

「ですが……テラを発展に導いてくれたではないですか!」

「誰でも出来ます、あれぐらい」

 ぐいっと、もう一息。

「そんなこと――」

「ああ、言い方に語弊がありました。勿論、『誰でも』とは言いません。言いませんが……私の同期だけで考えても、私の職場には私程度の能力を持つモノは掃いて捨てる程います。それこそ、私がしたよりももっと上手に立ち回れる人間が」


 そう言って、最後の一息。


 残っていたグラスを一息で飲み干した浩太に。


「――って、エミリさん! 何で一気飲みするんです!」

 持っていたグラスを一息で飲み干し、ダン、と叩きつけてエミリは浩太を睨む。

「――っ! 私は! 私は……エミリ・ノーツフィルトは、貴方で良かったとそう思っています!」

「え、エミリさん?」

「貴方以上に優秀な人間が、貴方以上に立派な人間が、貴方以上に魅力的な人間が……そんな人間がいたとしても!」


 ……仮に。


 世界中の誰もが、『浩太よりもこちらが優秀だ』と、そう認めたとしても。


「私が……私が一緒に歩みたいと! この人と共に、未来を夢見たいと思ったのは……コータ様! 貴方だけです!」


 そう言って、マスターに『もう一……二杯!』と告げるエミリ。間髪入れず、エミリの手元にグラスが運ばれ、一つを手に取り、もう一つを浩太に手渡す。

「え、エミリさん?」

「飲んで下さい!」

「へ?」

「で、ですから! 一気で!」

「い、一気って――もがっ!」

 躊躇う浩太の口に無理矢理グラスを押し付け、嚥下させる。普段のエミリでは絶対にやらないであろうその行動に眼を白黒させる浩太に構わず、エミリは浩太に酒を飲ませ続けた。

「げほ……けほ……」

 やがて、グラスが空になった事を確認し、エミリは自分のグラスに口をつける。ごくり、ごくりとその綺麗な形の喉を動かし自らのグラスを空にして。

「で、ですから……そ、その……」

 ちらりと視線をカウンターの向こうに。そこでは空気を呼んだか、マスターがバックヤードに引っ込む姿が見えた。流石、プロ。

「そ、その……ですから!」


 おもむろに立ち上がり、一息。



「私が、エミリ・ノーツフィルトが慕う男性を悪く言うのは、やめて下さい!」



 静寂が、さして広く無い店内に落ちる。



(や……)

 すとん、とスツールに冷静に腰をかけ。


(やってしまいましたーーーーーーーー!)


 脳内でエミリは自分の頭を掻き毟る。


 悔しかったのだ、エミリは。


 紆余曲折はあったものの……それでも、テラは発展し、エリカの顔に笑顔を戻らせ、自らの進むべき道に迷った時に、背中を押してくれた恩人が、弱音を吐くその姿が……見ていて、あまりに辛かったから。


(だ、だって! コータ様があんまりにも分からない事を言うんだもん!)

 言い訳を……誰に聞かれる訳でもない言い訳を繰り返しながら、エミリは浩太の方を見ない様にそっぽをむく。何で? 恥ずかしくて見れないからだ。

「……エミリさん」

 不意に、その静寂を破る声が響く。勿論、声の主は浩太。

「な、何でしょうか」

「もう一度、言って貰えます?」

「い、イヤです!」

「何故?」

「何故って……だ、だってそんなの……」

「お願いですから、もう一度」

「い、イヤです! イヤなモノは嫌です!」

「お願いです」

「し、しつこいです! イヤなモノは――」

 そう言って、観念したように浩太に向き直り。


「……ね? お願い」


 ニヒルに微笑む、浩太の姿を見た。



 ……眼がすわっている、浩太の姿を。



「こ、コータ様?」

「ね? いいでしょ、エミリさん。ほら? エミリさんは私の事、どう思ってるんですか?」

「ど、どうって――ひゃ! こ、コータ様! か、髪! 髪に手が――」

「ん~? 触ってるんですよ~?」

「さ、触ってるって――ひゃ!」

「エミリさん、かわいい~」

「か、かわいい!? そ、そ……きゃ!」

 隣同志のスツール、それこそ恋人席の様なものである。当然二人の体は近いし、まあ……その、望めばスキンシップなんてしたい放題である。

「や、やめてください!」

「エミリさんが私の事どう思ってるか教えてくれたら、止めて上げる」

「そ、それ……は……」

「それは?」

「そ、その……お、お慕い……申し上げて……ひゃ! こ、コータ様! 約束! 約束がちがいます!」

「触るのやめましたよ~? 今はエミリさんの髪に顔を埋めてるんです」


(き、緊急事態! 緊急事態です! 魔王、覚醒しました! 繰り返します! 魔王、覚醒しました! これは演習ではありません!)

 

 エミリ、パニック。パニックの割にはある程度余裕がある様に見えるのは……まあ、そこに好意があるからであろう。

「エミリさんって、凄くいいにおいがする」

「こ、コータ様? そ、その、は、恥ずかしい……で……す」

「誰も見てませんよ?」

「そ、それは……その! ま、マスターが!」

 天啓、閃く。視線だけをマスターの消えたバックヤードに向けるエミリ。そこには丁度、バックヤードから姿を見せるマスターの姿が。


(ああ、神様! 見捨てて無かった! 貴方は私を見捨てていなかった!)


 安堵。圧倒的安堵がエミリの胸に広がる。助かった、とそう思ったエミリ。

「……」

 マスター、しばしの間硬直。それはそうであろう。なんせ、『そろそろ終わったか?』と思って出て来てみれば、男は女の髪に顔を埋めており……女の方は涙目になりながら、それでも満更でも無さそうな顔をしているのである。本人同士はどうであれ、客観的に見ればとても良い雰囲気である。

「……ごゆっくり」

(ますたーーーーーー! 仕事してください!)

 空気を読む事に定評のある浩太並に、空気を読んだマスター。黙って先程のお酒を二杯、テーブルに置いて再びバックヤードに戻った。どうやらエミリの下に降りた神は尻尾と角が生えた神だったようで。

「んー……なに、エミリさん? 私にこうされるのイヤなんですか?」

 嫌がるエミリの姿に、少しだけ拗ねたような視線を向ける浩太。

「い、いえ、そ、その……い、いやという訳では……」

 その視線に母性本能が刺激され、胸の鼓動が速くなった事を自覚しながら目を逸らすエミリ。と、その顔がぐいっと浩太によって元の位置に戻される。

「そっち向いちゃ、だーめ」

「あ、え、ちょ! こ、コータさま! ち、近い! 顔が近いです!」

「ん~……近いの、いや?」

「い、いや……じゃ、ない……です」

 そのエミリの台詞に、安心しきった笑みを見せる浩太。エミリの鼓動がもう一段、早くなる。

「こ、コータさま! そ、その、しょ、正気に……正気に戻って下さい!」

「正気~? 大丈夫、大丈夫。私、正気」

「ど、何処がですか!」

 ……まあ、何処の世界にも酔っぱらうと気が大きくなる人というのは居るものだ。浩太もご多分に漏れず、酔うと結構はしゃぐタイプであり……性質の悪い事に、酔うとべたべたしたがる『甘えたがり』だった。セクハラ一歩手前……というか、まんまセクハラなのだが……御存知だろうか? セクハラはされた側の胸先三寸で決まるのである。

「正気、正気。エミリさん、私の事好きってちゃんと覚えてますもん」

「もんって! そ、それにす、すす好きとは言ってません!」

「え~……エミリさん、私の事、嫌い?」

「き、嫌いでは――」

「じゃあ、好き?」

「……そ、その……」

「どう?」

「そ、その……す、好き……です」

「愛してる?」

「あ、あい!?」

「どうなの?」

「あ……あ、愛して……いま……す」

「ん~!」

 満足そうに頷き、コータが再びエミリの髪に顔を埋める。

「――っ! そ、そうです! コータ様!」

「な~に?」

「わ、私のき、気持ちは聞いて頂きましたが……こ、コータ様は、ど、どうなのですか?」

 エミリの逆襲。自分ばかり恥ずかしい言葉を言わされたのが悔しい気持ちもあるにはあるが……それ以上に、どう思われているか知りたい乙女心もある。何より、この環境から一刻も早く逃げ出したい程テンパっての一言。が。

「……エミリさん、今日の服、可愛いですね~」


 魔王に、『逃げる』は通じない。


「か、可愛いって! そ、その……ありがとう……ございます……で、ではなくて!」

「でも……ちょっと不満ですね」

「……え?」

 エミリの顔からさーっと血の気が引く。気合を入れた服装であるし、何よりコータに気に入って貰おうと思って着て来た服だ。『恋する女の子』として、今の言葉は聞き捨てならない。

「そ、その……に、似合いませんか?」

「ううん。凄く似合ってます。似合ってますけど……」

「ひゃ! こ、コータ様! う、うなじ! うなじを触らないで下さい!」

「こんな艶っぽい服来て、外歩いて欲しくないな~」

 コータの言葉が耳朶を打ち、脳天を駆け、その言葉が正しく認識されるに至ってエミリの顔にかーっと血が昇る。

「え、えっと、そ、それ、は、そ、そ、そそそそのいわゆるひとつの、その、あの!」

「うん、独占欲」

「――――――っ!」

 恐らく此処が自室であれば枕に足を埋めて足をバタバタさせていただろう、甘美な台詞。破壊力は抜群だ。

「ねえ、エミリさん。何で今日はこんな服装なの?」

「そ、それは……そ、その……」

「ナンパとか、一杯されたでしょ?」

「そ、その」

「ん?」

「……い、一回だけ」

「……ふーん」

 不満げな浩太の声にエミリの顔に昇った血がさーっと引いて行く。赤に青にと忙しい。

「そ、その! コータ様――ひゃ!」

「どんな男?」

 耳元で浩太の吐息。思わずそのむず痒さに身を捩り……不幸な、或いは幸運な事に、浩太の唇が耳に触れる。

「――っ!」

 声にならない声がエミリの口から漏れるも、浩太は気にしない。

「ね? どんな男? 格好良かった?」

「あ……その……」

「ね?」

「……あ、はい」

「……ふーん」

「で、でも! こ、コータ様の方がずっと、ずっと魅力的です!」

「うん、知ってる」

 ノータイムで打ち返される浩太の言葉。思わずポカンとなるエミリ。

「……え?」

「うん? 違うの?」

「ち、違いません!」

「ですよね~。それじゃ、エミリさん、復唱~」

「ふ、復唱?」

「エミリはコータさまが大好きです」

「こ、コータ様! そ、それは!」

「言ってくれないの?」

「い、いえ、そ、それは……」

「ね? お願い?」

「う、ううう……え、エミリは……こ、コータさまが……だ、大好きです」

「エミリはコータ様を愛しています」

「あう! え、エミリは……こ、コータ様を、愛しています」

「エミリは、コータ様のモノです」

「こ、コータ様! そ、それは流石に!」

「ん~?」

 埋めていた髪から顔をあげ、悪戯っ子の様な笑みでエミリを見やる浩太。対してエミリは涙目で……それが余計に魔王へと覚醒した浩太の嗜虐心を煽りに煽る。

「う……ううう……え、えみ、エミリは……コータ様のもの……です」

 羞恥で顔を真っ赤に染めるエミリに満足そうに頷き、コータはもう一度エミリの髪に顔を埋める。

「ねえ、エミリさん……何で今日はこんな恰好なの?」

「そ、それは……その……」

「こんな艶っぽい格好して……期待、した?」

「! そ、それは!」

「ねえ?」

「そ、その……コータ様、もう……」

「……ねえ?」

「…………はい」

「……えっち」

「―――――――!」

 羞恥で人が死ねるのであれば、既にエミリは何度も死んでいるだろう。が、人間は羞恥で死ぬようには出来ていない。

「……わ、わるい……ですか?」

「ん?」

「そ、その……コータ様と……す、少しぐらいって、き、『期待』したら……駄目、ですか?」

「……」

「……」

「……そ、その……こ、コータさま?」

「……エミリさん」

「は、はい!」

「可愛すぎだろう、お前」

「お、お前? こ、コータ様? 今、お、『お前』って」

 何時もは丁寧な浩太らしからぬその言葉に、思わずエミリが顔をあげる。

「……あ」

 何時も同様に、優しい笑みを浮かべる浩太の眼と眼があった。

「そ、その」

「なに?」

「わ、私、その、は、初めて……」

「だから?」

「だ、だから、そ、その!」

「……うるさいな~、エミリさん」

「う、うるさいって、ひゃぁ!」

 そっと、浩太の手がエミリの頬に添えられる。ひんやりとしたその手に、思わずエミリの体が強張って。

「そんな五月蠅い唇は、ふさいじゃいましょう」

「ふ、ふさぐ! こ、コータさま! そ、それ!」

「はい、眼を閉じて?」

「そ、その……は、はい!」

 言われるがまま、エミリは瞳をぎゅっと堅く瞑る。経験値ゼロのエミリ、ココはコータに任せた方が良いという判断と……

(は、初めてのキスは、す、好きな人にリードして貰うって決めてました!)

 ……なんて、乙女な考えだ。一応言っておくが、エミリも結構酔っている。浩太程ではないが。

「……」

「……」

「……」

「……こ、コータさま?」

「……」

「え、えっと……」

「……すー……」

「………………ええ。ある程度、予想はしていましたが」

 眼を瞑ったままの体勢ですーすー寝息を立てる浩太に残念な気持ちと、それに少しの安堵を込めて溜息をつく。

「……終わりましたか?」

「……マスター」

 ひょっこりバックヤードから顔だけ出すマスターに、エリカは少しだけ恨みがましい視線を向ける。その視線を受け、ひょいっと肩を竦めて見せるマスター。

「……良い仕事をした、と自負しておりますが?」

「……もういいです」

 諦めた様に溜息をつき、勘定をすませようとして……はたと気付く。

「コータ様……どうすれば宜しいのでしょうか?」

 もうすぐ閉店ですよ、と声をかけられ途方にくれるエミリの視線には、気持ち良さそうに寝息を立てるコータの姿があった。







 ……ちなみに。


 千鳥足の見本の様な歩き方で何とか宿に辿りついた浩太に翌朝、『すいません……あの無理矢理一気させられてから、全く記憶がないのですが……私、何か失礼な事をしていませんか?』なんて告げられて結構本気でエミリが凹み、少しの間ぐれたりもしたが……本筋には全く関係ないので割愛させて頂く。



パルセナ編、終了です。ギャンブルに弱く、喧嘩に弱く、酒に弱い魔王様でした。次回からはシリアスなので箸休めです、エエ。


……休んでばっかりでしたけど、この三つ。

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[気になる点] 誤字報告です 『エミリの中の人が入れ替わった』説の後の まあ、何だか馬鹿らしくなって皆返ってしまったのである。 →「帰って」が「返って」になってます
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