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第97話 聖なる力

 この世界、この時代で30年以上も生きていれば、死にそうな目には何度も遭う。

 記憶に新しいのは、つい最近の2回である。1度目は、北の戦災地でダルーハ軍残党による袋叩きの暴行を受けた時。

 2度目は、ガイエル・ケスナーがこの教会に押し入って来た時だ。

 もちろん、無法を働くために押し入って来たわけではない。彼はただ、複数の怪我人を運んで来ただけだ。

 それだけで、しかし司教レイニー・ウェイルは生きた心地がしなかった。安らかに唯一神の御下へと召される事だけを、ただひたすらに祈ったものだ。

 ダルーハ軍残党を、まるで掃除でもするかの如く殺し尽くした赤き怪物の姿で、ガイエルは言った。治療を頼む、金が必要ならば後で払いに来る、と。

 金はいらない、と応えるのがレイニーは精一杯だった。

 ガイエルがこの教会に運び込んだ怪我人は5名。全員、死体寸前の状態であった。

 レイニーはエミリィ・レアに救援を乞い、数日がかりで癒しの力を行使した。レイニー1人では、瀕死の5人を助ける事は出来なかったのだ。

 まずガイエル・ケスナーがいなかったら、5人とも死んでいた。

 命に対する敬意も何もなくダルーハ軍残党を虐殺した赤き魔人が、人助けをしたのである。

 人助けのために現れたガイエルを、しかしレイニーは恐れた。

 あの赤色の異形が、罪人を罰するために時折、恐ろしい怪物の姿で天下るという唯一神の伝説を思わせたものだ。

 あの時のガイエル・ケスナーよりは遥かに安全な、しかしレイニーにとってはあまり歓迎したくはない客人が今、サン・ローデル地方教会の礼拝堂で、尊大な事を言っている。

「救いを求める人々に、一切の差別例外なく唯一神の御加護をもたらす事……それが大聖人ローエン・フェルナス以来、我らが守り続けてきた教義であるはず」

 小柄な身体を唯一神教の法衣に包んだ、どこか役人的な中年男。

 レイニーも、辛うじて顔と名前を一致させる事は出来る。カルツ・ナード司祭。大司教クラバー・ルマンの取り巻きだった男で、癒しの力の類は全く使えない、政治的にローエン派を支える聖職者の1人である。

「しかるにレイニー司教、貴方は救いを求める者を救おうとなさらない……困窮せし者たちの求めを拒み、彼らを唯一神の加護なき状況の中へと放置したまま己の保身を図った。そのような訴えが、王都中央大聖堂に届いております。如何に?」

「なるほど……私の罪を糾弾するために、わざわざ中央大聖堂より来られたというわけですかカルツ司祭」

 レイニーは、うっかり溜め息をついてしまうところだった。この男は相変わらず、クラバー・ルマンの使い走りのような事をしているらしい。それは即ちアマリア・カストゥールの使い走りをしているという事だ。

 豪奢な天使の像があちこちに飾られている広い礼拝堂の中に、今はレイニーとカルツしかいない。礼拝の時間ではないので、何列も並んだ長椅子には誰も座っていない。聖職者2名の立ち話が、広大な礼拝堂に寒々しく響き渡っている。

 この広くて豪奢なだけの礼拝堂は、前任の司教であるディラム派聖職者の趣味によるものであろう。金権宗教に堕ちたディラム派を象徴するような建物である、とレイニーは常々思っていたところだ。

 今のローエン派はそれに近いところまで堕ちつつある、とも思いながらレイニーは言った。

「その訴えを起こしたのはゲドン家の方々でありましょう。確かに彼らは、私に助けを求めてきました。暴虐非道のエルベット家を打倒し、サン・ローデル地方の民を救うため、ローエン派の力を貸して欲しいと」

「それを、貴方は拒んだ」

「当然でありましょう。叛乱に力を貸せるわけがありません。ローエン派の教義を云々する以前の問題です」

 サン・ローデル地方前領主バウルファー・ゲドン侯爵の親族が、実権を失いながらも根強い残党勢力となって、現領主エルベット家への復讐を企んでいる。クラバー大司教はそれを利用し、エルベット家を打倒せんとしている。エルベット家が倒れれば、現国王ディン・ザナード4世は一気に力を失う。

 即ちローエン派は、ヴァスケリア王国の転覆を目論んでいる。

 バルムガルド王国による後ろ楯があった頃は、レイニーも思っていた。ローエン派の仲介によって平和的にバルムガルドの支配を受け入れる事が、ヴァスケリアの民にとっての幸福となり得ると。

 が、いかなる理由でかバルムガルドが国家としての機能を失い、ローエン派への援助どころではなくなってしまった。

 後ろ楯を失ってなお、ローエン派の中枢にいる者たちはヴァスケリアの乗っ取りなどを企てている。中枢にいる者たちとは要するに大司教クラバー・ルマン、そしてアマリア・カストゥールと、その取り巻きの例えばこのカルツ・ナードのような輩である。

(マディックよ、今ならわかる。君の思いが……)

 ローエン派の腐敗を声高に叫んで破門された若き聖職者を、レイニーは思った。

 マディック・ラザンは今、サン・ローデル領主リムレオン・エルベット侯爵の命令を受け、バルムガルドへと調査に赴いている。危険な任務である。己の身を危険に晒している彼に比べて、自分レイニーやこのカルツといった者たちの、何と卑しく汚らしい事か。

 安全な場所で平和主義の綺麗事を口にしながら、世俗の権力への妄執を燃やす。それが、今の唯一神教ローエン派なのである。

「レイニー司教、貴方とてわかっておられるはず……エルベット家は、唯一神の大いなる罰を受けなければならぬ者どもであると」

 カルツが言った。

「リムレオン・エルベットがいかなる手段をもってサン・ローデルの領主となったのか、ご存じないわけではありますまい? 不当なる暴力によって領主の地位を追われたゲドン家の方々に、ローエン派としては出来る限りのお力添えをするべし。これは大司教猊下の御言葉でありますぞ」

 大司教ではなくアマリア・カストゥールの言葉であろうが。とまでは言わず、レイニーは言葉を返した。

「ゲドン家の方々はおっしゃった。エルベット家との戦の際には、我が軍の兵士たちのために癒しの力を用いて欲しいと」

「何故それを拒むのです。貴方の癒しは、戦に携わる者たちを差別するのですか? 彼らとて唯一神の恵みを等しく受けるべき民である事に違いは」

「そもそも戦など起こしてはならぬ。これも唯一神の教義云々以前の問題であろうが」

 レイニーはついに、敬語を保てなくなった。

「ここサン・ローデルは、リムレオン・エルベット侯爵様によって大過なく治まっているのだ。叛乱の戦を起こしてまで改めなければならぬものなど、何もない。起こさなくとも良い戦のために癒しの力を貸せなどと、承服出来るわけがなかろう」

「……エルベット家に手懐けられてしまったようですな、レイニー司教ともあろう人が」

 カルツ司祭の口調にも、はっきりと敵意が宿った。

「そもそも貴方がここサン・ローデル地方教会に配属されたのは、エルベット家を我らローエン派に取り込んでエル・ザナード1世女王の勢力を削ぐ使命を与えられての事であったはず……その使命を果たせず、逆に取り込まれてエルベット家の専属聖職者のようになってしまわれた。哀れなるかなレイニー・ウェイル司教殿、貴方には唯一神の罰が下るであろう」

 言いながら、カルツ司祭が1歩、後退した。右手を、偉そうに掲げながら。

 その右手の中指で、指輪が光った。蛇が巻き付いたような意匠の、指輪である。

 それがいかなる物であるのかは、まだわからない。だが1つだけ、わかった事がある。

 カルツ・ナードは、まさに唯一神の罰をレイニーに下すべく、中央大聖堂から派遣されて来たのだ。

「私が暴虐を働くわけではないぞレイニー司教。唯一神が貴方に、罰をお下しになるのだ。そこをお間違えなきように……」

 蛇の指輪が、光を発した。

 その光がインクとなって、空中に奇怪な紋様が描き出される。様々な図形や記号を内包する、光の真円。それが3つ、指輪から投影された感じに発生している。

 空中に発生したそれらが、各々1つずつ、何かを産み落とした。

 重さのある人影。それが3つガシャ、ガシャッと音を鳴らして礼拝堂の床に降り立った。

 鈍色の全身甲冑をまとった、鎧歩兵たち……いや、中身のない鎧が動いているようでもある。

「これは……!」

 レイニーは息を呑んだ。これと同じものたちを、自分は見た事がある。

 あの時、ガイエル・ケスナーに付き従って怪我人を運んで来た、動く鎧たち。

 それらを使役していたのは、確かイリーナ・ジェンキムという名の若い女性だ。何日かこの教会に逗留した後、怪我人たちの意識が回復するのを待たずに旅立って行った。

「戦う力なき我らローエン派に唯一神がお与え賜うた、聖なる戦士たちよ」

 カルツ司祭が、言いながら後退りをする。代わりに鎧歩兵3体が、前に出てくる。それぞれ長剣、槍、戦斧を構えながら。

「彼らが今から、破戒者レイニー・ウェイルに罰を下す。唯一神の罰をな……私が貴方を殺めるわけではないぞ。重ねて言うが、お間違えのないように」

「馬鹿な……こんなものを……」

 自分に向けられ、近付いて来る長剣と槍と斧を見据えながら、レイニーは呻いた。

「こんな力を……ローエン派は、手に入れてしまったと言うのか……戦う力を、暴力を、入手してしまったと言うのか……」

「結構な事じゃないか、司教殿」

 声がした。不敵な、男の声である。

「ローエン派も、口で綺麗事を言うだけの集団から、力で主義主張を押し通す健全な暴力組織へと生まれ変わったわけだ。実に結構。そういう相手の方が、俺も力仕事をやりやすい」

 誰も座っていなかったはずの長椅子に、いつの間にか男が1人、ゆったりと腰を下ろしている。さほど大柄ではないが体格は立派な、身なりは粗末な30代働き盛りの男。頬骨の目立つ顔に、剣呑な微笑が浮かんでいる。

「礼拝の方ですかな……」

 慇懃無礼そのものの口調で、カルツ司祭が言う。

「いけませんなあ、貴方は見てはならぬものを見てしまわれた……レイニー司教と共に、唯一神の御下へと召されるがよろしい」

「別に隠す事はないだろう。人に見せまいとせず、大いに暴力を誇示するといい」

 頬骨の目立つ男が、ゆらりと長椅子から立ち上がった。

「暴力とは……人に見せつけて言う事を聞かせるために、あるものだからな」

「ギルベルト殿……あまり手荒な真似は、なさらぬように」

 レイニーは声をかけた。

「カルツ司祭、悪い事は言わぬ。今すぐ、お逃げなさい」

「心配しなくても人殺しはせんよ司教殿。ただ、くだらん玩具を叩き壊しておく必要はありそうだ」

 ギルベルト・レインが、歩み寄って来る。

 鎧歩兵3体が一斉に、彼の方を向いた。

「おや、何をなさるおつもりか……平和の使徒たる我らローエン派の者に、よもや何か暴力的な事をなさろうとでも」

 カルツ司祭が、醜悪な笑みを浮かべた。

「いけません、いけませんなぁ。唯一神の罰を受けるであろう貴方を、私はもうお救い出来ない……」

 長剣を、槍を、戦斧を猛然と振りかざし、3体の鎧歩兵がギルベルトに襲いかかる。

 長剣がへし曲がり、槍が折れ、戦斧が砕け散った。

 鈍色の全身甲冑が3体分、ひしゃげて潰れ、ちぎれて飛んだ。血と肉の中身を持たぬ金属の屍が、飛び散りながらキラキラと光の粒子に変わり、消えてゆく。

 ギルベルトが、長い左足をゆったりと着地させる。蹴り、を放ったのであろう。拳も振るったようだが、レイニーの目で捉えられる動きではなかった。

 カルツ司祭が、悪い夢でも見ているような表情のまま硬直している。

 そこへギルベルトが、つかつかと近付いて行く。

「ひっ……わ……」

 逃げようとしながら身体が動かぬカルツの右手を、ギルベルトはぐいと掴み寄せた。そして司祭の中指から、蛇の指輪を容赦なく抜き取って奪う。

「暴力を手に入れて調子に乗る気持ち、わからんでもないがな……」

 奪い取った指輪を、ギルベルトは左手の親指と人差し指でグチャリと押し潰した。

「調子に乗ってると、それ以上の暴力に叩き潰される……そういうもんだ。この世には本当、どえらい暴力がいくらでもある」

 金属屑に変わった指輪を、親指で弾いて捨てながら、ギルベルトは言った。

「綺麗事をやめて暴力を押し通すつもりなら、そのくらいはまあ覚悟しておくんだな」

「……! …………!」

 悲鳴を詰まらせながら、カルツ司祭は逃げようとして転倒し、起き上がろうとして失敗し、這いずるように礼拝堂の出入り口へと向かう。助け起こしてやろうとまでは思わず、レイニーはまず礼を言った。

「ありがとう……助かりました、ギルベルト殿」

「この教会でつまらん事をする奴を、許すわけにはいかんからな」

 ギルベルトの部下たちが、この教会の墓地で眠っている。レイニーを助けてくれたのも、墓参のついでであろう。

 レイニーも1つ、ついでの用事を頼む事にした。

「ギルベルト殿は今、サン・ローデル侯にお仕えしているのでしたな?」

「ああ。領主様直属で、いろいろと力仕事をやらせてもらってる」

 ようやく立ち上がり、細い悲鳴を引きずって逃げて行くカルツ司祭を見送りながら、ギルベルトは難しい顔をした。

「司教殿が、教会に命を狙われた……それもサン・ローデル侯に報告せにゃならん」

「リムレオン侯爵閣下に、お渡しいただきたい物があるのですが。お願い出来ましょうか」

 言いながらレイニーは、法衣の懐にあった物を取り出し、ギルベルトに差し出した。

 書類の入った、筒である。

 ギルベルトは受け取り、筒に刻まれた差出人の名前に見入った。

「ほう、こいつは……」

「マディック・ラザンからの、緊急の書簡です」

 教会組織を通じて、届けられたものだ。ローエン派も腐敗しているとは言え、教会として最低限あるべき機能までは、まだ失っていない。

「バルムガルド王国で現在、何が起こっているのかが……これには、記されているのです」



 彼は今、暴君のような扱いを受けている。

 前領主バウルファー・ゲドン侯爵を殺害してサン・ローデル地方を奪い、女王の親族という事でそれを正当化してしまった。そんなふうに言われている。

 王家との繋がりだけでヴァスケリア最大の地方貴族に成り上がり、思うままに権力を振るう若き暴虐の君主。それがサン・ローデル領主リムレオン・エルベット侯爵の評判である。

 そんなものが単なる誹謗中傷に過ぎない事は、実際にサン・ローデル地方で生活をしている自分たちが、まず理解していなければならない。エミリィ・レアは、そう思う。

 ゲドン家が領主であった時よりも格段に暮らしやすくなっているのは事実であるし、何よりもリムレオン侯爵の人柄は自分が、誰よりもというわけではないが、よく知っている。彼は、暴虐などという言葉とは無縁の、心優しく弱々しい少年貴族だ。

 あの時までは、そうだった。

「リムレオン様……」

 この場にいない、いたとしても自分の思い通りになるわけではない相手に、エミリィは未練がましく語りかけていた。

 ゼピト村のはずれにある雑木林、エミリィの両親が眠る場所である。

 そして、リムレオン・エルベットと初めて出会った場所でもある。

 バウルファー侯爵の兵士たちに連れ去られそうになっていたエミリィを、彼は助けてくれた。その兵士たちに殴られ蹴られ、美しい顔を痛々しく腫らせながら。

 己の非力さを顧みる事なく、あの少年はゼピト村の、サン・ローデル地方の民を守るために、戦い続けてくれたのだ。

 その結果としてバウルファー・ゲドン侯爵を死なせ、領主の地位を奪い取る、などという形にもなってしまった。

 綺麗事では済まない戦いを続け、それでも綺麗な心を濁らせる事なく、リムレオン・エルベットはこの地の民を守ってくれている。

 何も変わってはいない。エミリィは、強く思った。貴族として、民衆を守る。それが彼の全てであり、今も何一つ変わってはいないのだ。

「あたしが、あれこれ考える事じゃないのに……ね」

 苦笑しつつエミリィは身を屈め、両親の墓石に問いかけた。

「あたし何にも出来ないくせに、リムレオン様を助けてあげたい支えてあげたい、なぁんて考えちゃってる……この未練たっぷりな娘をどう思いますか? お父さんお母さん」

 わかっては、いるのだ。

 今のリムレオンを助けたり支えたりしてやれるのは、自分などではなく彼女であると。彼女しかいないと。

 その彼女は、しかしリムレオンを置いてバルムガルド王国に行ってしまった。マディック・ラザンと一緒にだ。

「それは確かに、リムレオン様にも問題は大ありだと思うけど……」

 本人の前では言えない事を、エミリィは呟いていた。

「だからって、あてつけがましく他の男の人と旅に出ちゃうなんて……ちょっと、どうかと思いますよ? シェファさん」

 もちろんシェファもマディックも正式な任務を帯びて旅立ったのであろうが、エミリィに言わせれば、そうなってしまう。無論マディックとシェファとの間に何か間違いが起こる事など、絶対に有り得ないにしてもだ。

 リムレオンとシェファの仲が少しおかしな事になり始めたのは、やはりあの時からである。

 どのような戦いがあったのか、エミリィは詳しくは知らない。とにかくリムレオンとシェファを含む瀕死の怪我人が5名、サン・ローデル地方教会に運び込まれた。

 運び込んだ人物が、意識をなくす寸前のリムレオンの目の前で、何かをしたらしい。

 何をしたのかは、エミリィも何となくわかる。同じようなものを、かつて自分も見た事があるからだ。

 あれと同じ光景を目の当たりにして、リムレオンは変わってしまった。レイニー司教は、そんなふうに嘆いているようだ。

 何も変わってなどいない、とエミリィは己自身に言い聞かせた。

 リムレオン・エルベットは相変わらず、美しく心優しい領主であり続けている。サン・ローデルの民に、何か暴虐を働いているわけでもない。

 ちらり、とエミリィは雑木林の一角に視線を向けた。

 初めて出会った時、リムレオンはあの木陰から頼りなく姿を現し、エミリィを助けてくれた。

 今は、リムレオンではない人影が立っていた。1人ではない。3人、5人……10人以上もの男たちが、あちこちの木陰からエミリィ1人に向かって、歩み寄って来る。迫って来ている。

 彼らは武装していた。薄汚れてボロボロになった廃品寸前の歩兵鎧に、ほぼ全員が身を包んでいる。

 ぎらぎらとした眼光は、まるで獣だ。

 ダルーハ軍の残党に近い者たちである。山賊や強盗団と同じようなものと成り果てた、敗残兵の群れ。

 その指揮官と思われる人物が、言った。

「唯一神教ローエン派の……エミリィ・レア、だな」

 いくらか立派な鎧を着た男である。元々は騎士階級であったのだろう。

「我々は、癒しの力の使い手を求めている。暴虐なるエルベット家を打倒し、このサン・ローデルを正当なる主ゲドン家の方々にお返しするべく、貴様も力を貸せ」

「……エルベット家の方々は、暴虐でも何でもありません」

 エミリィは言い放った。

 ゲドン家の残党がローエン派に接触を求めている、という話はレイニー司教からも聞いている。

 バウルファー侯やガートナー伯爵といった中心人物を失ってなお、彼らは権力への妄執を捨てられずにいる。

 リムレオンに未練がましい思いを抱いている自分のようだ、と感じながらエミリィはなおも言った。

「怪我をなさった方がいるなら、それはお助けいたします。だけど戦を起こして怪我人を出すから、癒しの力を貸せというのは……ちょっと、違うと思います」

「貴様の考えなど聞いてはいない」

 言いながら指揮官が、軽く片手を上げた。

「サン・ローデルの地に住まう者は、正当なる支配者ゲドン家に尽くさねばならんのだ。教会関係者とて例外ではないぞ」

 敗残兵たちが無言で剣を抜き、槍を構え、エミリィに向かってじりじりと包囲を狭める。

 そこへ、何者かが声をかけた。

「はい、ちょっと質問。ゲドン家の人たちって今、生活に困ってんのかなあ?」

 明るい、それでいて隠しようもなく悪意を孕んだ、若い女性の声。

 両親の墓石の近くに、いつの間にか1人の少女が佇んでいた。

 エミリィと同じ年頃の、美しいがどこか一癖ありそうな女の子である。エプロンのようなドレスのような、妙にひらひらとした衣服に細身を包んでいる。

 セレナ・ジェンキム。領主の城で下働きをしている少女だ。少し離れた所には、彼女の父親であるゾルカ・ジェンキムの墓も立っている。

「セレナさん……」

「はぁい。何か変なのに絡まれちゃったねえ、エミリィさん」

 セレナはにこにこと笑い、敗残兵たちは怒りを露わにしている。

「何だ、貴様は……」

「うっさいわね、質問してんのはこっち。ゲドン家の人たちは、切羽詰まって叛乱起こさなきゃいけないほど生活に困ってるわけ? ねえちょっと」

 部隊規模の武装した男たちに対し、セレナは全く怯まない。

「うちの領主様がね、少ない税金の中からやりくりして、普通に暮らせる程度のものは支給してるはずなんだけど」

「リムレオン・エルベットの手の者か小娘!」

 敗残兵の1人が激昂し、セレナに槍を向ける。

 恐れた様子もなく、セレナはなおも言った。

「最近わかったんだけどねえ、うちの領主様……なよっちくて虫も殺せない草食系に見えるけど、本気で怒ると割とシャレになんないのよね実は。特に最近は妙に怒りっぽくなってるから、馬鹿やるのも程々にしといた方がいいよ?」

「何をぬかすか!」

 激昂した兵士が、本気の殺意を込めて槍を突き込む。

 突き込まれた槍が、しかしセレナの胸に刺さる寸前で叩き斬られた。切り飛ばされた穂先が、宙を舞った。

 彼女の傍らに、いつの間にか、白っぽい人影が立っている。

 粗末な服装の上から純白のマントを羽織った、細身の人物。抜き身の長剣を、そのマントの中から見え隠れさせている。

 目深にフードを被っているが、端正な口元と顎の辺りは見て取れる。

「貴様……!」

 敗残兵たちが、セレナからその白衣の剣士へと狙いを変更した。長剣が、槍が、殺意を宿して構えられる。

 その時には、白衣の剣士は動いていた。

 白いマントがはためき、光が奔る。斬撃の閃きだった。

 敗残兵たちの、槍が切断され、剣が弾き飛ばされ、血飛沫が噴き上がった。

 指揮官が、剣を振るおうとしたまま硬直する。

 白いマントの下から現れた長剣が、彼の喉元に突き付けられていた。

「きっ、貴様は……!」

「僕は、人を殺した事がない」

 右手で長剣を持ち、指揮官に突き付けたまま、彼は左手で己の頭部からフードを剥がしていた。

 思わず夢見心地になってしまいそうな金髪の煌めきが、溢れ出した。冷たい、容赦のない言葉と共に。

「元は人間であった生き物を殺した事なら、何度もある。人を殺すというのは……あれと、大して変わらない感触なんだろうな」

 露わになった美貌を目の当たりにして、エミリィは思った。痩せた、と。

 すっきりと滑らかな頬に、ギルベルト・レインほどではないにせよ、いくらか頬骨が浮き出ているように見える。

 眼光の鋭さは、ここでエミリィを初めて助けてくれた時とは、まるで別人のようだ。

 5、6人の兵士が、倒れ呻いている。辛うじて生きてはいるようだが、地面を汚す血の量は少なくない。放っておけば、短時間で死に至るであろう。

「エミリィ・レア、癒しの力は使わないように」

 若き金髪の剣士は言った。

 彼はもう、ここでゲドン家の兵士たちに殴られ蹴られていた、非力な少年貴族ではない。

 見ている者が悲鳴を上げてしまうような鍛錬で高度な殺傷技術を身につけた、非情の剣士なのだ。

「愚かな事をして、負わなくとも良い傷を負う。それでもローエン派の方々に治してもらえる……そんな事が続くようでは、事態は何も変わらない」

「リムレオン様……」

 彼は、何も変わっていない。

 己にそう言い聞かせながらもエミリィは、言わずにはいられなかった。

「ねえ、一体……どうして、しまわれたんですか?」

「どうもしないさ。僕は、元からこうだ」

 リムレオン・エルベットは言った。

「変わらなければいけない、とは思う。僕は、もっと強くならなければいけない……あのガイエル・ケスナーのように」

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