第86話 混沌のバルムガルド
(ふうん……結構いい身体してるんだ)
上半身裸で鍬を振るっているマディック・ラザンを見て、シェファは思った。
ブレンのように筋骨隆々というわけではないものの、弛みのない胴回りと、肩から胸板にかけてのガッシリとした厚みが、なかなか良い感じではある。
黒薔薇夫人の居城における戦いの後、しばらくの間シェファたちと共に、ブレン兵長にしごかれる日々を過ごしてきたマディックではあるが、聞けば過去に、かなり本気で武術の鍛錬に打ち込んだ時期があったと言う。
つい最近になって付け焼き刃的に戦闘訓練を始めた、脆弱な少年領主や攻撃魔法兵士の小娘あたりとは、鍛え方が違うというわけだ。
バルムガルド王国内の、とある村。
シェファとマディックがここに逗留し始めて、3日目である。
ずいぶんと子供の多い村だ、と最初シェファは思ったものだ。
力仕事を任せるにはまだ早いと思われる8歳9歳くらいの男の子が大勢、畑に出て野良仕事をやらされている。彼らの母親と思われる女性たちが農具を振るい、シェファとそう年の違わぬ娘たちが、数人がかりで押し潰されそうになりながら丸太を運ぶ。
この村に足を踏み入れたシェファとマディックが最初に目にしたのは、そんな光景だった。
子供が多いと思えたのは、大人と呼べる年齢の男たちの姿が全く見えないからだった。
ここだけでなく多くの村々や町で、同じ事が起こっているらしい。
働き盛りの男たちが、いなくなっている。
何故そんな事が起こっているのか、それに関して多少の調べはついている。シェファとマディックが、この村に滞在しながら調べている最中なのである。
調査が優先とは言え、滞在させてもらうには働かなくてはならない。男手を失った村に、無償で旅人の面倒を見る余裕などないからだ。
「よいしょ……っと」
土の中から、シェファは大きめの石を引きずり出した。
土中の石や木の根を取り除く。畑を作る作業の中でも、特に地味で辛いものの1つであろう。
魔法の鎧を装着すれば、こんな作業など軽々と済ませる事が出来る。
が、それはするべきではない。
マディックがそう言うので、シェファも生身のまま石運びに従事している。
男のように上半身裸になるわけにもゆかず、作業用の粗末な衣服が汗でぐっしょりと全身に貼り付いてくる。
周囲にいるのはほとんど女性と子供、成人男子はマディックくらいしかいないので、上半身は脱いで下着だけになってしまっても良いか、とシェファは思い始めていた。
「力……あるんですね、シェファさん……」
いくらか小さめの石を、それでも一生懸命に掘り出して持ち上げながら、エリンが言う。
この村で、シェファと最も親しく口をきいてくれる少女である。13歳と言っていたが、それにしては身体が小さく成長が遅れている感じで、10歳くらいにも見えてしまう。食糧事情が、あまり良くないのであろう。
「まあ、鍛えてるから」
ブレン兵長による訓練を思い出しながら、シェファは苦笑した。
あれに比べれば農作業など大した事はあるまい、と最初は思っていたが、存外そうでもなかった。ひたすら地味に身体を動かし続ける作業には、動きの激しい戦闘訓練とはまた別種の過酷さがある。
「ほんと、女子供だけだと大変よね」
エリンと共に石を運びながら、シェファは会話による情報収集を試みた。
「シェファさんとマディックさんのおかげで、すごく助かってます」
石を抱えてよたよたと歩きながら、それでもエリンが気丈な事を言ってくれる。
「でも気をつけて下さいね。あたしのお父ちゃん、そのくらいの石運んでて腰やっちゃいましたから」
「お父さんは、今?」
「……連れてかれました」
エリンの声が、小さくなった。
「心配するなって。俺がこの村を守る、なんて言って……まだ腰治ってないくせに……」
エリンの父を含む、この村の男たちが、何者によって連れ去られてしまったのか。それは、改めて聞き出すまでもなかった。
ヴァスケリアのサン・ローデル地方で、ゴルジ・バルカウスが行っていた事。それが今、バルムガルド王国全域で行われているのだ。恐らくはデーモンロードによって。
魔族が魔獣人間の開発製造に着手している、という事だ。
が、それにしては女子供が見逃されているというのは奇妙な話である。
ゴルジ・バルカウスは、女性であろうが子供であろうが魔獣人間製造実験に使用しては失敗し、無惨な残骸兵士を大量生産していたものだ。
ここバルムガルドでは、15歳以上の男子だけが、魔獣人間の素材として魔族に拉致されて行く。女性も子供も、それを黙認する事で身の安全を確保されている。
やはり男の肉体の方が、魔獣人間の素材には適しているのであろうか。いや、必ずしもそうではない事は、メイフェム・グリムを見れば明らかだ。
あのデーモンロードという怪物が、まさか騎士道でも重んじているのか。女子供には優しくあれ、などと心がけているのであろうか。それにしては以前、黒薔薇夫人の森における戦いでは、シェファも容赦なく殺されかけていたが。
あの時は、辛うじて殺されずに済んだ。
シェファが本当に生命の危機を迎えたのは、その直後の戦いにおいてである。
ゴルジ・バルカウスの分身体が無数と、複製量産された魔獣人間の群れ。その大軍団が、黒薔薇夫人の城に現れたのだ。
デーモンロードとの戦いで力を使い果たしていたシェファたちに、勝ち目はなかった。
ブレン兵長が、マディックが、ギルベルト・レインが倒れ、シェファも意識を失った。
何日か、生死の境を彷徨ったらしい。
目覚めた時には、サン・ローデル地方教会の一室で看護を受けていた。レイニー・ウェイル司教やエミリィ・レアが、癒しの力を使ってくれたようである。
自分が意識を失っている間、何があったのかシェファは知らない。
とにかく何かとてつもない事が起こり、結果として自分たちは助かった。
そして、リムレオンが変わってしまった。
「リム様の馬鹿……」
呟きながら、シェファは立ち止まった。畑の隅の、石を集めて置いてある場所だった。
苦労して運んできた石をそこに置きながら、エリンが怪訝そうな声を出す。
「シェファさん……? 今、何か」
「リム様の! ばかぁあああッ!」
エリンのようにそっと置いたりはせずシェファは、大きめの石を高々と持ち上げ、思いきり投げつけていた。
畑で作業をしていた女性たち子供たちが、何事かと振り向いて視線を向けて来る。
エリンも、呆然としていた。
「シェファさん……あの、あたし何か失礼な事を?」
「……そうじゃないのよ。ごめんね」
シェファは俯いた。恥ずかしさで、顔が熱くなった。
「しばらく離ればなれになれば頭を冷やせる、と思ったが……」
マディックが、汗を拭いながら歩み寄って来る。
「どうやら、そうでもないか……こんな事なら、無理矢理にでも仲直りさせておくべきだったよ。2人同じ部屋に閉じ込めたりしてな」
「やめてよね……」
シェファが睨みつけると、マディックは苦笑した。本当に困ったものだ、とでも言いたげである。
マディックだけではない。ブレン兵長、エミリィやセレナ・ジェンキム、ヴァレリア・エルベット侯爵夫人……大勢の人を、困らせている。それはシェファとて、自覚はしているのだ。
農作業姿が似合う、恰幅の良い中年女性が1人、歩み寄ってきて無遠慮な問いを浴びせてくる。
「あんた方、もしかして駆け落ちか何かかね?」
「え…………」
シェファとマディックが困惑している間、エリンが叱りつけるように叫んだ。
「お母ちゃん! それ昨日も一昨日も訊いた!」
「んっふふふ。駆け落ちじゃないんならアタシがもらっちゃおうかなぁ、このお兄さん」
マディックの裸の上半身に、エリンの母親が馴れ馴れしく擦り寄ってゆく。
エリンが、泣きそうな声を張り上げた。
「お母ちゃんの馬鹿! お父ちゃんが、お父ちゃんがあんななのに何やってんだ!」
「……どぉーせ、もう帰って来ねえよぅ。ウチの父ちゃん」
マディックの意外と分厚い胸板に、肥えた頬を擦り寄せつつ、エリンの母はへらへらと笑っている……ように見えて、泣いていた。
「うちのだけじゃねえ。この村の男衆みんな……あんなバケモノどもに連れてかれちまったんだ、もう帰って来ね。新しい男こさえた方が、前向きってもんだぁ」
「そんな……そのような事を言ってはいけません」
太めの中年女性の身体をやんわりと振りほどきながら、マディックは聖職者らしい事を言った。
「早々と希望を捨てて、やけくそな行動に走るのは……唯一神の御心に、反する事です」
「……では何が唯一神の御心に適う行いであるのか、私どもに教えて下さいますか? ローエン派の方」
法衣を着た若い女性が1人、歩み寄って来ると同時に問いかけてくる。
この村の教会で司祭を務める、女性聖職者である。年齢は、シェファとマディックの中間……20歳を少し過ぎた辺りであろう。
村に滞在を始めてから3日間、シェファも何度か姿を見ているが、名前は知らない。
「貴女は……ディラム派の方か?」
マディックの問いに彼女は頷き、名乗った。
「ナディア・バレンと申します。不本意ながらコーネル・ライク司祭に代わりまして現在、この村の教会をお預かりしております」
彼女の前任なのであろう、そのコーネル司祭という人物の身に何が起こったのかは、訊くまでもなかった。
「魔物たちに連れて行かれるコーネル司祭を、私はお助けする事が出来ませんでした」
暗く重く、ナディアは語る。
「唯一神の御心に、私は恐らく……背いてしまったのでしょう」
「命を粗末にする事が、唯一神の御心に適うわけはないさ」
当たり障りのない事を、マディックは言った。大丈夫、コーネル司祭殿は生きていて必ず無事に戻って来る。我々が助けてみせる。などと軽々しく言わないところが、彼の節度であろう。
畑仕事をしていた村の女性たちも、寄ってたかってナディア司祭を慰めにかかる。
「そーだよう司祭様。自分を責めたって、何にもなんねって」
「あんなバケモノどもに逆らったって、無駄に殺されるだけなんだからさあ」
「とにかく、あたしらやガキどもの命は助かったんだ。それこそ神様に感謝だよ」
シェファは、己の右手の中指にはめられた竜の指輪を、じっと見つめた。
わかっている。自分たちがこの国に入り込んだのは調査のためであって、人助けのためではない。ここで魔法の鎧の力を濫用し、軽々しく人助けに走ったら、事態が悪化するかも知れないのだ。
これまでの調査で確実にわかった事が、1つある。
デーモンロードは、以前ヴァスケリア国内でいろいろと小細工をしていた時とは比べ物にならないほど、勢力を増大させている。バルムガルド1国を魔獣人間の牧場とし、無尽蔵の兵力を得てヴァスケリアへの逆襲侵攻に踏み切ろうとしている。
事態は、その寸前くらいにまで達していると言っても過言ではない。
「一体全体この国はどうなってるのか、ちょっと教えてもらってもいいですか」
俯いているナディアに、シェファは問いかけた。ここでまだ情報を集められるようであれば、集めておきたい。
「あたしたち、ヴァスケリアから来たばっかりで。お隣の国で何が起こってるのか、調べてくるように言われてるんです」
「……それなら、今すぐヴァスケリアへお帰りになる事をお勧めします」
ナディア司祭は言った。
「バルムガルド王国は……唯一神に、見放されてしまったのです。試練であるにしても、これはあまりにひど過ぎます。魔物たちに連れ去られてしまった方々に、一体どのような罪があると唯一神はおっしゃるのでしょうか? ねえローエン派の方」
ディラム派の若い尼僧が、マディックを見つめて問う。
「ヴァスケリアでは、ローエン派の方々が大いに勢力を強めていると聞きます……救いの手を差し伸べては、下さらないのでしょうか?」
「……今のローエン派に、そんな力はないよ」
マディックの声に、苦渋が滲んでいる。
ヴァスケリアにおけるローエン派の台頭は、バルムガルドによる援助があってこそのものだった。そのバルムガルド王国は今、この有り様なのである。
「ごめんなさい……本当なら私たちディラム派が、何とかしなければならないところですよね」
ナディア司祭は暗く微笑み、語った。
「この国の現状を調べておられるのでしたね。見ての通りです……男性の方々が、ことごとく魔物にさらわれて、それを止めようとすれば私たち女も皆殺しにされてしまいます」
「止めようとしなければ、貴女たちの身の安全は保たれるのか?」
マディックが訊くと、ナディアは頷き、そのまま俯いてしまう。
「魔物の軍勢は、男の人たちを惨たらしく引き立て、連れ去って行きます。それを黙って見ている限り、私たち女や子供たちには一切、暴虐を働きません。それだけは本当に、魔物たちは徹底しています……1度、こんな事がありました」
やや躊躇いがちに、ナディアは語った。
「トロルの一団が、この村を攻めたのです。彼らは男の人たちを捕えるだけではなく、若い娘や子供たちに襲いかかろうとしました」
そこへ誰かが通り掛かって助けてくれた、という事であろうか。
「……オークの群れが現れて、そのトロルたちを討伐してくれたのです」
「オークが? トロルを討伐?」
シェファは思わず、大きな声で驚いてしまった。
オークなど、3匹か4匹であれば、生身のシェファでも充分に戦える。
トロルは、魔法の鎧を装着したリムレオンが、1対1で辛うじて勝てるかどうかという相手だ。
もっとも、あの頃に比べればリムレオンも、格段に強くなってはいる。
(性格はともかく……ねっ)
シェファの憤りなど知るはずもなく、ナディア司祭は語り続けた。
「そのオークたちの指揮官……オークロードという怪物が、恐ろしい強さでトロルの群れを叩き潰していました。叩き潰す、としか言いようのない戦いぶりで」
「結果として貴女たちが助かった、というわけか」
言いつつ、マディックは腕組みをした。
「怪物たちが、人間の女子供を……保護している、という事だな。この国では」
「この村の男性の方々は結局、そのオークたちに捕われ連れ去られてしまいました。男の人たちを檻車に詰め込む作業を指揮しながら、オークロードは私たちに言ったのです……何もするなと、何も言うなと。口をつぐんでいる限り、お前たちは平穏に生きてゆけると。男たちを人身御供として安穏と暮らすが良い、と……」
ナディアの声が震えた。
夫や子供を奪われたのであろう女性たちも、同じように俯いている。兄弟や恋人を奪われたのであろう若い娘たちの中には、泣き出している者もいる。
マディックは腕組みをしたまま、何も言わない。何の表情も浮かべていない顔が、しかし強張り震えているのを、シェファは見逃さなかった。
自分たちの目的は調査であって人助けではないと、彼もまた懸命に、己自身に言い聞かせているところであろう。
「誰かを犠牲にして安穏と生きる……それが、唯一神の御心に適う事なのでしょうか?」
「敢然と立ち向かって、無駄に命を落とすよりは」
いかにもローエン派らしい答え方を、マディックはしていた。
「19年前、隣国ヴァスケリアの人々はそのようにして生き延びた……まずは生き延びる事。それこそが唯一神の御心であると、俺は思う」
「バルムガルドに、英雄ダルーハ・ケスナーはいないのですよ……」
そこまで言って、ナディア司祭は黙り込んだ。
綺麗事ばかり口にするな、とマディックを責めているようでもあった。
ゼノス・ブレギアスは勃起していた。
破裂しそうに熱く固く膨れ上がったものを、たくましい左右の太股で挟み込んだまま、ゼノスは地面に座り込んでいる。今は人間の若者の形をした力強い肉体が、土下座の形に折れ曲がっている。
その頭を踏み付けているのは、すらりと綺麗な片足だった。青い脛当てと軍靴を履いた、細めの美脚。
ティアンナの右足だ。
短めの黒髪を押し分ける感じにグリグリと、少女の細い足がゼノスの頭蓋を圧迫する。
「あぶぅ……うふぉう、あうあうあうぅ……」
無様な悲鳴を漏らしながらゼノスは、大量の鼻血をドクドクと垂れ流し、それを顔で地面に塗り広げていた。
「私、貴方に……そんなに難しいお願いをしているのかしら?」
片足でゼノスの頭を踏みにじりながら、ティアンナが困ったように微笑んでいる。
本気で怒っている、とゼノスは思った。分厚い胸板の奥で、心臓がときめいた。
「出来るだけ人を殺さないように……というのが、そんなに難しい事? ねえゼノス王子」
「うっ……ふぅ……おっ俺、出来ない子なんだよう。あふはふ」
少女の柔らかな脚力が、脳髄をぐりぐりと刺激する。ゼノスの両太股の間で、固く膨張したものが熱く激しく脈打ち暴れる。
(おっ怒ってる……ティアンナ姫が俺の事、本気で怒ってるよう……)
前屈みの血まみれで悶絶するゼノスの周囲では、男が3人、死んでいた。
1人は、顔面が拳の形に陥没し、頭蓋骨の中身が両耳からドロドロと溢れ出している。
1人は腹部に足型を刻印され、口から臓物を吐き出している。
1人は、首から上が消え失せていた。手刀の一撃で綺麗に首を刎ねてやれたのは良いが、生首はどこかへ飛んで行ってしまった。
少し離れた所では、ティアンナと同年代の女の子が1人、座り込んで泣きじゃくっている。服を破かれた、痛々しい半裸の姿でだ。
タジミの村娘で、ティアンナには遠く及ばないにせよ、そこそこの美少女である。だから、襲われていた。
村はずれの、雑木林である。
悲鳴を耳にしたゼノスが駆け付けた時には、この娘が男3人に押し倒されていた。
3人とも、元からタジミにいた村人ではない。流れ者のゴロツキである。
ジオノス3世の即位以来、王母シーリン・カルナヴァートの筆による魔族討伐の檄文に応じ、様々な人間がこの村に集まって来ているが、その中にはこういう輩もいる。
来る者拒まずではなく、やはりある程度は選別するべきだとゼノスは思う。
可愛い甥の近くに、流れ者のチンピラなど置くわけにはいかないのだ。
その甥は今、マチュアに抱かれ、あやされている。
シーリンは、半裸に剥かれて泣きじゃくる村娘に、そっとマントを被せてやっている。
そしてティアンナが、ゼノスの頭を踏んでいるのだ。
「人が増えたという事は、法の重要性が増したという事……」
踏みながら彼女は、何やら難しい事を言っている。
「どのような罪であれ、個人の感情で裁く事など許されない。最終的には死刑を宣告・執行するにしても、まず法で裁くという形は作らなければならないのよ。まあ……貴方の頭で理解出来るとは、思えないけれどっ」
語りながらティアンナが、ゼノスの頭をガスガスと踏み付ける。
電撃のような快感が、ゼノスの全身を駆けた。
表記不可能な快楽の悲鳴を垂れ流しながら、地面にドバドバと鼻血をぶちまけるゼノス。その姿を見てマチュアが、心配そうな声を出す。
「あ、あのうティアンナ様……そのくらいに、しておいてあげてはいかがでしょうか。ゼノス王子、本当に苦しそうです」
「ほ、放っといてくれい嬢ちゃんよ。俺は、罰を受けなきゃなんねえ……だだだって俺、出来ねえ子だから、駄目な子だからあぶぅっ、ぐ、ひぎぃ! ひゃうあう」
「……? マチュアの、気のせいでしょうか」
小さな両腕でフェルディを抱いたまま、マチュアが困惑している。
「ゼノス王子が、何だか悦んでおられるようにも……見えてしまうような……?」
「……男と女の間にはいろいろある、という事よ。マチュアさん」
泣きじゃくる少女を抱き寄せ撫でさすりながら、シーリンが言う。その美貌には妹と同じく、困ったような微笑が浮かんでいる。
「男と女、などという言い方はおやめ下さい姉上」
ティアンナが文句を言った。
「そんな事よりも……このように軽々しく陛下を屋外へとお連れになるのは、あまりに不用心ではありませんか」
「そうかしら? 私、ゼノス王子の近くほど安全な場所はないと思っているのだけど」
「ね、義姉さんはわかってらっしゃる」
突っ伏して踏まれたままゼノスは、シーリンに向かって片手の親指を立てた。
「大船に、いやドラゴンの背中にでも乗ったつもりでいてくれよ義姉さん。フェル坊は、何があっても俺が守るぜー」
「陛下とお呼びなさい、陛下と!」
ゼノスの頭を、ティアンナが思いきり蹴り付ける。脳が頭蓋骨から飛び出して昇天してしまいそうな、蹴りだった。
それまで地面に垂れ流していた鼻血を天空に向かって盛大に噴き上げながら、しかしゼノスは笑った。尼僧姿の少女に抱かれたフェルディに、微笑みかけた。
「や、やめようぜ陛下なんて……フェル坊はフェル坊だよ。なあ?」
そう声をかけられてもフェルディはしかし、鼻血を流して股間を膨らませた無様な叔父の姿など一瞥もせず、だぁだぁとマチュアに甘え続けている。
ゼノスは、がっくりと俯いた。魔獣人間の姿をしていないと、この可愛い甥は今ひとつ懐いてくれない。
がくりと垂れていた頭を、ゼノスはいきなり上げた。
不快な気配が多数、近付いて来ている。
ティアンナが表情を引き締め、油断なく左右を見回す。
声が聞こえた。
「ふん……まるで怯えるネズミの如く、勘の鋭い者どもよ」
嫌味なくらい優雅な足取りで、人影が1つ、木陰から現れる。
青い甲冑を着用した、若い男……否。青い鱗とヒレを全身に備えた、魔獣人間である。美しい顔の、左半分にだけ仮面が貼り付いている。
魔獣人間サーペントエルフ。ゼノスが1度、痛い目に遭わせてやった相手が、その復讐のための戦力を引き連れて来たようだ。周囲の木陰から、大型の生き物が3体、5体と、揺らめくように姿を現しつつある。
ほぼ部隊1つ分の、トロルたちであった。
全員、岩のような筋肉をメキメキ……ッと変な感じに痙攣させながら、包囲の体勢を作りつつある。
先程は男に襲われていた村娘が、今度はトロルたちに囲まれ迫られ、か細い悲鳴を漏らした。怯える彼女をシーリンが、両の細腕で抱き寄せる。そこへマチュアが、フェルディを抱いたまま身を寄せる。
全員を、ティアンナとゼノスが2人がかりで護衛する形となった。
「……どこかでお会いした事、あったかしら?」
魔石の剣をスラリと抜き構えながらティアンナが、サーペントエルフに声を投げた。ゼノスの心と股間を刺激する、冷たい声だ。
「似たような汚物を最近、1度見たようにも思えるのだけど……気のせいよね。有り得ないもの。あれだけ無様を晒しながら、恥じる事なく再び姿を現すなんて」
「ティアンナ・エルベット……あれから私は、お前の皮を剥いで臓腑を引きずり出す事だけを考えて、日々を過ごしてきた……屈辱に、心を焦がす日々を……!」
憎悪に声を震わせながらサーペントエルフは、顔面の左半分に片手をやった。そして、仮面を取り剥がす。
現れたのは、一筋の傷跡だった。手練の剣士によるものと一目でわかる刀傷が、魔獣人間の美貌を縦断している。眼球は、辛うじて無事のようだ。
その眼球が、憎しみに血走り燃え上がり、ティアンナを睨む。
「お前の、この罪の重さ……生きながらトロルに貪り食われる事で、思い知ってみるか? あるいは両目を抉り、空いた眼窩にウジ虫の塊を」
「おおおおいテメエ、なっ何だその傷跡はあああ!」
耐えられずゼノスは叫び、サーペントエルフの世迷い言を断ち切った。
「ティアンナ姫にそんなふうにブッた斬ってもらえるなんて、うっうううううらやましぃーじゃねえかテメこら」
「……いい子だから、貴方は少し黙っていなさいっ」
ティアンナが、ゼノスの片耳を思いきり摘んで引っ張った。
「私が戦いなさいと言うまで大人しくしているように。いいわね?」
「だっ駄目だよティアンナ姫。もっと強く引っ張ってくんなきゃ駄目だよう」
「……黙らせて差し上げましょうか。私は、お前にも罰を与えなければなりません」
サーペントエルフのそんな言葉に合わせ、地響きのような足音が発生した。
特に大型のトロルが1体、大木を押しのけるようにして、姿を現していた。
岩石の如き筋肉がはちきれそうに膨張した巨体。その全身に、暗緑色の苔が繁茂している。
筋肉が、外皮が、苔が、他のトロルたちと同じく、おかしな感じに痙攣している。
間違いない、とゼノスは確信した。ゴルジ・バルカウスが1度だけ試して失敗した実験が、恐らくはサーペントエルフの手によって、このトロルたちの肉体に施されている。
魔獣人間化の施術である。
「魔獣人間は……その名の通り、やはり人間を素材としなければならぬもの。トロルの肉体では上手くゆかぬという事がわかりました。が、このような出来損ないでもお前よりはましです。ゴルジ・バルカウスの粗悪なる作品よ」
サーペントエルフが憎悪の眼光を、ティアンアからゼノスへと移した。
「失敗作が、いつまでも日の光を浴びているものではありません。この場で処分して差し上げましょう……さ、やっておしまいなさい? トロルロード殿」
「グッ……ぉああ……こっここここ殺す、デーモンロード! 竜の御子! ぶっぶぶぶぶブチ殺すぅぁあああああああああ!」
トロルロードと呼ばれた苔むしたトロルが、絶叫を痙攣させながら、いきなり裂けた。
その巨体の胸から腹にかけて、縦一直線の裂け目が走り、それが開き、臓物が溢れ出す。
いや。臓物ではなく、寄生虫か何かであろうか。
とにかく触手状に伸びて蠢くおぞましいものが無数、トロルロードの胴体から溢れ出し、グネグネと暴れうねっているのだ。
そんなものを吐き出す大型の裂け目に、サーペントエルフが片手の親指を向ける。
「ティアンナ・エルベット……お前のその無礼なる手足を切り落とす。そして芋虫のようになった貴様を、この中に埋め込んでくれる」
斬られた美貌がニヤリと歪み、傷跡が、まるで這う虫のように蠢いてねじ曲がる。
「愚かなる小娘よ。お前はトロルロード殿と一体化し、戦うのだ……竜の御子・ガイエル・ケスナーと」