第79話 魔人と魔物と魔獣人間(後編)
アゼル派の尼僧であれば、まあ癒しの力を使えもするだろう。
だが魔獣人間となってまで、唯一神の力を発現させられるほどの信仰心を保っていられるというのが、レボルトは信じられなかった。
見ただけでわかる。この女、魔獣人間の力を使って殺戮を行った事が、1度や2度ではない。それを、唯一神は許し賜うのか。
殺戮と信仰を両立させる事が出来る。宗教とはそもそも、そういうものであるのか。
アゼル派。他宗教に対する攻撃・弾圧で勢力を確立させてきた、唯一神教の源流とも言うべき宗派。
その苛烈さが目に見える形となったものこそが、この女魔獣人間の姿なのかも知れない。
そんな事を思いながら戦いを見守るレボルトの視界の中、魔獣人間サーペントエルフが、気取った仕草で右手を振るう。その右手に光が生じ、細長く固まって実体化し、1本の槍となった。三又の穂先を有する槍だ。
「粗悪品の魔獣人間に、見せてあげましょう真の魔獣人間の力を! さあ畏れおののきなさぁああああい!」
その三又槍がバチッ! と激しい電光を帯びる。
同時に、いくつもの火炎の球体が、サーペントエルフの周囲に生じて浮かぶ。
全てが一斉に、メイフェムを襲った。
燃え盛る流星のような火球が、槍から迸り出た電光が、女魔獣人間を直撃する。
白い光の破片が、キラキラと飛散した。
聖なる防壁。癒しの力と同じく、唯一神教徒の中にもごくまれに使える者のいる、守りの力である。それがメイフェムの全身を包み込んで守り、シナジールの攻撃魔法を防ぎながら砕けたのだ。
この女、魔獣人間となる前から、聖職者として相当な修行を積んでいたのは間違いない。
美しく散り消えてゆく光の破片を蹴散らすようにして、黒い蛇のようなものが超高速で宙を泳いだ。鞭。メイフェムの左手から生え、空気を切り裂いて伸び、サーペントエルフを打ち据える。
甲高い悲鳴を上げながら微かな血飛沫を散らせ、シナジールは吹っ飛んで倒れた。
「ゾルカの攻撃魔法に比べれば、そよ風みたいなものね……」
優雅に嘲笑しつつメイフェムが、ピシッ! と鞭を鳴らす。
サーペントエルフが、激痛にのたうち回りながらビクッ! と怯え震え、滑稽な悲鳴を発した。
もう1体の魔獣人間マイコフレイヤーが、茸で出来た巨体をずいとメイフェムに迫らせる。
「没落魔法貴族のお坊ちゃんは、ホント使えないわねえ……まあいいわ、アタシが1人で相手したげる」
口元の触手たちが、何匹もの毒蛇の如く蠢く。そこから、憎悪に震える声が紡ぎ出された。
「アタシこうゆうバカ女は大ッ嫌いだから……バカ女ぶち殺すの、大好きだからぁあーッ!」
「……変ね、おかしいわ」
両刃の長剣をヒュッと構え直しながら、メイフェムは言った。
「ゴルジ殿の作った魔獣人間も、大半はクズばっかりだったけど……ここまでひどいのは、いなかったような気がする。貴方たち、ゴルジ殿の作品じゃないわね? 一体どこから湧いて出たのかしら」
「アタシみたいな芸術品! ゴルちんなんぞに作れるわきゃあないでしょーがああああああああっっ!」
絶叫に合わせ、魔獣人間の口元から触手が暴れ出した。
何匹もの、毒蛇あるいはミミズのようなそれらが、鞭の速度でメイフェムを襲う。
かわそうとした女魔獣人間の動きが一瞬、止まった。
「う……っ」
微かな苦痛の呻きを漏らしながらメイフェムが、左手で己の頭を押さえる。
突然の頭痛に動きを止めてしまった彼女の全身を、何本もの触手の鞭が打ち据えた。両刃の長剣が、右手から叩き飛ばされて宙を舞い、少し離れた地面に突き刺さる。
少量の血飛沫を散らせて揺らぐメイフェムの肢体に、触手たちがビシビシッ! と絡み付いた。首に、胴に、両手足に。
「あぁーやだやだ! アタシの触手ちゃんたちで、こぉんなゲテモノ女の身体なんか責めなきゃいけないなんてねぇ! おぞましーったらありゃしないのよォオオオオッ!」
怒りの宿った何本もの触手が、女魔獣人間の身体をギリッ、ミシミシッ……と容赦なく締め上げる。
締め上げられながらもメイフェムは、頭痛にも苛まれ続けているようだ。
「く……ぅ……ッ」
「ふふん。この汚らしいカラダと使い道なさそうな脳ミソ、どっちが先にブッ壊れちゃうかしらねぇええ?」
勝ち誇りながら、触手の拘束力と魔力の精神波動を強めてゆくマイコフレイヤー。
そちらにメイフェムは、巻き付く触手に抗いながら、ゆっくりと右手を向けた。鋭利な五指が開き、掌が淡く白く発光する。
癒しの力、聖なる防壁と同じく、唯一神の力の発現である。
その聖なる白色光が、球体状に固まりつつ、メイフェムの右掌から発射された。そしてマイコフレイヤーの頭部を直撃する。
茸の塊のような巨体が、のけ反って揺らいだ。
一時的に締め付けの弱まった触手を振りほどきながら、メイフェムが地面を蹴る。
跳躍に近い、踏み込み。
それと共に、むっちりと筋肉の膨らみ締まった右脚が、高々と跳ね上がって突き込まれる。
猛禽の爪を生やした蹴りが、マイコフレイヤーの分厚い胸板をザクッと穿ち抉った。
「ぎゃう……っっ……」
何本もの舌のような触手を痙攣させ、巨体の魔獣人間が悲鳴を詰まらせる。
無数の茸が強固に重なり合って出来た胸板に、メイフェムの右足が深々と突き刺さっていた。
猛禽の爪が、茸の胸板にバキバキ……ッと亀裂を走らせながら、マイコフレイヤーの体内をさらに掴み抉る。
「汚らしい心臓……このまま握り潰してあげましょうか?」
「ぎぃっ……ゃあ……ま、待って、お姉様……」
マイコフレイヤーが、殺されかけながら慌てふためく。
「な……何やってんのよレボルト・ハイマン! 助けなさいよ、早くアタシを助けなさいって! あんたホント裏切るつもりなの? ねえちょっとおおおおお!」
裏切るも何も、貴様たちとは最初から敵同士。レボルトは、そう言ってしまいそうになった。
今は魔族によって、多くのバルムガルド国民が人質に取られている状態である。
デーモンロードも赤き魔人もこの場で殺す事が出来ない以上、デーモンロードに臣従している立場を保たないわけにはいかない。
「そやつを放してやれ、メイフェム・グリム。貴様の相手は、この私だ……」
片刃の長剣をメイフェムに向けながらレボルトは、脇腹と背中の中間辺りに、奇妙なものを感じた。
得体の知れぬ違和感。それが急速に、熱さと激痛に変わってゆく。
「貴様……!」
レボルトは背後を睨んだ。
脇腹か背中か判然としない部分に、三又の穂先が突き刺さっている。
バチバチと電光をまとう、三又の槍。その長柄を握っているのは、サーペントエルフだ。
「ようやく隙を見せましたねえ、裏切り者レボルト・ハイマン……私はずっと、この機会を狙っていたのですよ。まさに叡智! そう思うでしょう? ええ?」
陰惨なほど醜い笑みを浮かべながらシナジール・バラモンが、電光の三又槍をグリッと抉り込む。
抉り込まれた穂先からジャックドラゴンの体内へと、電撃が激しく流入した。
臓物が砕け散ったかと思えるほどの衝撃が、レボルトの身体の中を駆け巡る。
悲鳴を上げる事も、呼吸すらも出来ぬまま、レボルトは倒れ伏していた。
倒れ伏した身体を、サーペントエルフが片足で踏みにじる。
「この世の人民は全て! 私の手によって! 美と力と叡智の結晶たる魔獣人間に成らなければならない! 老若男女の差別なく!」
喚き、ジャックドラゴンの背中をグリグリと踏み付けながら、シナジールは槍を引き抜いた。
付着した血液を電熱でバチッ! と蒸発させながら、その三又の穂先が高々と上がる。そして、レボルトの頭部に向かって突き下ろされる。
「女子供は助けろなどとほざく差別主義者は、死になさい死になさい死になさぁーあいッ!」
シナジールの絶叫に合わせて突き下ろされたはずの槍は、しかし、いつまで経ってもレボルトの頭を穿つ事はなかった。
体内で電撃がくすぶっている状態のまま、レボルトは辛うじて呼吸を回復させ、見上げる。
自分を踏み付けていたサーペントエルフが、マイコフレイヤーの巨体と重なり合って倒れ、転がっている。それに、レボルトはようやく気付いた。
「どこまで汚らしい様を晒してくれるのかしらね……」
怒りの呻きを漏らしながらメイフェムが、ゆらりと右足を着地させている。猛禽の爪で掴み投げるように、マイコフレイヤーの巨体を、サーペントエルフに向かって蹴り込んだところだった。
「ケリスはね、あんたらゴミどもが大きな顔してのさばり歩く……そんな世界を守るために、死んだわけじゃないのよ……ッ!」
「何を……わけのわからぬ事を!」
グッタリとのしかかるマイコフレイヤーを押しのけながら、サーペントエルフは立ち上がり、怒り狂い、踏み込んだ。
「叡智に欠ける、どころか狂気に取り憑かれているようですねえ哀れなる者! 楽にしてあげます感謝なさぁああああい!」
そこそこの技量で突き込まれた三又の穂先を、メイフェムは転がり込んで回避した。そして地面に突き刺さっていた両刃の長剣を回収しながら身を起こし、左腕を鋭く振るう。
手首と掌の間から鞭が射出され、超高速で伸びた。
そして、起き上がりつつあったマイコフレイヤーの身体を打ち据える。細かな茸の破片をビシッと飛散させながら、巨体が再び吹っ飛んで倒れた。
その間、メイフェムの右手は長剣を振るい、三又槍をサーペントエルフの両手から叩き落としていた。やはり、まっとうな武術では勝負にならない。
打ち据えられた巨体をのたのたと這わせるマイコフレイヤーと、無様に尻餅をついて怯えるサーペントエルフ。男の魔獣人間2体をメイフェムは、剣を構え鞭を鳴らして威嚇する。
その間に、レボルトは動いていた。
魔獣人間たちなど眼中にない様子で、激烈に戦い続ける者たちに向かってだ。
全身に亀裂を走らせた赤き魔人と、全身おぞましく灼けただれたデーモンロード。今はいくらか間合いを開き、互いの隙を狙って睨み合っている。
ぶつかり合う両者の眼光を断ち切る感じに、レボルトは割って入った。デーモンロードを、背後に庇う格好になった。
「そこまでだ、デーモンロード殿……」
「……何の真似だ、貴様」
デーモンロードが、隻眼を燃え上がらせて激昂する。
「私の力押しの戦いを、邪魔するのか!」
「冷静になれ。貴殿らの力はほぼ互角、このままでは何日間戦っても勝負はつかぬ……」
言いつつレボルトは、己の体内で、電撃に灼かれた臓物が破裂するのを感じた。
カボチャの裂け目そのものの口から、ゴボッ! と鮮血が溢れ出す。
「レボルト・ハイマン……貴様、手負っているのか?」
信じ難い事にデーモンロードが、いくらか気遣わしげな声を発している。
レボルトの脇腹と背中の間、電撃で灼けただれた傷口に、隻眼が向けられる。
「その傷、メイフェム・グリムによるものではないな……あやつか」
尻餅をついてメイフェムに剣を突き付けられているサーペントエルフを、デーモンロードがギロリと睨んだ。
「魔獣人間作りのため、我が配下に加えてやったが……この場に伴うべきではなかったかな」
「私の事など良い。それよりデーモンロード殿、この場での戦い……我らの勝ちは、もはやないぞ」
その理由をレボルトが説明する前に、メイフェムが、シナジールに突き付けていた剣を赤き魔人に向けていた。両刃の切っ先が、淡く白い光を発する。
赤き魔人の満身創痍の肉体が、同じ光にキラキラと包まれた。
ひび割れていた全身甲殻から、拭い去ったかの如く亀裂が消え失せる。その下で半ば蒸し焼き同然となっていた筋肉も、完全に修復されてしまったのが見てわかる。
刃を砕かれた左前腕から、新たなるヒレが生え広がってジャキッと音を鳴らした。
癒しの力。
デーモンロードが、爆炎の吐息を浴びながらも負わせた重傷。それが、なかった事にされてしまった。
「わかったであろうデーモンロード殿。貴公らの力は全くの互角、となれば」
「……癒しの力の使い手を味方に付けている方が、圧倒的有利と。そういう事か」
デーモンロードが呻いた。
「メイフェム・グリム……19年前に、いささか無理をしてでも貴様を殺しておくべきであった」
「それはこちらの台詞。お前と言い、あのブラックローラ・プリズナと言い……あの時、始末し損ねた連中に、20年経ってからこんな不愉快な思いをさせられるとはね」
メイフェムがそんな事を言っている間に、尻餅をついていたシナジール・バラモンが、立ち上がれぬまま這う虫の如くコソコソと逃げ離れて行く。
それを一瞥もせず、メイフェムがさらに言う。
「さあ、何をしているのガイエル・ケスナー。手負いの怪物2匹、万全の貴方の力なら造作なく叩き潰せるはずよ」
「……いささか卑怯ではあるが、まあこれが戦いというものか」
ガイエル・ケスナー。赤き魔人の名を、レボルトは今知った。
万全の状態となった身体で、踏み込んで来ようとするガイエル。そちらに向かってレボルトは、
「させん……!」
声と一緒に、炎を吐いた。
破裂した臓物から血反吐が込み上げて来るが、それを無理矢理に呑み込みながら、レボルトは火炎の球体を吐き出した。
2つ、3つ。ジャックドラゴンの口から火球が発射され、赤い流星のように飛ぶ。
それらを、ガイエルは翼で受けた。
マントの如くはためく翼の表面で、火球がことごとく爆発し、爆炎が赤き魔人を激しく取り巻いた。
内臓破裂の状態で吐き出す火球など、せいぜい目くらましにしかならないだろう。
早急に退却するべきだと言うのに、デーモンロードが呑気な事を言っている。
「レボルト・ハイマン、貴様は……私と竜の御子の、共倒れを狙っていたのではないのか?」
「メイフェム・グリムがいる以上、それは叶わぬ夢……となれば今は、不本意でも貴公の味方をせざるを得ぬ」
不本意である事を、レボルトは隠さなかった。偽りの忠誠を口にしたところで意味はない。
寝首を掻かれるのを覚悟の上で、このデーモンロードという怪物は、レボルトを配下として使っているのだ。
レボルト・ハイマンが万全の体調でなくなったのは、火球を受けただけでわかった。
それでも翼にぶつかって来る火の玉には、強靭な皮膜が破けてしまいそうなほどの破壊力がある。
ガイエルは、防御から回避へと動きを変えた。それまで楯として使っていた翼を羽ばたかせ、半ば飛翔しつつ跳躍する。
レボルトの火球が足元をかすめ、地面に激突し、爆炎となって噴き上がる。
下方からの爆風に煽られながらもガイエルは、空中で身を捻り、着地しつつ横に転がり込んだ。
立て続けに飛来する火球が、転がるガイエルを追って次々と地面にぶつかり、爆炎と土の破片を飛び散らせる。
その連続爆発がようやく収まった時、レボルトもデーモンロードも姿を消していた。さほど強敵ではないものの生かしておくと面倒な事になりそうな、他2体の魔獣人間もだ。
「逃げられた……か」
ガイエルは呟き、振り返った。
気遣う必要もなく、火球の雨を自力で凌いだメイフェム・グリムが、そこにいる。
「すまんなメイフェム殿。せっかく治してもらったのに、あやつらを仕留め損ねてしまった」
「仕方ないわね。デーモンロードもさる事ながら、レボルト将軍も充分に厄介な相手だから」
言いながらメイフェムが、じっとガイエルを見つめている。
「……貴方には1度、会ってみたいと思っていたところよ。あの時レフィーネ王女が、その身に宿していた生命……思った以上の怪物に育ってしまったものねえ」
「……俺の母を、知っているのか?」
「お父様の事もね」
人間の面影が残る口元で、メイフェムは微笑んだようだ。
「……私はね、貴方のお父上を両方とも知っているのよ」
「両方だと……」
ガイエルは睨むように見返し、言った。
「俺のくそ親父はダルーハ・ケスナーただ1人だ。俺が生まれる前に殺された怪物など」
「悪いわね、私にはどうしても見えてしまうのよ……死んだはずの、その怪物が」
メイフェムの頭部の上半分で、猛禽の両目が、ガイエルに向かって眼光を強める。
「貴方は、下手するとあれ以上の怪物……出会い方次第では私、貴方に殺されていたわね」
「そうなのか?」
「ヴァスケリアではゴルジ殿と結託して、いろいろとやっていたから……私、エル・ザナード1世陛下のお命を狙おうとした事もあるのよ?」
「……今のあんたは、俺にとって恩人だ。それ以外の事は、とりあえずはいい」
まさか、この女魔獣人間の口から彼女の名前が出るとは、ガイエルは全く思ってもいなかった。
(ティアンナ、貴女は……つくづく魔獣人間どもと縁が切れないようだな)
「ダルーハが育てた怪物……1度、見てみたかった」
メイフェムが、くるりと背を向けて歩き出す。
「また、どこかで会うかも知れないわねガイエル・ケスナー……今度は、敵として」
「待ってくれ。あんたはティアンナ……エル・ザナード1世女王を、知っているのか?」
ガイエルは若干、慌てて呼び止めた。
「俺は今、彼女の行方を追っている」
「あの女王が……貴方を伴わずに単独行動を取っているの?」
メイフェムが、意外そうに振り向いた。
「エル・ザナード1世が、自分の影の如く引き連れて便利に使っている怪物がいる……そういう噂があるのはご存じ? 私てっきり貴方の事だと思っていたわ」
もしそうなら、どんなに良いか、とガイエルは思った。ティアンナは自分など頼らずに、たった1人で無茶をやらかそうとしているのだ。バルムガルド王国から魔獣人間の生産手段を奪う、などという、下手をするとダルーハ・ケスナーとの戦いよりも難事業となり得る行いを。
(俺を伴ってくれれば……魔獣人間の生産だろうが何であろうが、貴女を守る片手間に叩き潰して差し上げたものを)
ティアンナがそんな事を望んでいないのは、ガイエルとて頭では理解している。
彼女は王族として、自身の力で、ヴァスケリアの脅威となり得るものを排除しようとしているのだ。
だがどうやら、そんな事を言っていられる状況ではない。
「……行くのかい、もしかして」
背後から、声をかけられた。
サードゥ・ミスランが、躊躇いがちに歩み寄って来たところである。
ガイエルは、ちらりとだけ振り返った。
「見ていたのか? 今の戦いを……命知らずな事だな」
「何か物凄い爆発があったようだから、見に来ただけだよ」
答えつつサードゥが、歩み去って行くメイフェムの背中を見送っている。
「……あの人にも、お礼言いそびれちまった」
「彼女が、お前たちの集落で何かしたのか?」
「怪我人を治してくれたんだよ……人間じゃない人たちに世話になりっぱなしさ、俺たちは」
自嘲するようなサードゥの口調が、いくらか改まった。
「あんたには本当に感謝してるよガイエル殿。あんたがずっと集落にいてくれれば、俺たちは大助かりだ……けどガイエル殿は、俺たちを助けてくれるために、この国に来たわけじゃないんだろう?」
「……まあ、な」
自分が去れば、あの集落を守る者はいなくなる。
そう思うのは自惚れでしかないと何度、ガイエルは己に言い聞かせた事であろう。
メイフェムの姿は、もう見えなくなっていた。彼女には彼女の目的がある。
「俺たち、自分らの事は自分らで守ってみせるさ。こう見えても、元々は兵隊だからな」
サードゥが言った。見ていると気恥ずかしくなってくるような笑顔でだ。
「あんたは、あんたの目的を果たしてくれよ。ただ、そのついででいいから……俺たちみたいな奴らがいたら、助けてやって欲しい」
「上手い事、俺の視界に入ればな」
冷たく素っ気ない口調を、ガイエルは作った。
わかっている。今こうしている間にも、バルムガルド国内の至る所で、デーモンロード配下の魔物どもが民衆を殺戮している。
その全員を救い守ってやる事など、ガイエルの力では不可能なのだ。
(貴女1人を、辛うじて守れるかどうか……俺の力など、そんなものだ)
この場にいない少女に、ガイエルは心の中で語りかけていた。
彼女とて別に、バルムガルドの民を救うためにこの国へ潜入したわけではない。
だが目の前で民衆が魔物や魔獣人間に襲われていたら、それがバルムガルドの民であろうとヴァスケリアの民であろうと、あの少女は決して見て見ぬふりなど出来ないであろう。
(否……見て見ぬふりをしてもらうぞティアンナ。他国の民など救うために、命を懸けてはならぬ)
見送るサードゥを一瞥もせず、ガイエルは歩き出した。
(そんな行いは、俺がやめさせてやる。怒り狂う貴女を、無理矢理にでもヴァスケリアへ連れ戻す)
その思いを心の内にとどめてはおけず、ガイエルは呟いた。
「……竜は姫君をさらうもの、だからな」