第69話 タジミ村の王族たち
村の中で、魔獣人間同士の戦いが始まってしまった。
獅子・山羊・猛禽と3つの頭部を有するグリフキマイラと、色とりどりの茸によって筋骨隆々の巨体が組成されたマイコフレイヤー。
農作業にいそしんでいた村人たちが、逃げ惑っている。木陰に隠れて見物しようとしている、命知らずな者もいる。
そんな状況の中。相手が素手であるにもかかわらずゼノス・ブレギアスは、鎖で腰に結わえられたリグロア王家の剣を容赦なく抜き放っていた。これは正々堂々たる武術の試合ではなく実戦の殺し合いなのだから、というところであろう。
「おぅらあっ!」
獅子の口から、気合いの声が迸る。グリフキマイラの巨体が滑るように踏み込んで行く、と同時にリグロア王家の剣が一閃し、だが空振りした。
マイコフレイヤーが、ゼノスを上回る巨体を怪しく揺らし、かわしていた。
極彩色の茸が無数、人型に集まり固まって構成された巨体。その動きは、奇怪でありながら、妙な優雅さをも感じさせる。シーリンは思わず、見入ってしまった。
そんなマイコフレイヤーの回避運動に、グリフキマイラが斬撃を追いすがらせる。リグロア王家の証たる長剣が、2度3度と閃き、唸り、空を切る。茸で出来た巨体が、しなやかに怪しく踊り、ゼノスの剣をかわし続けた。
「うっふふふふ……なかなか当たんないわねぇ坊や?」
奇怪にして優美な回避の舞いを披露しつつ、マイコフレイヤーが嘲笑う。口から生えた幾本もの触手が、嘲笑に合わせて蠢く。
「てめ……俺を坊やとか呼ぶんじゃねえええ!」
ゼノスの怒りを宿した斬撃が、しかし豪快に空振りをした。
かわしたマイコフレイヤーに、リグロア王家の剣が、なおも激しく執拗に襲いかかる。
「おっ俺の事、いけない坊やとか悪い子とか駄目な子とか呼んでいいのは、ティアンナ姫だけなんだからよォー!」
獅子の口が叫び、山羊の口がハァハァと息を荒くして、鷲のクチバシが何やら切なげな絶叫を放つ。苦しそう、である。
気のせいか、とシーリンは思った。
苦しそうにしているグリフキマイラの剣さばきが、しかし少しずつ正確さを増しているようにも見える。
リグロア王家の剣が、マイコフレイヤーの巨体をかすめた。
極彩色の茸が分厚く固まった胸板に、細い傷口が生じた。
「あら……やるじゃないの、ゴルちんが作った魔獣人間のクセにぃ」
まだまだ余裕が保たれた言葉に合わせて、触手が跳ねた。
マイコフレイヤーの口から蛇あるいはミミズか蛸足の如く伸びたものたちが、鞭のように空気を裂いてゼノスを襲う。
「ぐぅ……ッ!」
グリフキマイラの巨体が、血飛沫を散らせて揺らいだ。たくましい異形の全身のあちこちが、鞭の如き触手たちによって打ち据えられていた。
リグロア王家の剣が、打ち飛ばされて宙を舞い、少し離れた所で地面に突き刺さる。
もちろん拾う暇など与えるはずもなく、マイコフレイヤーがなおも容赦なく触手を振るう。
「あンもう……アタシのコレはぁ、可愛い男の子をうにゅうにゅジュルジュルするためのモノなのにぃ」
ふざけた言葉と共に何本もの触手が、超高速でうねり、しなって宙を裂き、グリフキマイラを殴打し続ける。
霧のような血飛沫が、際限なく飛び散り続けた。
「こぉんなゲテモノ坊やをイジめたって愉しくなぁい、美味しくなあぁい!」
立ちこめる鮮血の霧の中で、ゼノスは多方向から打ちのめされて痛々しく揺らぎ、無惨な舞いを披露している。
「ゼノス王子……!」
泣き出したフェルディを抱き締めながら、シーリンは息を呑んだ。
自分の義弟を自称するこの魔獣人間が、本当に息子の叔父となってしまうのかどうかはともかく、フェルディは懐いてしまった。
メイフェム・グリムに対しては怯え泣くだけだった息子が、グリフキマイラの頭に乗っている時には、母親であるシーリンがこれまで見た事もないほど楽しそうに嬉しそうにしているのだ。が、今は泣いている。
泣いている赤ん坊、泣き止ませる事の出来ない未熟な母親、不安げに身を寄せて来るマチュア。
その3名を背後に庇って立ちながらティアンナが、白く輝く魔石の剣を構え、もう1体の魔獣人間と対峙している。
マントとフードをまだ脱ぎ捨てていない、すらりとした長身。マイコフレイヤーに加勢する様子もなく、今のところティアンナやシーリンに危害を加えようともせず、ただ悠然と立っている。
「……貴方は、戦わないのですか?」
ティアンナが命知らずな事を言った。2対1の戦いになれば、ゼノス王子は間違いなく殺される。ティアンナやシーリン母子も、ついでのように殺されてしまうだろう。
「ものを知らぬ人間の小娘に、1つ教えて差し上げましょうか……」
フードの下で、魔獣人間は嘲笑った。
「戦いとは、私の美と力と叡智を証明するためのものでなければなりません。2対1で弱い者いじめをしたところで、私の何かを証明する事など出来ないのですよ」
「弱い者いじめは、お好きなのでしょう? 臭いでわかります……貴方からは腐臭が漂っておりますので」
ティアンナも嘲笑った。
「腐臭を放つ本性を、作り物の上品さで上手く隠したつもりでしょうけど。腐ったものは、汚らしく滲み出て来るものよ?」
「……無論、お前のような身の程知らずの小娘を生かしてはおきません。弱い者いじめになろうとも、ね」
魔獣人間の涼やかな美声が、いささか剣呑な響きを帯びた。
「私の美と力と叡智、まずはお前に思い知らせてあげるとしましょう。覚悟なさい?」
「腐臭のする息を吐きながら、美や叡智などと口にするものではないわ……少しお黙りなさい、魔獣人間」
「いっ! イイなぁーそれ!」
いいように打ち据えられていたグリフキマイラが突然、嬉しそうな声を発した。今まで鞭の如く自分を折檻し続けていた触手たちを、左手だけで束ね掴み取りながらだ。
猛禽の足そのものの形をした左手。まさに鷲・鷹が蛇を捕らえたかの如く、何本もの触手を一まとめに握り潰さんとしている。
「そっその虫ケラを見下すような目! 汚いもんを蔑みきった喋り! やいテメエこら、ううう羨ましぃーじゃねえかおう! おう! おう!」
「こ、このゲテモノ男! 放しなさいよちょっと……ぎッ! ぎゃああああ痛い痛いイタイ痛いぃいいいいいい!」
喚くマイコフレイヤーを、ゼノスは触手を掴んだまま振り回し、
「テメエはよ……俺が戦ってる間に、人の嫁さんと羨ましい会話してんじゃねええ!」
怒声と共に、放り投げた。
物の如く投擲された巨体が、もう1体の魔獣人間に激突……する寸前、空中で停止した。と言うより、目に見えぬ何かにぶつかった。
その瞬間、電撃が発生した。
「ぎゃびぃいいいいいいいいい」
奇怪な悲鳴を発するマイコフレイヤーの身体が、バチバチバチッ! と電光に絡み付かれて空中で悶える。
そして地面に落下し、のたうち回る。
「電光の防壁……」
ティアンナが呟いた。
「貴方は、魔獣人間であると同時に……魔導師、なのですか」
「私はレグナードの魔法貴族……これを作ったのも、私ですよ」
感電し転げ回るマイコフレイヤーを片足で踏み付けながら、魔獣人間は言った。
「私の作品に、このような無様な姿を晒させるとは……ゴルジ・バルカウス。他はともかく魔獣人間製造の技術だけは、まあ認めてあげなければなりませんか」
「ぎゃっ……びぃ……ご、御主人様ぁ……」
踏み付けられているマイコフレイヤーが、悲鳴か喜声か判然としない声を漏らす。
なおもグリグリと踏みにじりつつ、長身の魔獣人間は美声を発した。
「お前たち愚かなる者どもは知るまい……魔獣人間とは元来、我ら魔法王国の貴族が、愚民の群れを管理し、守り、導くために作り出したもの。私は今こそ、魔獣人間の本分を果たす。醜悪・非力・愚劣なる民衆は、私の美を崇拝し、私の力によって守護され、私の叡智によって導かれるのですよ」
フードが、めくれ上がった。マントが、ばさりと宙を舞った。
シーリンの視覚をまず刺激したのは、鮮烈な青さである。
南国の海のように青い、無数の鱗。それらが騎士の甲冑の如く、優美な長身を包み込んでいた。その所々から、小型の刃物にも似た鋭利なヒレが生え広がっている。
首から上は、ある意味、グリフキマイラやマイコフレイヤーを遥かに上回る異形だった。魔獣人間としては有り得ない異形、と言えなくもない。
整った輪郭の中で、非の打ち所なく整然と配置された目鼻口。肌は新雪のように白く、切れ長の両目は涼やかな輝きを湛え、鼻梁はすっきりと細く、端正な唇は知的な微笑を浮かべている。
シーリンは寒気を感じた。これほど美しい男性は、見た事がない。
ぞっとするほどの美貌の左右に、刃物のようなヒレが1枚ずつ、両耳の形に突き出ている。
髪は、さらりとした金髪。その目映い色艶は、男にはもったいないと思えるほどだ。
「不幸にしてレグナード魔法王国は滅び、魔力も叡智も持たぬ愚民たちが、好き勝手に国を作って無益なる争いを繰り広げる、嘆かわしい時代となってしまいました……」
美しい貴公子が鱗状の青い甲冑をまとったような姿の魔獣人間が、耳をくすぐる美声で語る。
「愚かなる民衆は、やはり管理され、守られ、導かれなければなりません。最強にして最美の魔獣人間……このサーペントエルフによって、ね」
「要するにアレか。世界征服ってやつをやりてえワケだな? てめえは」
ゼノスが、続いてティアンナが言った。
「そのために、今はゴルジ・バルカウス……あるいはジオノス2世王に臣従し、機会を窺っていると。そのようなつもり?」
「利用出来るものを探しているのですよ、私はね」
魔獣人間サーペントエルフが、得意気に言う。
「あらゆるものを利用する。それこそが、すなわち叡智……愚かなるゴルジ・バルカウス、あるいは病弱なる人間の国王。取るに足らぬと思える者どもを利用し尽くして、私はこの世の頂点に立つのです。そしてお前たち愚劣・非力・醜悪なる輩に、かつての魔法王国の如き平和と栄えをもたらして差し上げましょう。感謝なさい?」
「……そういうのを、世迷い言と言うのですよ」
ティアンナが言う。
サーペントエルフの冷たい美声に、燃えるような殺意が宿った。
「身の程を知らぬ人間の小娘……お前だけは例外です。私の叡智をもってしても、お前のごとき愚か者を導く事は出来ぬ。救う事も、守る事も出来ぬ」
白い美貌が憎悪に歪み、涼やかだった両目がギラギラと眼光を燃やしてティアンナを睨む。
「ただ、罰を与えるのみ……苦しみ抜いて死になさい、エル・ザナード1世とやら」
「今の私は女王エル・ザナード1世ではありません。ティアンナ・エルベットという、単なる小娘です」
「ティアンナ姫、下がってくれよ……!」
グリフキマイラが駆け出した。ティアンナに殺意を燃やす、美貌の魔獣人間に向かってだ。猛禽のカギ爪を備えた左手で、掴みかかって行く。
踏み付けていたマイコフレイヤーの身体を、サーペントエルフは蹴り上げた。
茸で出来た巨体が、放物線を描いて飛び、グリフキマイラに激突する。魔獣人間2体が、もつれ合って倒れた。
そこへサーペントエルフが、優雅なる仕草で左手を向ける。
小さな太陽、のようなものが3つ、4つと空中に生じた。人の頭ほどの大きさに固まって燃え盛る、火の玉である。
4つのそれらが一斉に飛び、もつれ合う魔獣人間2体を直撃した。
爆発が起こった。
マイコフレイヤーが悲鳴を、グリフキマイラが怒声を、それぞれ張り上げ、両者共に爆炎の中から押し出され吹っ飛んで行く。
レグナードの魔法貴族らしい、強烈な攻撃魔法だった。
吹っ飛んだグリフキマイラが、しかし地面に激突しつつも巨体をごろりと一転させ、起き上がる。
そして即座に地を蹴り、サーペントエルフに突進して行く。3つの口から、怒りの雄叫びを張り上げてだ。
サーペントエルフの左手から、電光が迸った。
横向きに宙を切り裂く稲妻。それが、グリフキマイラを直撃する。
3つの口からの雄叫びに、少しだけ悲鳴が混ざった。
その力強い全身のあちこちで獣毛が焦げちぎれ、皮膚が破裂し、飛び散った鮮血が電熱で蒸発する。
そんな凄惨な感電負傷の様を晒しつつも、しかしゼノスは動きを止めなかった。
「うおおぉぁあああああああああッッ!」
叫びながら左手を、猛禽の爪を振り上げ、バリバリと電光に絡まれつつもサーペントエルフに走り迫る。
「美とは程遠く、叡智の欠片もなし……」
呟きながらサーペントエルフが、軽く右手を動かす。その右手に一瞬、光が生じた。
「ですが、力だけは……そこそこは有るようですね」
細長く伸びたその光が、棒状に固まって実体を得る。
グリフキマイラの突進が、止まった。
サーペントエルフの右手には、槍が握られていた。鋭利な三又の穂先が、グリフキマイラの分厚い胸板に突き刺さっている。強固な筋肉に阻まれ、それほど深々と刺さっているわけではないようだが。
「ゼノス王子!」
マチュアが悲痛な声を発した。フェルディは相変わらず、シーリンの腕の中で泣き喚く。
ティアンナは一言も発さず、魔獣人間同士の戦いを、じっと観察している。
ゼノス本人もまた、悲鳴1つ発する事なく、胸を穿つ穂先の根元を右手で掴んだまま、獅子の両眼でサーペントエルフを睨み据えていた。白く鋭い牙で、苦痛の呻きを噛み潰しながら。
「認めてあげましょう。貴方は、なかなか出来の良い魔獣人間です……利用してあげても良い、と思えるほどにはね」
サーペントエルフが、笑った。
「私に利用されなさい。見たところ貴方には、自分自身で何か判断出来るような叡智はなさそうです……何も考えず、私の命令で動くだけの楽な生き方をさせてあげましょう。感謝なさい?」
「お、俺に……何か命令していいのは、ティアンナ姫だけなんだよぉ……」
血まみれの姿で、痛そうに苦しそうに、だが不敵に牙を剥いてゼノスは微笑んだ。
「だがな、たとえ命令されなくたってテメエは殺す……」
「……楽な生き方ではなく、苦しい死に方を選んでしまったようですねっ」
サーペントエルフの右手から槍へと、電撃が流れ込んだ。長柄から三又の穂先へ、そこからゼノスの胸へと、電光が流し込まれた。
「うッぐ……ぅ……っ」
グリフキマイラの胸板で、電撃光が激しく爆ぜた。
その爆発に吹っ飛ばされたゼノスが、しかし倒れず、よろめきながらも踏みとどまる。
胸板の傷口が無惨に焼けただれ、生々しい肉の焦げ臭さを発している。が、グリフキマイラは倒れていない。
倒れる、と思い込んでいたのだろう。サーペントエルフの美貌に一瞬、狼狽の表情が浮かんだ。
その一瞬の間にグリフキマイラは踏み込み、距離を詰めていた。素手の相手を槍で一方的に突き殺せる距離、ではなくなりかけた。
サーペントエルフが、いくらか慌てて槍を繰り出す。人間であれば触れただけで黒焦げになるであろうほどの電光を帯びた槍。
それをゼノスは右手で、穂先の根元を握って掴み止めた。電撃が轟音を立て、グリフキマイラの身体に流れ込む。
だがもはや慣れてしまったかの如く、何の痛みも衝撃も感じていない様子で、ゼノスはそのまま左手を振るった。猛禽のカギ爪が、サーペントエルフの顔面に襲いかかる。
「ひ……っ!」
涼やかな美声が、滑稽な感じに引きつった。
槍を手放し、両手で顔面を庇うサーペントエルフ。その両手もろとも魔獣人間の美貌を叩き潰してしまいかねない勢いで振るわれたカギ爪が、しかし止まった。
次の瞬間、サーペントエルフの青い長身がズドッ! と前屈みに折れ曲がった。その腹部に、グリフキマイラの右膝が叩き込まれている。
「やっぱなぁ……その綺麗な顔、なりふり構わず庇うんじゃねえかと思ったぜ」
足元へと沈むように倒れゆくサーペントエルフに、ゼノスが言葉をかけた。
「けどなあ、男が綺麗な顔してたって何の自慢にもならねえんだよっ!」
触手に打ち据えられて血まみれになった獅子の顔面に、ゼノスが猛々しい笑いを浮かべる。
そうしながら、奪い取った槍を両手でへし折る。折られた槍が、白い光に戻ってキラキラと散り消えた。
「ひぃっ……ま、待ちなさい……」
サーペントエルフが、腹を押さえてうずくまったまま、そんな声を発した。ぞっとするほど美しかった顔が、苦痛と恐怖で無惨なまでに歪み、引きつっている。
「待たねえよ。俺ぁ今から、てめえを殺す」
言いつつゼノスが、地面に突き刺さっていたリグロア王家の剣を拾い上げ、構えた。
「……何かイカした死に台詞、3秒で考えろ」
「や、やめ……ひいぃぃぃい」
「何だよ、そんなんでいいんか」
怯えるサーペントエルフに向かって、剣を振り下ろそうとするグリフキマイラ。その巨体が突然、揺らいだ。
「ぐっ……? が……ッッ!」
右手で剣を構えたまま、左手で獅子の頭を押さえ、カギ爪でタテガミを掻きむしる。激しい頭痛に苛まれている様子である。
目に見えない攻撃が、どこからかゼノス王子を襲っている。そのくらいは、シーリンにもわかる。
どこからなのか、は考えるまでもなかった。ゼノスは今、1対2の戦いをしているのだ。
「……調子ブッこいてくれたわねぇ、ゲテモノ坊や」
マイコフレイヤーが、よたよたと立ち上がりながら、何かをしている。
手は動いていない。足も動いていない。口の触手が、グリフキマイラに向かって微かに揺らめいているだけだ。
それでも、この魔獣人間は何かをしている。ゼノスに、何らかの攻撃を仕掛けている。それが、シーリンにはわかった。
「人の精神をねぇ、ちょっと操っちゃったり出来るのよねえアタシってば。ま、アンタは人じゃないんだけどぉ」
マイコフレイヤーが、触手を震わせて笑う。
その震えに合わせて、目に見えぬ波動のようなものが発生し、グリフキマイラを襲っているようだ。
「ぐあっ……てめ……え……ッッ!」
獅子の頭、だけでなく山羊の頭と猛禽の頭も、角とクチバシを振り立てて苦しんでいる。
「うっふふふ、これでアンタはアタシの操り人形。無理に逆らったりすると、脳ミソ破裂しちゃうわよん?」
「ざけんな……! お、俺を操り人形にしていいのは、ティアンナ姫だけ……」
「ではなくフェルディ王子だけよ?」
ティアンナが言った。
「早く戦いを終わらせて、頭に乗せてあげなさい」
「へっ……見てな、フェル坊……」
グリフキマイラの身体が、マイコフレイヤーの方を向いた。苦しむ3つの頭部が、苦痛に血走る6つの眼球が、その苦痛の元凶たる魔獣人間を睨み据える。
「叔父さん、こんな奴らにゃ負けねえからよ……!」
「なっ……何アンタ、こっち来るんじゃないってのよ!」
マイコフレイヤーが怯えながら、目に見えぬ波動の放射を激しくしたようである。
苦痛の悲鳴を、怒りの咆哮で押し潰しつつ、ゼノスはその波動を無理矢理に突っ切って行った。左右の蹄で地面を抉りながらの、強引な踏み込み。
それと共に、リグロア王家の剣が斜めに一閃する。
黒っぽいものがドバァッ! と大量に噴き上がった。
茸で組成された胸板や腹筋が大きく裂け、体液と、それを上回る量の臓物が、とめどなく溢れ出している。マイコフレイヤーの巨体は、半ば真っ二つとなっていた。
内容物をぶちまけながら、うつ伏せか仰向けか判然としない形に倒れる魔獣人間。それには目もくれずゼノス王子が、先程とどめを刺す寸前だった相手の方を向く。
が、わずかに遅かった。
立ち上がったサーペントエルフが、左手を掲げている。ゼノスに向けて、ではなく、シーリン母子やマチュアに向かってだ。
その左手が、電光を発した。
それだけではない。小さな太陽の如く空中に生じた火の玉が5つ、電光の発生に合わせて一斉に飛ぶ。
稲妻と火球たちが、シーリンを、ティアンナを、マチュアを、それにフェルディを、まとめて灼き殺すべく襲いかかって来る。
覚悟を決めている暇もない、と思われたその時。シーリンの眼前に、何者かが飛び込んで来た。
ゼノスだった。血まみれの巨体をこちらに向け、両腕を、翼を、いっぱいに広げている。
その背中に、電光と火球が全て激突した。
獅子の口が、山羊の口が、鷲のクチバシが、固く閉じて悲鳴を閉じ込める。
「ゼノス王子……!」
泣きじゃくるフェルディを抱き締めたまま、シーリンが声を漏らす。
ゼノスは応えず、獅子の口元をニヤリと苦しげに歪めた。
微笑んだその口から、鮮血が溢れ出す。その血反吐の飛沫が、まとわりつく電光に灼かれて蒸発する。
グリフキマイラの広い背中では、翼がボロボロに焼け焦げていた。獣毛が焦げちぎれて皮膚が裂け、血まみれの背筋が剥き出しになっている。
そんな状態で、ゼノスは片膝をついた。今にも倒れてしまいそうなその巨体を、マチュアが泣きながら支えている。
狂ったような笑い声が、聞こえた。
「ふ……っはははははは思った通り! 自ら攻撃に当たりに来ましたねえええ!」
サーペントエルフだった。その美貌は醜悪に歪み、内面のおぞましさを剥き出しにしている。
「これが! これが叡智ある戦い方というものですよ美しい! 取るに足らぬ者どもを最大限に利用し、最小限の力で勝利を得る! まさに美と叡智の勝利です!」
狂人の如き笑いと共に、またしても火の玉が生じた。4つ、5つとサーペントエルフの周囲に浮かび、燃え盛る。
「さて、とどめを刺してあげましょう。醜悪・非力・愚劣なる者どもに対する、私からの最後の慈悲です。感謝なさい?」
言いながら、サーペントエルフが左手を掲げる。
その左手から電光が発生し、こちらに向かって迸りかけた、その時。
細身の人影が、小型肉食獣のように駆けた。駆け出した、と見えた時には、すでにサーペントエルフの眼前に達している。
ティアンナだった。
その手に握られた魔石の剣が、攻撃魔力の光を帯びて白色に輝きながら、激しく一閃する。
魔獣人間の歪んだ美貌が、驚愕に引きつった。
引きつった美貌に一筋の傷が走り、鮮血が噴き上がる。
「がっ……ぎ……」
切り裂かれた顔面を右手で押さえ、サーペントエルフが後退りをする。そして絶叫を張り上げる。
「ぎ……ゃあ……あああああ顔が! 私の顔が! 私の美しい顔がぁあああああ!」
「安心なさい。貴方の顔は充分、醜くなっていましたから」
白く輝く剣を構え直しながら、ティアンナは言い放った。
「傷の1つや2つでは、大して変わらないほどにね」
「小娘ェええええええッ!」
逆上した女のように甲高く叫びつつサーペントエルフは、発射寸前の電撃をくすぶらせた左手を、ティアンナに叩き付けようとする。
軽やかに後ろへ跳んで、ティアンナがそれをかわす。
同時にゼノスが立ち上がり、駆け出していた。死にかけていたグリフキマイラの巨体が、ティアンナと入れ替わるように猛然と突進して行く。獅子、山羊、猛禽、3つの口が雄叫びを放つ。
リグロア王家の剣が、まるで落雷のように閃いた。
サーペントエルフの青い長身、その左鎖骨から右脇腹にかけて、一筋の裂け目が生じた。そこからドプッ……と臓物が溢れ出す。
それを左手で強引に押し戻し、右手で顔面の傷を押さえたまま、サーペントエルフは背を向けていた。滑稽な悲鳴を引きずり、逃げて行く。
彼の周囲に浮かんでいた5つの火球が、その逃亡を助ける形に動いた。小さな太陽の如く燃えながら飛翔し、ゼノスとティアンナを襲う。
グリフキマイラが、3つの口を開いた。
獅子の口、山羊の口、鷲のクチバシ。その全てが、炎を吐き出していた。
全方向へと放射された紅蓮の吐息が、ゼノスとティアンナを取り巻いて渦を巻く。炎の防壁だった。
そこに激突した火球が、ことごとく爆発する。
爆発の轟音の中で、サーペントエルフが叫んでいる。
「ティアンナ・エルベット……貴様は許さぬ! 殺す! 私のこの叡智と力をもって、この世で最も無惨にして無様なる死を貴様にくれてやる! 覚えておけ、覚えておけぇえええええ!」
炎が消えた。サーペントエルフの姿も、消えていた。
「……逃げられちまった、か……くそっ……」
ゼノスが呻き、3つの頭で見回した。
ほぼ真っ二つになっていたマイコフレイヤーの死体も、見当たらない。いや、あれは死体ではなかったのか。あんな状態でありながら生きていて、自力で逃げ出したのであろうか。
グリフキマイラが、死にかけた巨体をメキッ……と震わせながら倒れた。
その身体が、細く縮んでゆく。獣毛が失せ、あちこち焼けただれた人間の皮膚が露わになる。3種の獣の頭部が、縮みながら1つにまとまってゆく。
血まみれの、たくましい全裸の若者。そんな人間としての外見を取り戻したゼノス王子が、倒れながら苦笑した。
「無茶……し過ぎだぜ、ティアンナ姫……」
「……貴方に言われたくはないわね」
そんな言葉を返しながらティアンナは屈み込み、死にかけたゼノスを抱き起こしている。
メイフェム・グリムは、シーリンを守るために崖下に落ち、生死不明となった。
ゼノス・ブレギアスも同じなのか。
自分たちの楯となって、このような重傷を負った。自分などいなければ、こんな事にはならなかった。
そう思いかけたシーリンを、マチュアがじっと見上げている。涙で潤んだ大きな瞳が、シーリンの心を見抜いている。
「もう2度と……あんな事は駄目です、シーリン殿下」
「……わかっているわ、マチュアさん」
崖から身を投げようとしたシーリンを止めてくれたのは、メイフェムと、この少女だった。
シーリンとて、わかってはいる。
人間ではない者たちが、動き回って禍々しい事をしている。ヴァスケリア・バルムガルド2国を巻き込んだこの事態は、もはや自分が死んだところで、全く変わりはしないのだ。
(何が出来るの、この私に……)
ようやく泣き止んだ、だがまた泣き出しそうでもあるフェルディを抱き締めたまま、シーリンは自問した。
自分には、メイフェムやゼノス王子のような、戦う力はない。妹ティアンナのような、したたかさや行動力もない。
自分にあるもの。それはヴァスケリア王家の血と、そしてバルムガルドの王子の母であるという立場のみ。
どうやら魔獣人間グリフキマイラの頭上に戻りたがっているらしい息子に、シーリンは問いかけた。
「私は、お前を……何かに利用しなければならないの? フェルディ……」