第6話 魔人は戦場に舞う
光が一瞬、真横に奔った。
白く輝く魔石の剣を水平に構えながら、ティアンナは着地していた。
こちらに殺到しようとしていたダルーハ軍兵士の群れが皆、時が静止したかの如く、動きを止めている。
彼らの胴体に、甲冑に、横一直線の筋が走った。
それはすぐに裂け目に変わり、兵士たちの上半身がズル……ッと下半身から滑り落ち始める。
上下真っ二つになった屍が十数人分、断面から臓物を吐き出しつつ、崩れ落ちる。
周囲に満ちたダルーハ軍兵士の群れは、しかしあまり減ったようには見えない。
「このクソ小娘、生け捕りにして可愛がってやろうと思ってたがよお……」
「犯り殺されてーみてぇだなああああオイ!」
「まずぁ手足ちょん切って牝犬みたくしてやらぁなあああああ!」
槍や戦斧を振り回し、様々な方向から突進して来るダルーハ兵。
彼らを迎え撃つのは、ティアンナ1人ではない。
「姫様をお守りしろ!」
「この下衆ども、姫様には1歩たりとも近付けさせぬ!」
近衛兵たちが、ティアンナの周囲で素早く陣形を組みつつ、武器を振るう。
振るわれた槍や剣が、ダルーハ軍の攻撃を受け流し、弾き返す。
魔獣人間には虐殺されるままだった王室近衛兵団だが、精鋭である事に違いはない。人間の兵隊が相手ならば、いくらか数で劣っていようとも充分に戦う事が出来る。
王家の人間がきちんと戦っていれば、の話だ。
そう思いながら、ティアンナは駆けた。
姫様には1歩たりとも近付けさせぬ、と歩兵の誰かが言っていた。
その心は嬉しいが、敵に近付けなくては戦えない。
これは逆賊から国を取り戻すための戦いなのだ。王族が率先して戦わなければ、その意義は薄れる。
ティアンナの細い両手に握られたまま、魔石の剣が輝きを増した。
刃の根元にはめ込まれた魔石が、白く発光し、その光が刀身に流れ込んでヴン……ッと微かな音を発している。
炎でも電撃でもない、純粋な魔力の輝きを放つ細身の長剣。を振りかざしながらティアンナは、群れるダルーハ軍のまっただ中に突っ込んだ。
下着のような鎧をまとう細い身体が翻り、魔石の剣が高速で弧を描く。襲い来る槍を2本、3本と叩き切りながら。
槍を切断されたダルーハ兵の1人が、
「はあっ!」
ティアンナの気合いと共に、真っ二つになった。白色に輝く刃が、下から上へと一閃していた。
股間から頭頂部まで叩き斬られた屍が、グラリと左右に倒れる。
王女のそんな戦いぶりに士気を高められた近衛兵団が、怯みかけたダルーハ軍をさらに押し込んだ。
ティアンナの周囲あちこちで、近衛歩兵がダルーハ兵を槍で突き殺し、剣や戦斧で斬殺し、戦鎚で撲殺する。
近衛騎兵団が縦横無尽に駆け回り、ダルーハ軍の騎兵たちをことごとく馬上から叩き落とす。
そして。近衛兵団の奮闘に触発されたかのように諸侯の軍勢が、戦場の各所で、ダルーハ軍を蹴散らしつつあった。
山間の、岩だらけの土地である。
崖というほど急峻ではないが、少なくとも馬では上り下りの難しそうな高台が、近くで切り立っている。
その上に陣取ってダルーハ軍を迎え撃つ、形が作れれば最も良かったのだが、そうなる前に戦闘状態に入ってしまったのだ。
王室近衛兵団と諸侯の手勢から成るヴァスケリア王国正規軍は、総勢3500人。総大将はモートン・カルナヴァート第2王子。
この場の敵兵はおよそ5000。率いるは、ダルーハ軍の一部将エドン・ガロッサ男爵。
数で劣る王国正規軍が勝利を収めるには、とにかく王族自らが戦場に出て決死の覚悟を示し、兵の士気を高めるしかない。
モートン王子にそんな事が出来るわけはないので、ティアンナがやるしかないのだ。
打倒ダルーハ・ケスナーの勅命・檄文が発せられてから、そろそろ1ヶ月である。
一般的に諸侯と呼ばれる地方領主が、ヴァスケリア王国全土に現在、50名はいる。
だが予想通りと言うべきか、勅命に応じてモートン王子の下に馳せ参じたのは、そのうち10名にも満たなかった。
残る40数名のうち約半数は、すでにダルーハ・ケスナーに対し恭順の意を示している。残る半数は、日和見だ。
その日和見主義者たちを味方に付けるには、とにかく勝ち続けるしかない。
「姫様、危険でございます! どうか本陣へお戻りを!」
近衛騎兵の1人が、そんな事を叫んでいる。
ティアンナは耳を貸さず、戦い続けた。
細くしなやかな半裸身が、敏捷に踏み込みながら軽やかに回転する。
長い金髪を舞わせながら躍動する少女の周りに、斬撃の弧が描かれては消えた。
その弧に触れたダルーハ兵たちが、次々と倒れ、生首を転がし、臓物をぶちまける。
その時。実に耳障りな声が、戦場全体に響き渡った。
「お見事! お見事でございますよォー姫君ヒャッハハハハハ」
ティアンナも、近衛兵団も諸侯の軍も。逃げ腰になりかけていたダルーハ軍の兵士たちも。一斉に思わず動きを止めてしまうほど、不快な声である。
敗走寸前のダルーハ軍の中から、騎馬の人物が1人、進み出て来たところだった。
派手な馬甲を着せられた軍馬にまたがっているのは、豪奢な鎧とマントに身を包んだ、太り気味の男である。
口髭が濃く、目が細い。一見にこやかなその表情には、しかし隠しようもない品性の悪さと冷酷さが滲み出ていた。
そんな太り気味の甲冑姿が、不気味なほどの敏捷さで馬から下り、ふわりと地上に立つ。そして芝居がかった身振りで自己紹介をする。
「偉大なるダルーハ・ケスナー様よりこの一軍を賜りたる者、エドン・ガロッサと申しまするウッフフフフフ、姫君には御機嫌うるわしゅううう」
そんな言葉に合わせて、濃い口髭が嫌らしく蠢く。いや顔面そのものが、蠢いている。人間の表情筋とは思えぬ、蠢き方である。
それを見ただけでティアンナには、このエドン・ガロッサなる人物の正体がわかった。
「攻撃魔法兵団!」
魔石の剣を振り上げ、叫ぶ。
王国正規軍が、さっと2つに割れた。そして黒いローブに身を包んだ一団が、進み出て来る。
魔石の杖を携えた、攻撃魔法兵士の1部隊。
「おやおや、そんな者たちで一体何をなさるおつもりですかぁヒッヒヒヒヒヒヒ」
エドン・ガロッサの身体が、メキッ! と音を発して歪み震えた。豪奢な鎧がベキベキと壊れ始める。
変異が完了するのを待たずにティアンナは、魔石の剣を振り下ろした。
それを合図として、攻撃魔法兵士たちが杖を構える。1部隊分もの魔石が、変異中のエドン・ガロッサに向けられる。
そして一斉に、光を放った。炎と雷、2種類の光。
爆発が、起こった。
燃え盛る火の玉と、煌めく電光の筋が、エドン1人に集中し激突し、轟音を立てて砕け散る。
ダルーハ軍の歩兵や騎兵が多数、炎と雷の爆風に吹っ飛ばされながら砕け散り、灰となった。
その爆発の中心から。完全に人間の姿を捨て去ったエドン・ガロッサが、ゆったりと進み出て来る。
「ん〜涼しい涼しい。気分爽快ですよぉウヒョヒョヒョヒョ」
笑う口は爬虫類の如く迫り出し、でこぼこに牙を剥いて、長い舌を躍らせている。
細かった目は、今や飛び出さんばかりに見開かれ、ひび割れたように血走っている。
そんな顔面の周囲に広がっているのは、獅子のようなたてがみだ。
太り気味だった身体は、さらに肥満し、着ていた鎧をちぎり飛ばして、獣毛に満ちた皮膚を露わにしていた。
一応は人間の形に、四肢を備えてはいる。が、両腕の先端にあるのは五指ではない。
右手は、サソリの尻尾の如く湾曲した、大型の針。
左手は、いくつもの棘を生やした球体。
そんなふうに両手を凶器化させた、筋肉質の肥満体。を後ろから包み込むように左右一対、広い翼が背中で開いている。
まとわりつく爆炎を打ち払うように、その翼が羽ばたいた。
「さあさあ、もっと涼しくして差し上げましょうかゲヒヒヒヒヒ、この魔獣人間サラマンティコアがねええええええええ」
魔獣人間の口が、名乗りと共にゴォオオッ! と炎を吐き出した。
「くっ……」
とっさに、ティアンナは横に跳躍した。
跳躍した身体のすぐ近くを、凄まじい熱量が走り抜けて行く。
ティアンナほどの身体能力を持っていない攻撃魔法兵士たちが、襲い来る炎をかわす事も出来ぬまま一瞬にして消し炭に変わり、崩れ落ちて灰と化した。
炎の吐息をとりあえず止め、魔獣人間サラマンティコアが笑う。
「ほぉーら鬱陶しい人間どもがいなくなってこぉんなにスッキリ涼やかにウヒョホホホホホホホホホホ」
歯並びの悪い牙に、長い舌に、チロチロと微かな炎がまとわりつく。
「こ……この化け物が!」
近衛騎兵の1人が、怯えて動かなくなった馬から下りつつ槍を振りかざし、己の足で魔獣人間に突っ込んで行く。
いや1人ではない。3人、5人、10人以上。怯える軍馬から飛び降りて次々と、様々な方向から、剣や戦斧でサラマンティコアに襲いかかる。
「いけない……不用意に戦いを挑んでは駄目!」
ティアンナが叫んだ時にはすでに遅く、魔獣人間は左手を掲げていた。
何本もの棘を生やした、球体状の左手。その棘たちがプシュプシュッと音を立て、様々な方向に発射される。
槍を、剣を、戦斧を、振り上げ振り下ろそうとしていた近衛兵たちが、次々と倒れていった。
倒れた時には皆、死体と化していた。
眼球がこぼれ落ちそうなほどに目を見開き、舌を吐き出す感じに口を開いた、惨たらしい死に顔の屍。
彼らの首筋や腕に、深々と棘が突き刺さっている。冷酷なほど正確に、甲冑の隙間を狙って発射された、猛毒の棘。
それらが何本も、サラマンティコアの左手で、新たに生えつつある。
完全に生え変わるのを待たず、ティアンナは斬り掛かった。
踏み込みと同時に魔石の剣が、白い輝きをヴゥンッと強める。そして一閃。
激しい白色の光を帯びた刃が、魔獣人間の肥えた巨体の、どこかを思いきり殴打した。
それだけだった。固い獣毛と分厚い筋肉に包まれたサラマンティコアの身体は、切り傷1つ負ってはいない。
斬撃を跳ね返され、よろめいたティアンナを庇う形に、近衛兵たちが雄叫びを上げて魔獣人間に突きかかり斬りかかる。
サラマンティコアが、右腕を振り回しながら叫んだ。
「あぁん、男どもが群がっても暑苦しいだけでしょーがぁグへへへへへ、さあさぁ涼しくなりなさあああああああい!」
サソリの尻尾のように湾曲した、巨大な針。そんな形状の右手が、近衛兵の1人を叩き潰した。
叩き潰された、としか言いようのない死に方だ。兜と頭蓋骨がもろともに陥没し、脳と眼球が一緒くたに押し出されている。
その間にも2人目、3人目の近衛兵が、同じような死に様を晒した。
剣や戦斧や槍が、魔獣人間の身体に、命中してはいる。だが全て、傷を負わせる事もなく弾き返されてしまう。
よろめいた近衛兵たちに、サラマンティコアが容赦なく、サソリの尻尾状の右手を叩き付ける。
いくつもの人体が、甲冑もろとも凹みひしゃげて臓物をぶちまけた。
「ゲッヒヒヒヒさぁー涼やかなる姫君よ、貴女をんんーどうしましょうかねェ。このような殺し方をしてしまうのは何とも勿体なし」
胸から上の原形を失った近衛兵の屍を放り捨て、踏みつけながら、魔獣人間がティアンナの方を向く。
敗走寸前だったダルーハ軍兵士たちが、調子に乗って群がって来る。
「そ、それじゃあエドン男爵様、俺らに譲って下さいよぉお」
「そのお姫様を、ちょいと手足動かなくして下さるだけでイイですからぁ、あとは俺たちでヤりますからぁああ」
「ちいぃーったぁ動けた方が楽しいですがねぇえ」
「よ、よくも調子ぶっこきやがってお姫ちゃんよォー」
1歩、2歩と、ダルーハ兵たちがにじり寄って来る。
彼らに魔石の剣を向けながら、ティアンナは後退りした。
「く……っ!」
食いしばった歯の内側に、呻きを籠らせる。
人間の兵隊相手に、いくら有利に戦いを進めようと。やはり魔獣人間が出て来た途端、手も足も出なくなってしまう。
サラマンティコア及びその配下の兵士たちが、さらに1歩、迫り寄って来た、その時。
「ふっ……ははははははは、はぁっははははははははは!」
朗々たる、だがどこか邪悪な笑い声が、戦場に響き渡った。
魔獣人間が、ダルーハ兵たちが、怪訝そうに周囲を見回す。ティアンナもだ。
「ここだ! 虫ケラども!」
ティアンナは見上げた。
崖のような高台の上に、歩兵用の粗末な鎧を着た若者が立っている。
全身、血まみれである。自身が負傷している様子はない。全て、返り血であろう。
ガイエル・ケスナーだった。
彼が助けに来てくれた、という事よりも。彼は何故、高笑いなどしているのか。そちらの方が、ティアンナは気になった。
サラマンティコアが、代わりに訊いてくれた。
「はて、どなたです……と言うよりも。貴方は、何がそんなにおかしいのですかぁンッフフフフ、頭ですか?」
「高い所に上ると、馬鹿笑いをしてみたくなるものでな」
返り血まみれの美貌をにやりと歪めつつガイエルは、左手の親指を背後に向けた。
「こちらに潜んでいた伏兵どもは皆殺しにしておいた。次は貴様だ、魔獣人間」
言葉に合わせて、ガイエルの赤い髪がザワザワと揺らめき始める。炎のようだ、とティアンナは思った。
すっ……とガイエルが、天空に向かって右手を伸ばす。
「逃げる機会を失った者どもよ……かわいそうに。綺麗な死体には、ならんぞ」
掲げた右手を、ガイエルはゆっくりと下ろしてゆく。
下りて来た右掌が、秀麗な顔を、撫でるように隠す。
開いた指と指の間で、ガイエルの両目が赤く輝いた。
「悪竜転身……」
赤い髪が、燃え上がるかの如く、ざわめいた。
粗末な歩兵鎧がちぎれ飛び、マントのように翼が広がる。
赤黒く巨大な皮膜の翼。左右のそれが、裸になりかけたガイエルの身体を、背後から包み隠す。
閉じた翼の内側で、メキメキッと変化が進む。
その足元で、赤い大蛇に似た尻尾が跳ねた。そして。
「……はぁッ!」
右手で払いのける感じに、ガイエルは翼を開いた。
溶岩の如く赤い、所々に黒色の入った、外骨格と鱗。
刃そのもののヒレと爪を生やした、凶悪な四肢。
甲殻の仮面と、燃えるようにゆらめく金色の髪。
まさに魔人とも言うべき姿が、高台の上に出現している。
「どうかな、ティアンナ姫」
表情のない顔で、ガイエルは微笑しているかのようだ。
「これでもまだ、殿方の裸は綺麗、などと言えるかな?」
「ガイエル様……」
人ならざるものと化した殿方の裸身を、ティアンナはじっと見上げた。
赤く、禍々しいほどの力強さに溢れた、魔人の裸体。
異形である。だが醜悪であるとは、ティアンナは思わなかった。
「綺麗……ではないかも知れません。でも……」
ティアンナが呟いている間にガイエルは、高台の上から跳躍していた。
「とぅあッ!」
かけ声と共にガイエルは、高台を蹴って跳躍し、空中でくるりと両膝を抱え、尻尾で車輪を描きつつ落下して行った。
そして、斜め下方に向けて右足を突き出す。飛び蹴り、である。
甲殻質の凶器と化した右足が、ダルーハ軍兵士の1人に叩き込まれた。
人体が1つ、着ていた甲冑もろとも破裂し、飛び散ってゆく。
飛び蹴りの姿勢のままガイエルは1度だけ羽ばたき、滞空状態を維持しながら、螺旋状に身を捻った。
大蛇の如き尻尾がブンッ! としなって弧を描き、ダルーハ兵3人を打ち据える。
3つの上半身が砕け散り、残った下半身たちが臓物を大量に噴き上げる。
その尻尾の一撃を、小賢しくも身を沈めてかわした1人のダルーハ兵に、ガイエルは空中から左足を叩き込んだ。
鎧兜と肉体がグシャッと一緒くたに原形を失い、潰れ倒れる。
計5人を殺戮したところで、ようやくガイエルは着地した。
着地直後の低い姿勢のまま、ゆら……っと両腕を広げ、吐息と声を漏らす。
「はあぁ……駄目だ駄目だ。魔獣人間の頑丈な手応えと比べて、人間どもの何と脆く頼りない事よ。これでは殺した気になれん」
「ははぁん、アナタですね。御子息でありながらダルーハ様に刃向かう、愚かな若君というのはンッフフフフフ」
怯えるダルーハ兵らを押しのけるようにして、魔獣人間が進み出て来る。
そして軽く、左手を掲げる。何本もの棘を生やした、球体状の左手。それら棘が、
「いいでしょう、遊んであげましょうねぇギッヒヒヒヒヒヒ……ダルーハ軍最強の魔獣人間、このサラマンティコアがぁああああああ!」
一斉に、発射された。
まっすぐに、あるいは弧を描き、蛇行し。幾本もの棘が、意思ある飛行生物の如く、ガイエル1人に降り注ぐ。
甲殻状の胸板に、肩に。あるいは二の腕や腹筋、太股の鱗に。棘はことごとく命中し、ことごとく折れて砕けた。
微かな痛みがパチパチと、ガイエルの全身の表面で弾ける。いくらか毒性があるようだ。
毒の棘を発射し終えた魔獣人間サラマンティコアが、固まっている。爬虫類的な顔面は引きつり、飛び出しそうな両眼球は凶暴に血走りながらも、驚愕と怯えの色を浮かべ始めていた。
そこへ、ガイエルは歩み寄って行く。
「……嬉しいなあ、遊んでくれるのか」
声をかけてみるが、サラマンティコアは何も応えない。
声も出せぬまま、硬直した身体を無理矢理に動かし、右手で殴り掛かって来る。
サソリの尻尾のような、巨大な針。
叩き付けられて来たそれを、ガイエルは無造作に左手で払いのけ、右拳を突き込んだ。
人間を叩き潰す、のとは比べ物にならない、強靭な手応えが返って来た。
サラマンティコアの顔面が一瞬、ガイエルの拳の形に凹み、その巨体が揺らぐ。
「お……おやめなさい若君」
揺らぎ、後退りをしながら、魔獣人間が怯えた声を出す。
「あまり私に痛い事をなさらない方が御身のためですよぉウッフフフフフ、私の背後にはダルーハ様がブグえェっ!」
ガイエルは踏み込み、左拳を叩き込んで、サラマンティコアを黙らせた。
世迷い言を吐いていた口が、血飛沫を噴いて歪み、牙が何本か折れて散る。
肥満気味の巨体が吹っ飛び、地面を跳ねて転がり、だが即座に起き上がる。
「ち……調子に乗りましたねェエエエエエッ!」
わめきながら魔獣人間が、血まみれの口を開いた。
ゴォッと音を響かせて、炎の吐息が迸り出る。
ガイエルは避けず、マントのような翼を1度だけ身体に巻き付け、すぐにバサッ! と開いた。
その羽ばたきだけで、魔獣人間の吐いた炎は消え失せた。風に吹かれた灯火のようにだ。
口を開きっぱなしのまま、サラマンティコアが唖然と固まっている。
そこへ、ガイエルは微笑みかけた。
「貴様に、本物の炎を見せてやろう」
その微笑みと共に、顔面甲殻がひび割れ、砕け散る。
「……竜の炎を、な」
唇のない、怪物の頭蓋骨そのものの口元が、露わになった。
「ひ……ぃ……」
サラマンティコアがいよいよ怯えを隠せなくなり、ろくに悲鳴も上げられぬまま背を向けた。そして走り出す。
太った巨体が、滑稽なほどの逃げ足の速さで駆け去って行く。助走をつけて飛ぶつもりか、背中の翼をバタバタと忙しくはためかせながらだ。
そちらに向かって1歩だけ、ガイエルは踏み込んだ。
胸の内で燃え盛っているものが、込み上げて来る。
踏み込んだ身体が前傾し、噛み合っていた上下の牙が、その熱いものに内側から押されて開く。
燃え猛る熱さを、ガイエルは思いきり吐き出していた。
爆発そのもの、と言うべき紅蓮の炎。それが、横向きの噴火とも言える勢いでドゴォオオンッ! とぶちまけられる。
ぶちまけられた爆炎の奔流の中、サラマンティコアの巨体が吹っ飛びながら砕け散り、灰に変わった。
のみならずダルーハ軍兵士たちがほぼ1部隊、こちらは灰すら残さず、一瞬にして蒸発してしまう。
燃えるものが何もなくなった空間で1度だけ渦を巻き、炎は消えた。
その時にはダルーハ軍全体が、完全な敗走に入っていた。指揮官たる魔獣人間を失った兵士たちが、なりふり構わず逃げて行く。
それに対し王国正規軍が、容赦のない追撃を開始していた。
近衛兵団が、あるいは諸侯の軍勢が。土煙を上げてガイエルの左右を駆け抜け、ダルーハ兵たちを狩り殺しにかかっている。
恐らく、モートン王子が命令を下したのだろう。
前線で妹を戦わせて自身は本陣から動かず、危険な敵が排除されたと見るや、ここぞとばかりに皆殺しの命令を下す。
総大将とは、そういうものだ。
ガイエル1人でダルーハ軍を皆殺しにするつもりであったが、まあ残敵の掃滅くらいは味方の兵隊に任せるべきであろう。
ティアンナが、歩み寄って来た。
「……またしてもガイエル様に助けていただいて、何とお礼を」
「別に、貴女を助けたわけではないさ」
少女の方を見ずに、ガイエルは言った。
「……少し、無謀すぎるのではないか。魔獣人間に、正面切って戦いを挑むなど」
「あら、お説教ですか?」
微笑みながらティアンナは執拗に、ガイエルの顔を覗き込もうとする。
「お説教は、相手の顔をしっかりと見て行うもの……お顔を逸らさないで、ガイエル様」
「俺は……」
じっと見上げてくるティアンナの眼差しから、ガイエルはついに逃げられなくなった。
少女の澄んだ瞳に、人ならざるものの容貌がはっきりと映し出される。
赤く禍々しく眼光を燃やし、悪鬼の頭蓋骨の如く牙を剥き出しにした、魔人ガイエル・ケスナーの素顔。
「……見ての通り、俺は醜い。姫君にはお目汚しではないか、と思ってな」
「私、醜いものは見慣れていますから」
ティアンナが微笑んだ。どこか寂しげな哀しげな、翳りのある微笑。
やはり、ガイエルの良く知る女性にそっくりな笑顔だ。
「王宮は、醜いもので満ち溢れておりましたから……こんなお顔など、可愛いものです」
「おいおい……」
うろたえるガイエルの、頬か口元か判然としない辺りを、ティアンナが片手でそっと撫でる。
優しい感触が、ガイエルの牙と歯茎をくすぐった。
(おふくろ様……)
すでにこの世にいない女性に、ガイエルは心の中で呼びかけた。
あの母も、こんなふうに、人間の皮が剥けてしまったガイエルの顔を、優しく撫でてくれたものだ。
そんな母が。ある時、病に倒れた。
病床で母は、ガイエルの手を握り締め、言った。
あの人を止めてちょうだい。あの人は、何かとても良くない事を始めようとしている。私はもう、それを止める事は出来ない……だからガイエル、お前に頼むしかないのよ。あの人を、戦ってでも止めて欲しいの。ごめんね、こんな事を頼んでしまうなんて……
(……すまん、おふくろ様。俺はあの男を、生かしたまま止める事が出来なかった。本当に、すまん)
よく似た優しさとぬくもりを、頬あるいは口元に感じながら。ガイエルは心の中で、母に呼びかけた。
(だが見ていてくれ。今からでも俺は、親父殿を止めてみせる……殺してでも、な)
エドン・ガロッサは死体すら残っていないが、そんな事はどうでも良かった。
兵士たちが大勢死んだ。それも、大した問題ではない。
指揮官は死に、兵隊も大量に死んだ。
つまり戦に負けたわけであるが、そんな事はムドラーにとって、本当にどうでも良かった。
探し求めていたものを、見つける事が出来たのだから。
「つくづく思うのだが……」
ダルーハ軍兵士の屍で大半が占められた戦場跡、を見回っていたドルネオ・ゲヴィンが、何やら呆れている。
「烏合の衆とは、まさに我が軍の事よな。兵卒どもの鍛錬が、あまりにも出来ておらん。魔獣人間の力に頼り過ぎなのだ」
「当然であろう。本来ならば、兵卒など必要とせぬほどの力が求められているのだよ貴様たちには」
ムドラーが言うと、ドルネオは苦笑した。嘲笑、かも知れない。
馬鹿な事を言う男だ。戦というものを、まるで理解しておらぬ。などと思われているのかも知れないがムドラーは構わなかった。
探し求めていたものを、ついに見つけたのだから。
「そもそも御大将が急ぎ過ぎなのだ。叛乱を起こすにしても、もう少し兵を鍛えてからにすれば良いものを」
ドルネオが、ぶつぶつと文句を言っている。
ムドラーは、もはや聞いていない。
「御自分があまりにも強過ぎるゆえ、数の力の重要性というものを理解しておられぬ……それで、これからどうするのだムドラー殿」
「敵の本陣へ……私と貴様とで、強襲をかける」
ムドラーが答えると、ドルネオはさらに呆れた。
「ムドラー殿は何を焦っておられる。まあ確かに、魔獣人間が3体も討ち取られて」
「出来損ないどもの事など、どうでも良い」
ドルネオの言う通り、確かに自分は焦っている。それはムドラーも、頭では自覚していた。気が急いて仕方がない。
何しろ、ようやく見つけたのだ。
究極至高の魔獣人間となり得る、最高の素材を。
「一刻も早く、捕えるのだ……あの、ティアンナ・エルベット第6王女を」
この戦場での彼女の戦いぶりを、ずっと岩陰から盗み見ていた。
ムドラーは思い返した。否、わざわざ思い出さずとも、決して脳裏から消える事はない。
舞うようにダルーハ軍兵士たちを殺戮していった、少女の姿。
あのしなやかな細身に秘められた、強靭な身体能力。そこいらの攻撃魔法兵士を遥かに上回る、あの魔力。
そして、あの美しさ。
ワイヴァートロルやサラマンティコアといった醜悪な出来損ないども、とは根本的に違う。
最も強く、最も美しい魔獣人間。となるために生まれてきたような少女だった。
「ムドラー殿の言われる事、俺には理解しかねるのだが」
困ったように、ドルネオが言う。
「よもや、俺と貴殿の2人がかりなら勝てると思っておられるわけではあるまいな……あの若君に」
「若君と戦ってみたい、などと大言を吐いておったのは貴様であろうが。今更、臆病風に吹かれおって」
ムドラーは言い捨て、ドルネオに背を向けた。
「所詮は貴様も出来損ないという事……良いわ。最高の素材を手に入れるのに、臆病者の手は借りぬ」
「おい待てムドラー殿……」
出来損ない、臆病者、などと言われて特に腹を立てた様子もなく、ドルネオが呼び止めようとする。
無視して、ムドラーは歩き続けた。王国正規軍本陣へと向かって。
「待っておれ、ティアンナ王女よ……」
脳裏に、心に、強く焼き付いて薄れようともしない、少女の戦う姿。に、ムドラーは熱く語りかけた。
「そなたを、もっと強く、もっと美しくしてやろう……この私の、創造主ムドラー・マグラの手によって……!」
黒いローブの下で、身体のどこかがメキ……ッと震えた。