第67話 炎の闘士たち(後編)
息子が3つになったばかりだ、とサードゥ・ミスランは言っていた。
その3歳の男の子が、ゴルジ・バルカウスの左手に掴まれ、今にも握り潰されそうである。
サードゥ本人は、人型甲虫の片足に踏み付けられ、呻いている。彼の妻と思われる女性が、その近くで泣き叫んでいる。
この哀れな家族を見殺しにするのは、簡単だった。
その簡単な事が出来ない理由は、ガイエル自身にもわからない。
わかっている事は、ただ1つ。この3人家族のみならず、集落の住人から1人でも死者が出たら、自分は間違いなく、とてつもなく嫌な気分になる。
何故なのかは、ガイエルはもう考えない事にした。感情に、理由などあるわけがないのだ。
理由なき思いを眼光に宿し、凶猛に燃え上がらせながら、ガイエルは上体を起こした。完全には立ち上がれぬまま、4体のゴルジ・バルカウスを睨み据える。
人質を確保している1体、以外の3体が、執拗な攻撃を加えてくる。
「何だ、その目は……」
人型甲虫の1体が、蹴りを入れてきた。切り株が爪を生やしたような足が、ガイエルの顔面を直撃する。
血飛沫が散り、点々と地面を汚した。人間の鮮血だった。土をも灼き溶かす、竜の血液ではない。
身体の中で、竜の力が目覚めてくれない。ガイエルの肉体が、戦闘ではなく休養・治療を優先させてしまっているのだ。
蹴り上げられたガイエルの身体を、バチバチッ! と衝撃が襲う。
2体のゴルジが、両手から電光を発射していた。紫色の、極太の稲妻。2本のそれらがガイエルの半裸身を打ちのめし包み込み、荒れ狂う。
全身あちこちで皮膚が裂け、剥き出しの筋肉が焼けただれて血を滲ませる。
「ぐ……ッ……」
悲鳴を噛み殺すガイエルに、人型甲虫の1体が、
「貴様サン・ローデルでは大いに私に刃向かってくれおったなあ? 救世主たるこのゴルジ・バルカウスに、醜悪なる怪物風情がっ!」
紫の電光を帯びた爪を、思いきり叩き付ける。
グシャアッ! と激しい衝撃が来た。ベヒモスワームに叩き潰され、修復中だった臓物が、ガイエルの体内で再び破裂した。
血反吐が、大量に噴き上がる。今やズタズタに裂けた体表面からの出血よりも、吐血の量が勝った。それら大量の血飛沫が、電熱に灼かれて蒸発し、血腥い蒸気と化す。
その蒸気に包まれたまま、ガイエルは倒れた。
(……死ぬ……のか? 俺は……)
もはや声も出せずガイエルは、薄れゆく意識の中で呟いた。
(親父殿……あんたなら人質など意に介さず、こやつらを皆殺しにしたのだろうな……もう少し、あんたに似れば良かった……)
それがガイエル・ケスナーの最後の思考となりかけた、その時。
べちゃっ……と、奇怪な音が聞こえた。何やら水っぽいものが、地面にぶつかった音。濡れそぼった生き物が、転倒した音。
「うっく……ぁあ……や、やめなさい……よぉ……」
ずるりと弱々しく身を起こしながら、その生き物が声を発する。若い女の声だった。
美しい容姿が想像出来る声を、しかし美しさの対極にあるとしか思えない生き物が発している。
その姿は、肉塊としか言いようがない。臓物の塊、にも見える。
人型をしているのかすらも判然としないそれが、なおも言う。
「やめなさい……ゴルジ・バルカウス……お前、やっていい事と悪い事もわからないの……」
「……何だ、貴様」
ガイエルへの攻撃をとりあえず止め、人型甲虫たちは、この無惨な姿の闖入者を取り囲んで嘲った。
「レボルト将軍にまとわりついていた女騎士か……」
「ふん。残骸兵士ごときが、何をしようと言うのだ?」
「そのような様を晒して、ここで何をしようと言うのだ。ええ? おい」
残骸兵士、と呼ばれたその生き物が、痛ましいほど醜悪なその肉体を震わせ、叫んだ。
「赤き魔人を倒すのは、バルムガルドの民を守るため……お前のやってる事は本末転倒なのよォオオオオオオオッ!」
震える残骸兵士から、臓物のような寄生虫のような触手が何本も伸び、ゴルジたちに向かってのたのたと伸びて行く。どうやら攻撃のつもりであるようだ。
無論そんなものが届く前に、人型甲虫たちは電光を放っていた。
「きゃ……う……っ」
悲痛な声を漏らしながら、残骸兵士は倒れた。あるいは潰れた。惨たらしいほどおぞましい肉体が、紫色の電光にバチバチと絡まれ灼かれ、のたうち回る。
(何だ……これは……)
倒れたまま、ガイエルは呆然とした。
これほど醜悪で弱々しく、そして哀れな生命体を、ガイエルは見た事がなかった。
いや。確かギルベルト・レインの部下たちが、魔獣人間に成り損ない、これに近いものに変わり果てていた。が、ここまで酷くはなかったように思える。
ギルベルトの部下たちは、あんな姿になっても、人を守るための戦を志していた。
この女も、同じなのか。残骸兵士などという惨めな名称で呼ばれるような生き物と成り果てながら、民を守るために戦おうとしているのか。バルムガルド王国の民を……せめて、人質とされた小さな家族だけでも救うために。
それすら出来ず這い蠢く残骸兵士に、ゴルジたちが蹴りを入れている。
「まったく……貴様ほどの失敗作も、そうそう出来るものではない」
臓物の塊のような肉体が、人型甲虫の足に引き裂かれてビチャッと飛び散った。
「それゆえ、私自身への戒めとして生かしておいてやったが……」
「もう要らんな。貴様のごとき出来損ない、もはや2度と作らぬ自信が私にはある!」
びちゃっ、グシャッ! と残骸兵士の身体が蹴りちぎられ踏み潰され、より無惨な様となって地面に広がってゆく。その痛ましい肉体のどこかから、弱々しい悲鳴が漏れる。
倒れたまま、ガイエルは呻いた。
「やめろ……」
声と一緒に、血を吐いた。その血反吐が、頬をつたって地面に流れ落ちる。
シューッ……と、土が溶けた。
「やめろ……ぉおお……ッ」
破裂した臓物が、体内で激しく脈打つ。さらに大量の血が、ガイエルの口から迸り溢れた。
吐血の雫で地面をシューシューと穿ちながら、ガイエルは上体を起き上がらせていた。
「何……!」
ゴルジたちが、残骸兵士を嬲り殺す動きを硬直させ、こちらを向く。
やめろ。そう叫ぼうとして、ガイエルは失敗した。叫びではなく血が、喉の奥から溢れ出していた。身体の奥から、迸っていた。
その血反吐が、炎に変わった。
発火、と言うよりも爆発だった。
一筋の爆炎が、ガイエルの口から奔り出し、轟音を立てて伸びる。
そして、人質を確保している人型甲虫を直撃した。
悲鳴を上げる事もなく、ゴルジの1体が焼け砕け、胴体は灰に変わった。
その灰をまとわりつかせた左手が、サードゥの息子を掴んだまま落下する。
レナムが飛び込み、受け止めた。そして、泣き喚く男の子の身体から、人型甲虫の左手を剥ぎ取る。
サードゥが、ゴルジの遺灰にまみれたまま呆然としていた。自分が助かった事に、まだ気付いていない。
「きッ、貴様!」
残り3体となったゴルジ・バルカウスたちが、狼狽している。
彼らが再び人質を取るような動きを見せる前に、ガイエルは叫んでいた。
「うぐゥ……ぅぉおおおああああああああッッ!」
血まみれの全身が、燃え上がった。竜の血が発火し、爆発し、ガイエルの身体から迸ったのだ。
その爆炎が、人型甲虫2体を粉砕し、灰に変えた。
残る1体に向かってガイエルは、全身に炎をまといながら1歩ずしりと踏み出した。
この場では最後の1体であるゴルジ・バルカウスが、後退りをする。
「貴様……貴様は一体、何なのだ……」
怯えながらも、ゴルジは怒り狂っているようだった。
「破壊と殺戮しか能のない怪物の分際で、何故……人間を守ろうとする? 貴様は一体……人間という種族の、敵なのか味方なのか」
「そんな事、俺が知るか……!」
燃え盛る片手で、ガイエルはゴルジの顔面を掴んだ。
「俺はただ、殺したくなった奴を殺すだけだ……その結果として今、貴様が死ぬ。ただ、それだけの事よ」
全身で、血が燃える。その炎が右掌に集まり、爆発と化す。
「俺は人間どもの、敵でも味方でもない。俺は……」
人型甲虫の巨体に、爆炎が流れ込んだ。轟音が、断末魔の絶叫を掻き消す。
灰となって吹っ飛んで行くゴルジに、ガイエルは一言だけ、声をかけた。
「俺はただ、残虐なだけだ……」
「……残虐だから……殺したの……?」
声がした。辛うじて聞き取れる、か細く弱々しい声。
「国境の戦で……私の友軍4000人を……」
もともと原形の定かではなかった残骸兵士が、もはや完全に形というものをとどめず、地面にぶちまけられている。
そんな様でありながら、どこからか声を発しているのだ。
「私は……お前を、許さない……お前を殺すための、力が欲しかった……」
「……だから、人間をやめたのか」
ガイエルは屈み込み、言葉をかけた。
倒れている、と言うよりも潰れて広がっている残骸兵士を、抱き起こしてやろうとして、ガイエルは気付いた。全身の傷口から炎を噴き出し続ける、己の肉体の有り様に。
抱き起こしたら、そのまま火葬してしまう事になる。
「構わないわよ……私、もう助からない。このまま死ぬ……お前の力で、いっそ焼き殺してよ……」
残骸兵士は、笑ったようだ。
「いい気にならない事ね、赤き魔人……お前なんか、レボルト将軍が必ず倒してくれるわ……バルムガルド王国の平和は、レボルト将軍の手で……」
「俺の方から、そのレボルト将軍とやらに直接、会いに行く必要がありそうだな」
まだ顔を見た事もない将軍に対し、ガイエルの胸中で、憤りに近いものが燃えた。
「直接、言ってやらねばならん……俺の命を狙うのならば、このような者どもを使わず、自身で来いと」
「将軍に……お会いしたら、伝えてよ……」
か細い声が、さらに弱々しく、聞き取りにくくなってゆく。
絶命する者の声だ、とガイエルは思った。
「ミリエラ・ファームは……敵前逃亡のあげく、無様に死んだ……と……」
「悪いが、それは出来ん。俺が伝えられる事は、1つだけだ」
痛ましいほど醜悪な、無惨な、死にゆく肉体を、ガイエルは燃え盛る両腕で、そっと抱き起こした。
「1人の騎士が、民を守るため勇敢に戦い、死んでいった……と」
「お前……残虐、なんでしょ? 中途半端な優しさ、持ってんじゃないわよ……バケモノの……くせ……に……」
言葉と共にミリエラ・ファームが、炎の抱擁の中で、灰に変わってゆく。
惨たらしいくらいに醜かった肉体が、己の腕の中からサラサラと焦げ崩れてゆくのを、ガイエルは見つめた。
全身から、炎が失せてゆく。
「……貴女を連れ戻す……だけでは、どうやら終わりそうにないな……ティアンナ……」
呟く事すら、ままならなくなっていた。血が、ほとんど炎に変わって、燃え尽きてしまったのだ。
降り積もったミリエラ・ファームの遺灰の中に、ガイエルは突っ伏していた。
「この国では……何やら、俺の気に入らぬ事が行われている……」
薄れゆく意識の中で、ガイエルは決意を固めた。
「それを片付けねば……晴れやかな気分で貴女を伴い、ヴァスケリアへ帰る事など……出来そうにない……」
集落の民が、騒いでいる。
うるさい、と怒鳴りつける力も、今のガイエルには残されていなかった。
集落を見下ろす小高い丘の上に、魔獣人間ジャックドラゴンは立っていた。
黒い甲冑のような全身の外骨格には、無数の亀裂が走っている。左前腕に広がっていた甲殻の楯は、叩き割られて半分が欠落していた。剣は、折れたので捨てた。
満身創痍である。だが今なら、こんな身体でも、赤き魔人にとどめを刺す事が出来る。
「させんぞ……」
声がした。
魔獣人間ゴブリートが、すぐ近くに立って、油断なくこちらを睨んでいる。
その小柄だが筋骨たくましい身体のあちこちに、細かな傷を負ってはいる。それがこの怪物にとって、どれほどの痛手であるのかはわからない。戦う余力がまだ充分あるのは、間違いないところであろうが。
レボルトとて、まだ充分に戦える。だがこれ以上は、死を覚悟しながらの戦いになる。
死ぬ前に最優先で済ませておかねばならない事が、レボルトにはあるのだ。
赤き魔人に、とどめを刺す事。本来の任務である。
それを遂行するために、レボルトは逃げた。
だが結局、この燃え盛る魔獣人間の追撃を、振り切る事は出来なかった。
「……貴様も周到な事よな、ジャックドラゴンよ」
吐血の汚れを帯びた口元を、ゴブリートはにやりと歪めた。
「手負いの相手を仕留めるのに、まさかゴルジ・バルカウスと連携して動くとは……貴様もまた、あやつの手駒の1つであったか」
「……それは貴様も同様であろう? ゴルジに何を命ぜられて動いているのだ」
連携などしていない。レボルトがこの怪物に足止めされている間、ゴルジが自己判断で動いただけである。
「……言葉に気をつけろ、ジャックドラゴン。この俺が、あやつごときの命令で動くなどと」
ゴブリートが牙を剥いた。燃える両眼が、集落を見下ろす。
死体寸前の赤き魔人が、集落の住人たちに手当てをされているところだ。
「ゴルジ・バルカウス……つまらぬ手を使って、俺の獲物を傷物にするとはな」
口調静かに、ゴブリートが激怒している。
「300年長らえた命、もはや要らぬと見えるな……殺す」
ゴルジ・バルカウスを殺すとは、どういう事なのか。どうやらまだ生き残っているらしい何体かを、執拗に見つけ出し、片っ端から殺してゆくという事か。
怒り狂っているゴブリートとは逆に、レボルトとしては、惜しかったな、とゴルジをねぎらってやりたい気分だった。赤き魔人を、あのような状態まで追い込んだのだから。
その巻き添えとなって、レボルトの部下が1人、死んだ。
(ミリエラ……)
民を守る。常日頃から、ミリエラ・ファームは言っていた。赤き魔人を倒すのは、そもそもバルムガルドの民を守るためなのだと。
自分ならば、どうしていただろうか。レボルトは考えてみた。
人質という手段を黙認してゴルジに加勢し、赤き魔人を倒すという本来の目的を果たせていただろうか。あるいは、ミリエラと同じ事をしていたか。
もはや今ここで、赤き魔人にとどめを刺す事は出来ない。ゴブリートによる妨害を、レボルト1人の力で排除するのは不可能だからだ。
ただ1つ、わかった事がある。
(赤き魔人には、人質が有効……か)
「貴様はどう思うのだ、ジャックドラゴンよ」
ゴブリートが、呻くように問う。
「あのような手段で、赤き竜戦士を討ち取ったところで……それを誇りとする事が、出来るのか?」
「誇りのために戦っている、わけではないのでな」
バルムガルドの民を守るため……とまでは、レボルトは言わずにおいた。人質が有効などと考え始めている自分に、言える事ではない。
「民衆を……人間どもを、守るためか。貴様が戦うのは」
レボルトが言えずにいる事を、ゴブリートが無遠慮に言った。
「1つ忠告しておく。魔獣人間の力とは、己のためにのみ在るものよ。力を誇り、戦いを楽しむ。民のため、弱き者どもを救うため、などと最初は思っていても……魔獣人間の戦いというものは、最終的には、そこにしか行き着かぬ。貴様もな、余計な事は考えず戦いのみに生きてみてはどうだ」
ゴブリートが、凶猛に微笑んだ。
「……赤き竜戦士と、思いきり戦ってみたいのであろう? 黒き竜の戦士よ」
「ほざくな……」
それだけを言って、レボルトは背を向けた。魔獣人間ゴブリートが、背後から攻撃を仕掛けて来る事はない。それはもう、わかりきっている。
実戦の殺し合いを、武術の試合か何かと混同している、愚かな怪物だった。が、危険な相手である事に変わりはない。
赤き魔人共々、いずれ殺す。
思いつつもレボルトは、振り返らずに言った。
「私からも1つ、忠告しておいてやろう。赤き魔人が獲物だなどと本気で思っているのなら、悪い事は言わん、今のうちに仕留めてしまえ……奴が万全の状態となったら、貴様など一溜りもないのだぞ」
「ふっ……ははははは、この俺が一溜りもなく殺されると? そいつは楽しみだ」
ゴブリートが、愚かな事を言っている。
「魔獣人間になど成ってしまうとな、そのくらいしか楽しみがないのだよ」
いずれ貴様もわかる、とでも言いたげな口調である。
もはや何も言わず、レボルトは歩き出した。
にやりと笑いながら見送るゴブリートの視線が、背中に感じられる。
赤き竜戦士と、思いきり戦ってみたいのであろう?
その言葉だけが、レボルトの心のどこかに、細かな棘の如く突き刺さっていた。
痛くはない。鬱陶しいだけだ、とレボルトは思った。