第66話 炎の闘士たち(中編)
子供並みに小柄な身体を、岩のような筋肉で固め盛り上げた、炎の怪物。
その姿が、岩の上から消え失せた。消えたと思えるほどの、高速の跳躍。
レボルトはとっさに左腕を掲げ、呟いた。
「悪竜転身……!」
掲げられた左前腕で、外骨格が生じて広がり、甲殻の楯と化す。
そこへ、衝撃がぶつかって来た。
炎の怪物の、飛び蹴りだった。
外骨格の楯を蹴りつけ、くるりと宙を舞う魔獣人間。その小柄だが力強い肉体が、背中の翼を1度だけ羽ばたかせ、ゆっくりと着地する。
その時にはレボルトも、人ならざるものの姿を露わにしていた。
強固な筋肉の上に、黒色の外骨格と鱗をまとった長身。皮膜の翼に、黒い大蛇の如き尻尾。内部で爛々と光を燃やす、カボチャの頭部……魔獣人間ジャックドラゴンの姿を。
「ほう? 貴様もまた竜の戦士か」
炎の体毛を燃え上がらせながら、小柄な魔獣人間は名乗った。
「面白い……この魔獣人間ゴブリートが、貴様の相手をしてやろう」
「私の方は、貴様の相手などしている暇はないのだがな……」
外骨格の楯から、レボルトは剣を抜き放った。やや湾曲した片刃の切っ先を、ゴブリートに向ける。
「そこを、どけ。私には、やらねばならぬ事があるのだ」
「それは俺の獲物を横取りする事であろう? やらせんよ!」
言葉と共に、ゴブリートの姿がまたしても消えた。
そう思えた時には、空中から襲撃が来た。黒皮の翼が、まるで断頭台の刃の如く、ジャックドラゴンの首筋を襲う。
右手の剣で、レボルトはそれを防いだ。片刃の刀身が、ゴブリートの翼とぶつかり合う。
とてつもなく重い衝撃が、レボルトの右手を痺れさせた。
思わず落としてしまいそうになった剣を、レボルトが握り直している、その間。ゴブリートは弾かれた翼を羽ばたかせて滞空しつつ身を捻り、左足を振るった。短い、だが強靭な足が、炎をまといながら弧を描く。燃え盛る回し蹴り。
レボルトは、地に転がり込んで回避した。尻尾をうねらせながら、ごろりと起き上がる。
いや。起き上がろうとするところへ、ゴブリートのさらなる攻撃が来た。
炎の体毛がゴォオッ! と音を響かせて燃え上がり膨張し、火炎の波となってジャックドラゴンを襲う。
とっさに、レボルトは楯を構えた。そこへ、凄まじい熱量がぶつかって来る。
並の魔獣人間であれば一瞬にして灰と化すであろう、炎の波。
それを楯で押しのけ、払い砕きつつ、レボルトは踏み込んだ。炎の飛沫を蹴散らしながら、右手の剣を振り下ろした。
その斬撃を、ゴブリートが左の翼で迎え撃つ。
超高品質の剣とほぼ同等の強度・殺傷力を有する翼が、大型の片刃剣と激突し、火花を散らせた。
「気に入らんな、貴様……」
いくらか距離を開いて着地しつつ、ゴブリートは言った。獰猛な顔が、笑っているのか激怒しているのかわからぬ形に歪んで牙を剥く。
「レグナードの魔獣人間でもないくせに、強いではないか? ちょうど良い。赤き竜の戦士が身体を癒すまでの間、貴様に遊んでもらうとしよう」
「同じ事を何度も言わせるな……私には、貴様と遊んでいる暇などない」
「何を急ぐ? 黒き竜の戦士よ」
ゴブリートが、レボルトに勝手な呼び名を付けた。
「それだけの力を持ちながら、まるで弱者の如く忙しないものよ」
「弱者なのだよ、私は。悠然と構えてなど、いられるものか」
カボチャ型の頭部の中で、レボルトは光を燃やした。その輝きが、赤く禍々しい眼光となって溢れ出す。
「この先にはな、一刻も早くこの世から消さねばならぬ怪物がいるのだよ。そやつが万全の状態となれば、私も貴様も一捻りで殺される……今のうちに殺しておかねばならんのだ」
威嚇の形に、レボルトは剣をブンッと構え直した。無論、それで威嚇されるような相手ではないのだが。
「わからねば何度でも言ってやる。遊んでいる場合ではないのだ……そこをどけ!」
「わからねば何度でも言ってやる。あれは俺の獲物だ……貴様などに、手出しはさせん!」
双方、同時に踏み込んだ。
踏み込みと共にレボルトが振るった剣は、しかし空を切った。
小さな身体をさらに低くしてレボルトの斬撃をかわしつつ、ゴブリートがすでに眼前にいる。ジャックドラゴンの、懐に達している。
ゴブリートの右掌が、レボルトの鳩尾に触れた。
触れた、としか感じられなかったが直後、ジャックドラゴンの身体は後方へと吹っ飛んでいた。
「ぐ……う……ッ!」
体内を、凄まじい衝撃と熱さが走り抜ける。
臓器に、火傷を負った。
衝撃と火炎を、同時に流し込まれたのだ。竜の力を有する魔獣人間でなければ、体内から灼き砕かれていたところである。
レボルトは地面に激突し、だが即座に一転して起き上がり、前方を見据えた。
ゴブリートが突進して来る。
小柄で筋肉質な身体が、炎の体毛を激しく振り立てて突っ込んで来る様は、さながら火山弾である。
レボルトは、口を開いた。
胸の内で燃え盛る闘志が、頭部の中で煌煌と輝く赤色光と合流する。両者が混ざり合い、固まり、そして放たれる。
カボチャの形をした頭部が口を開き、火の玉を吐き出していた。まるで小さな太陽のような、球状の火炎。
それが流星の如く飛び、ゴブリートを直撃する。
「うぬっ……!」
火球が砕け散り、火の粉となった。吹っ飛んだゴブリートが、しかし即座に翼をはためかせ、体勢を直そうとする。
そこを狙ってレボルトは3つ、4つと火球を吐いた。
ゴブリートが翼を閉じ、小柄な全身を包み隠す。
そこへ火球が全て命中し、爆発した。
爆炎の中から押し出されたゴブリートの身体が、着地に失敗してよろめき倒れる。
レボルトは、さらなる炎を吐こうとして失敗し、代わりに血を吐いた。火傷を負った臓器に、負担をかけ過ぎた。
その間ゴブリートは、よろよろと立ち上がっている。
「ぐっ……な、なかなかの炎だ。俺でなければ、一撃で灼け砕けていたところよ」
「赤き魔人は自分の獲物……貴様、そんな事を言っていたな」
人間であれば死んでいるであろう、体内の火傷。その激痛に耐え、レボルトは言った。
「ならば貴様にくれてやる……今すぐ、殺しに行け。確実にとどめを刺してこい。要は、あの怪物が、この世から消え失せれば良いのだ」
「ふむ……参考までに訊いておこうか。そこまで容赦なく死を願われるほどの、何をしでかしたのだ? あの赤き竜の戦士は」
「奴が何かをしでかしてからでは、遅いのだよ……!」
国境の戦において、4000人近い兵士を虐殺された。それをレボルトは、口に出そうとして思いとどまった。
あれは単に、自分たちが戦に敗れただけの事。赤き魔人を憎悪するよりも、軍勢を率いながら単身の敵を倒せなかったレボルト・ハイマンの無能な将軍ぶりを糾弾するべきである。
それはそれとして、赤き魔人を生かしておくわけにはいかないのだ。
バルムガルド王国を守るため……そう言おうとしてレボルトは、やはり思いとどまった。誇らしげに口に出すような事ではない。
「ふん……なるほど、な。強大なる者を、強大であるという理由だけで恐れ、排除しようとする」
ゴブリートが、嘲笑した。
「まさしく、臆病者の思考よ……が、自ら戦っているだけ貴様はましか。レグナード末期の魔法貴族どもよりはな」
「そんな事はどうでも良い。とにかく貴様は、その臆病者によって殺されるのだ」
レボルトは、片刃の大型剣をゴブリートに向けた。
「道を歩くだけで、バルムガルドの民を踏み潰しかねない怪物……貴様もまた、生かしておくわけにはいかん」
人間の軍略も政略も通用しない怪物。それを始末するために、自分は魔獣人間となったのだ。国を腐らせるしか能のない王侯貴族の有象無象を、作業的に虐殺するためではない。
これだ、とレボルトは思った。燃え盛る眼光を、ゴブリートに向けた。
こういう敵と戦ってこそ、人間をやめた意義があるというものだ。
全身で闘志が燃え上がるのを、レボルトは止められなかった。
(待て……何を考えている、私は)
止められぬまま無理矢理、冷静さを取り戻そうとする。
(私は、手負いの怪物にとどめを刺す作業を行うために来たのだ。このような難儀な敵と戦いに来たわけではない……戦いに熱中して目的を見失うなど、愚の骨頂であるぞレボルト・ハイマンよ……)
「……戦いは楽しかろう? 黒き竜の戦士よ」
ゴブリートが、にやりと牙を剥く。
「それが魔獣人間というものよ……受け入れてはどうだ?」
「ほざくな……!」
レボルトの方から、踏み込んで行った。
レボルト・ハイマンが、若い男になってしまった。
魔獣人間化に成功すると、そういう事が稀に起こるらしい。
若く美しい、貴公子然としたレボルト将軍も、悪くはない。
だがミリエラ・ファームにとってのレボルト・ハイマンは、年を経た威厳と気品とを兼ね備えた、中年の将軍である。
自然に年を重ねてゆける肉体を捨て、レボルト将軍は人間ではなくなった。そこまでせねば太刀打ち出来ない怪物どもと、戦うためにだ。
そんな怪物が、赤き魔人以外にも存在した。レボルトが今、戦っている。
戦いの場にレボルト1人を残し、ミリエラは離脱した。
逃げたのではない。別の任務の遂行に入ったのだ。
(逃げてない……逃げてはいない……私、逃げたわけじゃないもの!)
己に言い聞かせながら走っているうちにミリエラは、例の集落へと入り込んでいた。赤き魔人が身を休めている集落。
別の任務と言うより、自分たちの本来の任務。それは手負いの赤き魔人に、確実なとどめを刺す事である。レボルト将軍に代わって自分がそれを行うだけの話だ、とミリエラは思い込んだ。
(私‥‥馬鹿だ‥‥)
思い込んだところで、事実からは逃れられない。
(いくら怪我してたって赤き魔人に、私なんかが勝てるわけない……だからレボルト将軍を呼びに行ったのに‥‥その将軍に違うバケモノを押し付けて、私は……!)
自分は逃げたのだ、という事実からは逃れられないのだ。
あの魔獣人間ゴブリートを相手に、自分などが加勢したところで、レボルト将軍の足を引っ張る事にしかならない。それは確かである。
だが、逃げたのも確かなのだ。
逃げた先でも今、人ならざる者たち同士の戦いが繰り広げられていた。
集落内の、広場と言える場所である。木陰に身を潜めたまま、ミリエラは息を呑んで見入っていた。
思った通り、怪我をしていようが人間の皮を被ったままであろうが、赤き魔人は怪物だった。
いや、今は赤くない。赤いのは長い髪だけで、真紅の甲殻も鱗も今はなく、筋肉の引き締まった人間の若者の姿をしている。
力強い裸の上半身には包帯が巻かれているが、その動きに、負傷の弱々しさはない。
凶器そのものの爪を振りかざす、巨大な人型の甲虫……ゴルジ・バルカウスの分身体5匹に囲まれながらも、若き魔人のたくましい半裸身が、獰猛に躍動している。
長い右足が前方に突き込まれ、ゴルジの1体を蹴り飛ばした。
その右足が即座に、ブンッと後方に向けて弧を描く。振り向きながらの後ろ回し蹴りが、2体目のゴルジを叩きのめす。人型甲虫の巨体が吹っ飛んで地面に激突し、呻いて這った。
他3体のゴルジが、両手の巨大爪に紫色の電光をまとわりつかせて魔人を襲う。
着地した右足を軸に、魔人は身を捻っていた。跳ね上がった左足が、重い唸りを発して空気を裂き、ゴルジの1体を直撃した。
蹴り終えた左足で魔人は踏み込み、横殴りに右拳を振るう。豪快に弧を描くその一撃が、4匹目の人型甲虫をグシャアッ! と殴り飛ばす。
5体目のゴルジが、魔人を背後から襲った。電光を帯びた爪が、赤毛の後頭部を粉砕するべく振るわれる。
まるで後ろに目があるかの如く、魔人は身を屈めて、それをかわした。
電光の爪を激しく空振りさせながら、ゴルジは潰れたような悲鳴を吐き、巨体を前屈みに折り曲げた。その腹部に、魔人の左肘がめり込んでいる。
倒れ込んだ人型甲虫の頭を片足で踏み付けながら、魔人は言い放った。
「見ての通りだゴルジ・バルカウスとやら。俺は今、負傷していて力が出ない……貴様らを、楽に死なせてやれん」
秀麗な顔が、凶猛極まる眼光が、他4体のゴルジたちに向けられる。
「……嬲り殺しに、なってしまうぞ」
「ぐっ……き、貴様……」
人型甲虫たちが、口々に呻く。
「手負いで、この力……やはり、益よりも害の方が大きい」
「人間という種族、そのものにとって……」
「やはり、生かしておくわけにはゆかぬ……」
魔人に踏み付けられている1体を除く4匹が、よろよろと立ち上がる。立ち上がったところで何か出来るとはしかしミリエラには思えなかった。
集落の民は、男も女子供も息を呑み、この一方的な5対1の戦いを見守っていた。さりげなく彼らに混ざりつつ、ミリエラは思う。
(こ、このバケモノ……やっぱり私なんかじゃ絶対勝てない……いや、それよりも)
ゴルジ・バルカウスの分身体が何故、こんな所にいるのか。レボルト将軍と、連携して動いているのであろうか。
強力な妨害者を将軍が引き受けている間に、ゴルジが手負いの魔人を攻撃する。完璧な連携とは言える。
が、そんな事は無いだろうとミリエラは何となく直感していた。ゴルジ・バルカウスという油断ならないこの男は、レボルト将軍が単身で強大な敵と戦っている間に、弱った獲物を横取りし、手柄を独り占めしようとしているだけなのだ。
そして今、弱った獲物であるはずの相手に叩きのめされ、無様を晒している。
(ふん、ざまぁ見ろってのよ。将軍が一目置いてるほどの相手、お前なんかでどうにか出来るわけないでしょうがっ)
最優先で倒すべき敵であるはずの魔人を、ミリエラはつい応援してしまうところだった。ここは本来ならば、自分がゴルジに加勢をしなければならないところ、なのではあろうが。
ゴルジ・バルカウスの目的は、バルムガルド1国を使っての大規模な魔獣人間製造実験である。そのために、レボルト将軍を利用している。
わかっていながらレボルトは、自らの身を実験材料としてゴルジに提供し、力を得た。赤き魔人を倒し、バルムガルド王国を守るために。
そう。赤き魔人はこの国を脅かすもの、であるはずなのだ。
ミリエラは、見回してみた。
集落の住人たちが不安げに、戦いを見守っている。今のところ彼らに、ゴルジが何らかの危害を加えようとしている様子は見られない。
が、何やら魔人がこの集落を守るために戦っている、ようにも見えてしまう。
(気のせい……気のせいよ。赤き魔人は、バルムガルドの民衆を脅かすもの……ほら何やってんのゴルジ・バルカウス! 5匹がかりなんでしょうが? 手負いのバケモノに、さっさととどめ刺しなさいっ!)
ミリエラの内心の叱咤が届いた、わけでもあるまいが、とにかくゴルジたちは攻撃を再開していた。人型甲虫3体が、魔人に向かって両手を掲げている。
紫色に帯電し続ける彼らの爪からバリバリバリッ! と電光が迸った。3本の、極太の電撃光。
それらが発射されると同時に、しかし魔人は跳躍していた。
3体のうち1体が、電光を発射したその瞬間に吹っ飛んでいた。魔人の、飛び蹴りだった。
発射の瞬間に潰された紫の電光が、魔人の力強い半裸身に、少しだけ絡み付く。
「む……っ」
多少は苦しげな声を発しつつも、魔人は難なく着地した。その身体に弱々しくまとわりついた電光が、薄れて消え失せてしまう。
他2本の極太電光は、潰される事なく発射されて迸り、そして人型甲虫の1体を誤爆直撃していた。つい先程まで魔人に踏み付けられていた1体である。踏み付けから解放され、よろよろ立ち上がったところ、仲間たちの電撃を喰らってしまったのだ。
意識を共有する分身体であるから、仲間とは呼べないかも知れない。
とにかくゴルジ・バルカウスの1体が、荒れ狂う紫色の電撃光に灼かれ、断末魔の絶叫を響かせながら破裂爆散した。甲殻の破片が、肉片が、その他様々な有機物のちぎれた残骸が、焦げ崩れながら飛び散ってゆく。
誤爆をしでかした人型甲虫2体が、うろたえながらドガッ! バキッ……と立て続けに吹っ飛んで倒れる。
魔人の、拳と蹴り。
本調子ではない今、ゴルジの分身体を一撃で殺害するだけの威力は無い。が、このままでは残り4体の人型甲虫が全滅するのも時間の問題であろう。
うち3体は、蹴り飛ばされ殴り飛ばされ、地に這いつくばって呻いている。あと1体は、どこにいるのか。
「動くな」
その1体が、声を発した。何やら、わけのわからない事をしながらだ。
とりあえず電光の消えた左手で、1人の子供を掴んでいる。3歳くらいの男の子だ。泣き喚くその子を5本の爪でがっちりと捕え、今にも握り潰さんとしながら、ゴルジは意味不明な事を言っている。
「動くな、魔人よ……1歩でも動けば、この子供の命は無い」
(……馬鹿なの? こいつ……)
ミリエラは、そう声に出してしまうところだった。
人質など取ったところで、魔人を止められるはずがない。この怪物に、バルムガルドの民を守る理由など無いのだ。赤き魔人は、バルムガルド王国に禍いをなし、滅びをもたらす存在なのだから。
「や、やめろ! やめてくれ!」
その子の父親と思われる男が、我が子を助けるべく人型甲虫に掴みかかった。いや、すがりついたのか。何にせよ人間の力でどうにかなるはずもなく、男はゴルジの片足に踏み付けられた。人質が増えたようなものだ。
子供の母親であろう女が、近くに座り込み、泣き叫んでいる。そちらに、ゴルジは右手を向けていた。バリバリと帯電する5本の爪から、今にも電光が発射されそうである。
ゴルジがその気になれば今すぐ即座に、子供は握り潰され、父親は踏み潰され、母親は灼き殺される。
無論そんな事になったとしても、魔人は何も困らない。哀れな人間の家族を気遣う理由など、この怪物は持っていないのだ。
なのに、魔人が動きを止めていた。
「貴様……!」
凶猛な眼光を怒りで燃え上がらせながら、しかし魔人は動かず、ただ拳を震わせている。
「ふん……思った通りよな」
叩きのめされ倒れていた人型甲虫3体が、起き上がった。
「よもや、とは思ったが……こやつ、人間を守るつもりになっておる」
「おぞましき怪物の分際で人間を気遣い守ろうなどと……身の程知らずがっ!」
1体が、電光をまとう爪を振るった。動くなと言われた通り、魔人はそれをかわそうともせず、まともに喰らった。
「ぐッ……」
包帯がちぎれ、飛び散った血飛沫が電熱で蒸発する。
紫の電光にバチバチッと絡まれながら、魔人は倒れていた。
そこを狙って2体の人型甲虫が、電撃光を発射する。
「人間を守るのは、このゴルジ・バルカウスの役目よ!」
「貴様などの出る幕ではないのだ、消え失せろ怪物!」
紫色の、極太の電撃光2本。その直撃を喰らった魔人が、のたうち回りながら吹っ飛んだ。たくましい裸の上半身のあちこちで皮膚が破裂し、露出した肉が灼かれて異臭を放つ。
凶猛な眼光を燃やす両目を苦しげに見開きながら、魔人は血を吐いていた。
(何故……どうして……?)
わけのわからぬ夢を見ている気分に、ミリエラはなっていた。
(魔人が、人間を……バルムガルドの民を、守っている……)
状況は、このままで良いはずなのだ。手負いの魔人を、ゴルジ・バルカウスがこのまま仕留める。集落の民を人質に取るやり方も、赤き魔人を倒すために使えるならば、むしろ効果的な戦術として認められるべきであろう。
頭ではわかっていながらミリエラは、鎧の下で己の肉体がメキ……ッと痙攣するのを止められなかった。自分の中の何かが、この状況に耐えられず、迸り出ようとしている。
ゴルジに掴まれたまま、子供が泣いている。母親も泣いている。父親は、人型甲虫に踏まれたまま呻いている。子供の名前を、呼んでいるようだ。
彼らを助ける理由など無いはずの魔人が、泣きも呻きもせず、悲鳴を噛み殺しながら、紫の電撃光に灼かれ続ける。のたうち回るその半裸身に、ゴルジの1体が蹴りを入れた。
放っておけば良い、とミリエラは頭では考えた。自分がやるべきだった事を、ゴルジが代わりにやってくれているのだ。誰の手によるものであれ、要は赤き魔人がこの世から消え失せれば良いのである。
(……何故?)
余計な事を、ミリエラはつい考えてしまった。
全身が、メキメキと痛む。鎧が、今にもちぎれ飛んでしまいそうだ。
何故、赤き魔人は死ななければならないのか。
バルムガルド王国を脅かす存在だからだ。国境の戦でミリエラの同胞4000人を虐殺したように、バルムガルドの民を大いに殺戮するであろう存在だからだ。
その怪物が、しかし3人のちっぽけな人間を、守ろうとしている。
(……何故?)
めきめきと歪みゆく頭蓋骨の中で、ミリエラは懸命に思考した。何故、自分は人間をやめたのか。
レボルト将軍と共に、この王国を守るためだ。バルムガルドの民を、守るためだ。
守るべき民が今、泣いている。踏みにじられている。
ミリエラの全身から、鎧がちぎれ飛んだ。
おぞましく痙攣しながら露わになったもの。それはもはや、恥じらい勿体つけて隠すような若い娘の裸、ではなくなっていた。
「将軍……申し訳、ありません……」